2026年5月20日
徳山駅の「ふぐのふるさと」碑、下関だけじゃないフグ文化の源流
徳山駅に立つ「ふぐのふるさと」の碑は、下関が有名なフグ文化において、周南市粭島が近代漁法の革新で果たした役割を示す。延縄漁発祥の地としての歴史的背景と、地域ごとの多様なフグ文化のあり方を伝える。
徳山駅に立つ「ふぐのふるさと」の碑
徳山駅、現在の周南市の中心駅に降り立つと、駅前広場の一角にふぐの像が据えられていることに気づく。その傍らには「ふぐのふるさと」という文字が刻まれており、多くの旅人は足を止め、その言葉に目を向けるだろう。ふぐと言えば山口県下関市が有名であり、そのイメージは全国的に定着している。しかし、なぜ下関ではない徳山の地が「ふぐのふるさと」を名乗るのか。この一見すると意外な表示は、山口県、ひいては日本のふぐ食文化の奥深さを問い直すきっかけとなる。
長き禁制と「ふく」解禁の地
日本のふぐ食の歴史は縄文時代にまで遡ると言われている。貝塚からは多数のふぐの骨が発掘されており、古代の人々がふぐを食していたことがうかがえるのだ。しかし、その歴史は常に平坦ではなかった。安土桃山時代、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際にふぐによる中毒死が相次いだため、「河豚食禁止令」が出されたとされている。この禁令は江戸時代を通じて続き、長州藩のように、藩士がふぐを食べて中毒死した場合、家禄没収・家名断絶という厳しい処分が科せられることもあったという。
この長い禁制の歴史が転換点を迎えるのは、明治時代に入ってからである。明治20年(1887年)、初代内閣総理大臣である伊藤博文が下関を訪れ、老舗料亭「春帆楼」に宿泊した際のできごとが発端となる。あいにくの時化で魚が獲れず、困り果てた女将は、罰を覚悟で禁制のふぐを御膳に出したという。伊藤博文はそのふぐの美味に「一身よく百味の相をととのえ」と感嘆し、翌明治21年(1888年)に山口県令(知事)に働きかけ、山口県内でのふぐ食を解禁させたのだ。これにより、春帆楼はふぐ料理公許第一号店となり、山口県はふぐ食文化の新たな起点となった。
粭島が育んだ漁法の革新
山口県がふぐ食解禁の地となったことは広く知られているが、その中で周南市(旧徳山市)が「ふぐのふるさと」と称する背景には、漁法における独自の歴史がある。周南市の沖合に浮かぶ小さな粭島(すくもじま)は、「ふぐ延縄(はえなわ)漁発祥の地」として知られているのだ。
延縄漁は、長い一本の幹縄に多数の枝縄と釣り針を取り付け、一度に多くの魚を釣る漁法である。ふぐ漁においては、その鋭い歯で釣り糸を切ってしまうことが課題であったが、明治10年頃に粭島の漁師たちによって、ふぐに傷がつきにくく、釣り針を取られないよう工夫された「粭島型釣り針」が考案された。さらに明治30年代には、漁師の高松伊代作氏によってこの漁法が改良され、その技術は県内外へと伝えられていった。この功績により、大正11年には平和記念東京博覧会で褒賞を受けている。
