2026/7/2
尼崎ボートレース場は「蚊の温床」だった湿地帯を掘削して誕生した

尼崎ボートレース場の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
尼崎ボートレース場は、戦後の財政難と復興のため、人家密集地の湿地帯を掘削して建設された。競艇の収益は都市開発や公共事業に充てられ、現在も市の財政を支えている。
湿地帯に刻まれた水面
尼崎ボートレース場は、1952年9月14日に初開催を迎えた。これは全国で5番目に開設されたモーターボート競走場である。その立地は、かつて阪神本線沿いに広がる「大庄湿地帯」という、人家密集地のど真ん中に位置する広大な湿地を掘削して造られたものだ。この湿地帯は、かつては葦が密生し、不潔な汚水がたまる「蚊の温床」として、歴代の市長を悩ませてきた土地であったという。
戦後、尼崎市は深刻な財政難に直面していた。第二次世界大戦によって街は壊滅的な被害を受け、特に中心市街地は焼夷弾空襲により広範囲が焼失した。復興には膨大な資金が必要であり、特に水害対策としての防潮堤建設工事にも多額の費用が求められていた。このような状況下で、当時の阪本勝市長は、この大湿地帯を掘削して競艇場を建設し、その土砂で周辺の湿地を埋め立て、学校や公園用地を造成するという構想を抱いた。この発案には、競艇事業の生みの親とされる笹川良一との旧知の関係も影響したと言われている。
建設工事は、1952年5月に起工され、9月の初レース開催を目指し、わずか3ヶ月という突貫工事で進められた。工費は1億7千万円と見積もられたが、当時の市の財政状況は逼迫しており、一般市税からの支出は困難であったため、請負業者である阪神築港が大部分を負担し、競走の収益から支払うという異例の形が取られた。開業と同時に、阪神電鉄には「尼崎センタープール前駅」が臨時駅として設置され、1963年には常設化された。この「センタープール」という愛称は、阪本市長が「尼崎競走場を核として快適な街をつくっていくという意気込み」を込めて命名したものであり、レースのない時には少年少女のレクリエーションセンターとしても活用される、という展望が示されていた。
開業翌年の1953年には、伊丹市が施行者に加わり、全国初の「一競技場二施行者」という体制が確立された。これは、伊丹市もまた尼崎市と同様に戦後の財政難に苦しんでおり、競艇による財源確保を目指したためである。しかし、その後も競艇事業の道のりは平坦ではなかった。1960年から1962年にかけては、公営ギャンブルに対する社会的な批判の高まりを背景に、尼崎市でも競艇場の廃止問題が浮上し、約4年間にわたる激しい議論が繰り広げられた。最終的には、競艇によって得られる莫大な特定財源が、教育施設の充実や道路整備といった市民生活に不可欠な事業に貢献しているという実績が評価され、存続が決定されたという経緯がある。
都市再建の財源と水面の特性
尼崎にボートレース場が建設された背景には、戦後日本の地方自治体が直面した共通の課題、すなわち「地方財政の改善」と「戦災復興」という喫緊の目的があった。1951年に「モーターボート競走法」が可決され、公営競技として競艇が誕生したのも、地域経済の活性化と自治体の財源確保を目的としていた。尼崎市の場合、広大な湿地帯の活用と埋め立てという土地改良事業を一体的に進められた点が特徴的である。競艇場の掘削によって生じた土砂は、周辺の湿地帯埋め立てや、学校、公園用地の造成に利用され、まさに「一石二鳥」の都市計画であった。
尼崎ボートレース場の水面は、人工的に掘削された淡水プールである。水質は淡水で、全国でも屈指の「静水面」として知られている。水面を囲むフェンスや植樹が風よけになっているため、波立つことは稀で穏やかであるとされる。しかし、淡水は海水に比べて浮力が小さく、水面が硬いという特性を持つため、艇が跳ねやすく、選手の乗り心地が重要視される。
