巨大な松林と浅い河口を持つ秋田・能代は、どのようにして物流とエネルギーの拠点であり続けたのか?

砂丘と河口が重なる場所で
米代川が日本海へと注ぎ出る秋田県北部の河口に立つと、まず目に入るのは視界を遮るほどの巨大な松林である。大森地区の海岸線から北を望むと、日本海の荒波の向こうに世界遺産・白神山地の壮大な山並みがうっすらと浮かび上がる。その手前には、南北14キロメートル、幅1キロメートルにおよぶ約700万本の黒松が密生する「風の松原」が横たわっている。一見すると落ち着いた近代的な工業港と風情ある景勝地に見えるが、地形の成り立ちを追うと、ここは本来「まともな港」が成立しにくい土地であったことが分かってくる。
日本海の強い西風によって海岸砂丘から吹き上げられる飛砂は、容易に集落を呑み込み、河口には山からの土砂が絶えず溜まる。背後に広がるのは、秋田杉を育む広大な出羽山地の森と、それを削りながら流れる米代川だ。港としては致命的な欠陥を持ちながら、この場所は飛鳥時代の古文書にまでその名が刻まれている。なぜ能代という土地は、自然の条件に抗うようにして、千数百年にわたり北東北の物流と軍事の結節点であり続けたのだろうか。
蝦夷征伐の船団から安東氏の城郭まで
能代が日本の表舞台に初めて姿を現すのは、今から1300年以上前に遡る。『日本書紀』によれば、658年(斉明天皇4年)、越国守の阿倍比羅夫が蝦夷を従わせるために180隻の大船団を率いて北征し、「飽田渟代(あぎたぬしろ)」に上陸したという。この「渟代」こそが、能代の最も古い記録上の名である。比羅夫の軍勢は翌年、翌々年にも遠征を重ね、第3回の北征では200隻もの船を引き連れてやってきたとされる。茫漠たる砂丘が広がる米代川の河口に、数百隻もの木造船が接岸する光景が繰り広げられていた。
古代の能代は、中央政権にとって北方世界への進出拠点であり、同時に大陸からの使者を迎える外への窓口でもあった。『続日本紀』には、771年(宝亀2年)に渤海国の国使である壱万福ら325人が船17隻で「野代湊」に着着したと記されている。遣唐使船よりも小型とはいえ、17隻で300人を超える渡来人を一挙に受け入れた事実は、当時の野代が単なる辺境の漁村ではなく、一定の船舶収容能力と補給機能を備えた港津だったことを示している。9世紀後半には、雄物川河口の秋田営と並び、軍事・交通の拠点として「野代営」という官立の機関が置かれるに至った。
しかし、この時期の「のしろ」は、現在私たちが目にする能代の市街地と同じ場所にあったわけではない。河口の移動や砂の移動、米代川の流路の変化に伴い、人々の暮らしの重心は移動を繰り返していた。18世紀に佐竹藩士の淀川盛品が著した『秋田風土記』などの記述によれば、古代の「渟代」の中心は現在の能代市街から内陸へ入った鶴形付近にあったと伝えられる。それが米代川の流路に沿って二井田、向能代へと移り、現在の市街地がある米代川南岸へと着地したのは戦国時代のこととされる。文献によれば、1556年(弘治2年)に最初の町支配である清水治郎兵衛政吉が現在の大町周辺に屋敷を構えたことが、現在の能代の町づくりの起点とされている。
この町づくりの背後には、中世に北羽一帯を支配した戦国大名・安東氏の存在があった。安東忠季は1495年(明応4年)、米代川下流の平野を見下ろす馬蹄形の尾根に「檜山城」を完成させた。現在の国指定史跡「檜山安東氏城館跡」である。安東氏は日本海を経由した樺太や蝦夷地との北方貿易を管轄し、莫大な富を蓄えた一族であった。彼らにとって、米代川の河口に位置する野代は、山からの物資を集め、海上の交易ルートへと接続するための決定的なキーパーツだったのだ。
安東氏の居城である檜山城は、本丸や三の丸だけでなく大館跡や茶臼館跡、国清寺跡などを含む広大な要塞群であり、米代川の水運を完全に掌握する位置に築かれていた。水深の浅い河口を通れる舟艇を扱い、内陸の鉱物や木材を運び出す流通網は、この時期に基礎が作られたと言える。
杉の流送と砂との闘いがつくった町
関ヶ原の戦いを経て出羽国に入った佐竹氏(久保田藩)は、能代の持つ物流拠点としての性格をさらに強化した。1611年(慶長16年)、佐竹義宣は能代に「材木受勘定所」を設置する。米代川の流域には、日本有数の良質な秋田杉の原生林が広がっていた。豊臣秀吉が京都の伏見城を改修する際にも大館の杉が能代港から搬出されたと伝わるが、久保田藩はこれを本格的な藩財政の柱へと育て上げた。
米代川の上流で伐採された巨木は、筏に組まれて川を流され、能代の材木場へと集められた。これを加工し、北前船に積み込んで江戸や大坂、北陸へと送り出す。能代は「木材の集積港」として日本海側有数の繁栄を謳歌することになった。
