2026年5月18日
博多のもつ鍋・水炊き、異なる起源から生まれた二大名物
博多のもつ鍋と水炊きは、それぞれ異なる歴史的背景を持つ。水炊きは明治期に異国の調理法を取り入れて発展し、もつ鍋は戦後の食糧難から生まれた庶民の知恵である。この記事では、両者の成り立ちと博多の食文化における位置づけを解説する。
賑わいの路地裏から立ち上る
博多の街を歩くと、夕暮れ時になると、どこからともなく出汁の香りが漂ってくる。それは、豚骨ラーメンのそれとはまた異なる、どこか懐かしいような、それでいて食欲を刺激する複合的な香りだ。多くの人が博多の食といえばラーメンを思い浮かべるだろうが、この街にはもう二つの「鍋」が深く根付いている。もつ鍋と水炊き。どちらも今や全国区の知名度を持つが、なぜこの博多の地で、これほどまでに定着し、独自の文化を築き上げたのだろうか。街の喧騒の中にそのルーツを探ると、それぞれの鍋がたどってきた異なる歴史が見えてくる。
異国の風が育んだ水炊き
博多の水炊きの歴史は、明治時代にまで遡る。その発祥には、長崎出身の林田平三郎という人物が深く関わっている。明治30年(1897年)、彼は料理を学ぶため香港へと渡った。そこで西洋料理のコンソメと、中国料理の鶏の水煮に出会う。帰国後、林田平三郎はこれらの調理法を日本人の味覚に合うように工夫し、明治38年(1905年)に福岡で水炊きの専門店「水月」を開業したとされる。これが博多水炊きの始まりだ。
当時の日本において、西洋料理のコンソメのような透明でコクのあるスープは珍しく、また鶏を丸ごと煮込む中国料理の手法も新鮮であっただろう。博多は古くから大陸との交流が盛んで、異文化を受け入れる土壌があった。林田平三郎の水炊きは、そうした国際都市博多の風土に合致し、瞬く間に評判を呼んだ。水炊きは、まず鶏肉を水から煮込み、その出汁で野菜などを楽しむという、鍋料理でありながらコース料理のような段階的な食べ方が特徴とされる。この食べ方もまた、西洋料理の影響を感じさせる側面がある。その後、「新三浦」などの料亭も創業し、水炊きは博多の食文化として定着していった。
戦後の知恵から生まれたもつ鍋
一方、もつ鍋の成り立ちは、水炊きとは対照的に、戦後の食糧難という厳しい時代背景から始まった。もつ鍋の起源は、第二次世界大戦終戦直後の混乱期に遡る。九州北部には筑豊炭田などの炭鉱地帯が広がり、過酷な労働に従事する炭鉱労働者たちが多く暮らしていた。そこで、本来は安価で捨てられることが多かった牛の内臓(もつ)を、彼らが食料として活用し始めたのが始まりとされている。
当時のもつ鍋は、ニラや唐辛子とともにアルミ鍋で煮て食べるシンプルなものであったようだ。当初は「ホルモン鍋」とも呼ばれていたという。1960年代に入ると、醤油ベースのスープで煮込む「すき焼き風」のスタイルが定着し、ごま油や唐辛子、ネギなどが加えられるようになる。この頃には、いつでも同じ野菜が手に入るようになり、キャベツなども具材として加わっていった。1990年代前半には、博多市内で専門店が次々と誕生し、テレビなどで紹介されたことをきっかけに全国的なブームを巻き起こした。特に、手頃な価格とボリューム、そしてコラーゲンが豊富であるという点が、女性を中心に支持を集め、二度のブームを経て全国に広まった。