競走水面の設計にも特徴がある。尼崎ボートレース場は、1マークと2マークがほぼ一直線上に配置されており、1マークがスタンド側に振られていない。このコース形状は、一般的にインコースの選手が余裕を持って旋回できるため、イン逃げが決まりやすい傾向にあるとされている。実際、近年のデータでは1コースの1着率が60%を超えるイン優勢の水面へと変貌している。しかし、一方で対岸の広い1マークを生かしたセンター・アウト勢の「まくり」や「まくり差し」も決まりやすく、データ以上にバラエティ豊かな決まり手が生まれる「何でもあり」の水面と評されることもある。通年デイレースで開催されるが、季節によっては風向きがレース展開に影響を与える。特に冬場には「六甲おろし」と呼ばれる強い向かい風が吹き付けることがある。
こうした水面特性を持つ尼崎ボートレース場は、その開設以来、尼崎市にとって極めて重要な財源であり続けてきた。開業翌年の1953年には、尼崎市の開催レースで年間総売上11億700万円、純利益2,129万円を計上し、以後、純益は着実に伸びていった。昭和40年代には年間入場者数100万人を突破し、売上金は昭和39年度の46億円から昭和49年度には592億円へと急増した。バブル景気絶頂期の平成3年度には1158億円とピークを迎え、名実ともに尼崎の一大産業となったのである。現在に至るまで、モーターボート競走事業会計から一般会計への繰出額は累計でおよそ3,500億円に上り、尼崎市のまちづくりを支える貴重な自主財源となっている。
公営競技の多様な顔
尼崎ボートレース場の歴史を紐解く上で、戦後日本の公営競技が果たした役割について触れることは不可欠である。日本初の競艇は1952年4月6日に長崎県大村市で開催された。大村湾の穏やかな水面が競艇に適していたこと、そして戦災からの財政再建を求める地元の声が強かったことが誘致の背景にあった。尼崎が全国で5番目の競艇場として誕生したのも、大村と同様に、戦後復興の財源確保という切実な目的が根底にあった。実際、1952年から1953年の2年間だけで、全国26ヶ所の競艇場のうち17ヶ所が建設されており、この時期に公営競技が一斉に立ち上がったことがわかる。
全国の競艇場が共通して「地方財政の改善」と「各産業の振興」を目的としていた一方で、尼崎にはいくつかの独自性が認められる。一つは、広大な湿地帯という地理的条件を、競艇場の建設と周辺の土地埋め立て・造成という都市開発と一体で解決しようとした点である。これは、単に水面を利用するだけでなく、都市基盤の整備そのものに公営競技の収益を直結させるという、より積極的な開発思想が働いていたことを示唆する。また、「センタープール」という愛称に、単なる賭博施設ではなく、将来的なレクリエーションの中心地としての展望を込めた点も、当時の阪本市長の先見性を示すものだろう。
さらに、尼崎が全国初の「一競技場二施行者」体制を導入したことも特筆すべき点である。伊丹市が尼崎での競艇開催に加わった背景には、伊丹市もまた戦後の財政難に苦しんでいたという共通の課題があった。この仕組みは、一つの施設で複数の自治体が収益を分け合うことで、より広範な地域への財政貢献を可能にするものであり、現在では全国の競艇場の約半数がこの制度を取り入れているという。
一方で、全ての競艇場計画が実現したわけではない。例えば、北海道の赤平市や苫小牧市、宮城県の古川市などでは、炭鉱閉山後の財源確保などを目的に競艇場誘致が検討されたものの、閣議了解による公営競技施設の新設禁止や、地元の反対運動、知事の消極的姿勢などにより、計画段階で断念された事例も存在する。こうした事例と比較すると、尼崎が湿地帯の土地改良と財政難という二つの課題を同時に解決する「実利」を提示できたことが、計画実現の大きな要因であったと言える。水面条件についても、尼崎のような淡水の静水面が主流となる一方で、鳴門競艇場のように潮流の速い海峡を利用し、躍動感のあるレースを演出するという意図で選定された水面もあり、多様な地域特性が反映されている。
現代に開かれた水面と地域貢献
尼崎ボートレース場は、2010年4月からは「ボートレース尼崎」という呼称を使用し、開設から70年以上が経過した現在も、尼崎市の重要な公営事業として存続している。施設面では、2000年11月に新スタンドがリニューアルオープンし、2022年4月には、ボートレース場内に親子の遊び場「BOAT KIDS PARK Mooovi あまがさき」(モーヴィ)がオープンするなど、時代に合わせた改修と多角的な施設利用が進められている。このモーヴィは、発達段階に応じた多種多様な遊具・玩具を配置し、ボートレース場が地域住民、特にファミリー層にとっても「身近な場所」となることを目指しているという。プールや雪遊びといった季節イベント、阪神電車とのコラボイベントなども実施され、地域交流の拠点としての役割を模索している。
財政面では、ボートレース尼崎は現在も尼崎市の財政に大きく貢献しており、年間数十億円規模の収益を一般会計や基金に繰り出している。例えば、令和4年度(2022年度)の売上総額は635億円に達し、直近3年間では、年間約29億円から41億円が市の財源として活用されている。これらの収益は、単に市の運営費に充てられるだけでなく、市民生活に直結する具体的な公共事業に活用されている。具体的には、統廃合による学校の解体や校舎の増改築といった教育施設の充実、消防庁舎の建替え、休日夜間急病診療所の整備、あまよう特別支援学校のスクールバス更新、子どもの育ち支援センター新館の整備、農業公園の魅力向上事業など、多岐にわたる分野でその資金が役立てられている。
しかし、現代の公営競技を取り巻く環境は、開設当初とは大きく異なる。娯楽の多様化や少子高齢化は、競艇事業にも影響を与えている。特に、インターネットや電話による投票の割合が増加し、本場への来場者数という点では変化が見られる。これに対応するため、ボートレース業界全体で電話投票の拡大や、モーニングレース・ナイターレースといった開催形態の多様化を進めている。また、公営競技であるがゆえに、ギャンブル依存症対策も重要な課題として認識されている。ボートレース尼崎でも、相談窓口の設置、啓発ポスターの配布、未成年者の入場・舟券購入防止対策、専門機関との連携など、依存症対策に継続的に取り組んでいる。
水面に映る都市の変遷
尼崎ボートレース場の歴史を辿ると、それは単なるギャンブル施設の変遷ではなく、戦後日本の都市がどのように立ち上がり、変貌を遂げてきたかを示す一つの縮図であることに気づく。終戦直後の壊滅的な状況から、地方自治体が自らの手で財源を確保し、都市インフラを再建しようとした強い意志が、その創設には込められていた。大庄湿地帯の活用という現実的な課題解決と、競艇場の建設という新たな産業の創出が一体となったこの計画は、当時の尼崎市にとって、まさに生き残りをかけた戦略であったと言えるだろう。
当初は「蚊の温床」であった湿地が、ボートが疾走する水面へと姿を変え、その掘削土砂が街の基盤を築いたという事実は、現代に生きる私たちに、都市の風景が持つ多層的な意味を問いかける。阪神電車の車窓から見えるあの水面は、市民の娯楽の場であると同時に、戦後の混乱期に都市を支えた「金のなる木」であり、そして今もなお、教育や福祉といった公共サービスを支える縁の下の力持ちなのである。
「センタープール」という愛称に込められた、レクリエーションの中心地としての展望は、時代を経て形を変えながらも、現代の「Mooovi あまがさき」といった家族向けの施設へと受け継がれている。これは、公営競技が持つ収益性という側面だけでなく、地域社会との共存という新たな役割を模索する現代のボートレース場の姿を象徴している。尼崎ボートレース場は、その水面に、戦後の復興期から現代に至るまでの、尼崎という都市の変遷と、それに伴う人々の暮らしの変化を静かに映し出している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 尼崎競艇場(ボートレース場)は別名「センタープール」であり、阪神電車の駅名は「尼崎センタープール前駅... | レファレンス協同データベースcrd.ndl.go.jp
- 尼崎競走場 - apediaarchives.city.amagasaki.hyogo.jp
- kyotei-ranking.com
- amasui.org
- 日本財団図書館(電子図書館) 競艇沿革史nippon.zaidan.info
- 尼崎競艇場 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 総務省|一般戦災死没者の追悼|尼崎市における戦災の状況(兵庫県)soumu.go.jp
- Web版 図説尼崎の歴史-現代編archives.city.amagasaki.hyogo.jp