だが、繁栄の裏で能代の人々は二つの巨大な自然の脅威と戦わねばならなかった。一つは「地名」すら変えさせた自然災害である。1694年(元禄7年)と1704年(宝永元年)、この地域を相次いで大地震が襲った。被害の大きさから「野に代わる」という漢字表記は不吉であると嫌われ、「能く代わる」を意味する「能代」へと改名された歴史が残る。
もう一つの敵は、海岸から容赦なく吹き付ける飛砂であった。西風が吹くたびに砂丘から大量の砂が舞い上がり、畑を埋め、家屋を呑み込んだ。この壊滅的な被害に立ち上がったのは、行政ではなく民間の町人たちだった。1713年(正徳7年)、町人の越前屋久衛門と越後屋太郎右衛門の二人が、私財を投じて4,000本の黒松の苗木を海岸砂丘に植えた。これが現在の「風の松原」の始まりである。この志は後の町人たちや久保田藩にも受け継がれ、大規模な植林事業へと拡大していった。
明治時代に入ると、能代の木材産業は近代的な機械製材の導入によって爆発的な拡大を見せる。1907年(明治40年)には、東洋一の規模と謳われた「秋田木材株式会社」が設立され、能代は「木都市(もくと)」として全国にその名を知られるようになった。全国から買い付け木材が集まり、港は丸太で埋め尽くされた。
しかし、木材輸送の拠点となればなるほど、能代は地理的な限界に直面する。米代川が山から運んでくる大量の土砂が河口に堆積し、港の水深が極めて浅くなってしまったのだ。大型の汽船は港内に入ることができず、沖合3キロメートルから4キロメートルも離れた海上に停泊せざるを得なかった。そこから小舟を使って木材をピストン輸送する過酷で非効率な作業が、大正から昭和初期にかけて延々と続けられた。昭和10年代の最盛期には、年間数百隻の船が来航していたにもかかわらず、港の構造そのものは江戸時代の河港の域を出ていなかったのである。
酒田や小樽と何を分かつのか
日本海側に存在する他の拠点港と比較すると、能代という港町の特異性がより鮮明になる。たとえば、山形県の酒田港は、最上川の河口に位置する港として能代と非常によく似た構図を持つ。酒田もまた、最上川の水運を通じて出羽三山の文化や庄内平野の米、内陸の木材を集め、北前船の西回り航路の要衝として繁栄した。しかし、酒田は豪商・本間家に代表される商人主導の商業・金融都市としての性格を強く帯びて発達した。これに対し、能代は久保田藩の厳重な統制下に置かれた官立の資源搬出港であり、主産物が木材という特定の単一資源に特化していた点が異なる。
また、北海道の小樽港と並べてみるのも示唆的だ。小樽は石炭の積み出し港として、また北前船の到達点として急速に発展したが、そこには水深の深い天然の良港が存在していた。大型船が直接岸壁に横付けできる小樽に対し、能代は米代川が吐き出す泥砂によって常に港が浅くなるという致命的な宿命を背負っていた。天然の地形に恵まれた小樽と、天然の地形にことごとく見放されていた能代という対比が成り立つ。
ふつう、水深が浅く大型船が入港できない河口港は、鉄道網の発達や蒸気船の大型化に伴って衰退していく。新潟港のように信濃川の河口改修と大規模な港湾工事に成功した例もあるが、能代の場合は河口そのものを維持することを半ば諦め、全く異なる解を導き出した。
戦後の能代が取った策は、米代川の河口に頼るのをやめ、砂丘地帯の陸地を直接掘り込んで新しい人工港湾を造り出す「掘込港湾」への転換であった。昭和40年代から本格化したこの工事により、米代川の土砂流入から切り離された新しい港が完成した。1974年(昭和49年)には関税法上の開港指定を受け、5,000トン級の船舶が入港可能となった。自然の河口にしがみつくのをやめ、土地の形状そのものを力技で変えることで、能代は自らの命脈を繋ぎ止めたのだ。
火力発電から風力発電の基地へ
掘込港湾として生まれ変わった能代港は、木材だけの港からの脱皮を図る。その最大の転換点となったのが、東北電力による能代石炭火力発電所の立地である。1981年(昭和56年)、能代港は国家的な重要港湾およびエネルギー港湾に指定された。海外から大型輸入船で運ばれてくる大量の石炭を受け入れるため、6,0000トン級の大型船舶が着岸できる水深の深い桟橋や防波堤が整備されていった。
かつて山から切り出された秋田杉を外へ送り出していた能代は、今度は海外からエネルギー資源を呑み込み、東北全域へ電気を供給する拠点へとその役割を逆転させた。さらに2006年(平成18年)には「リサイクルポート(総合静脈物流拠点港)」に指定され、秋田県北部の鉱山技術やエコタウン計画と連携した循環型社会の物流基地としての顔も持つようになる。
そして現在、能代港は新たな時代の波の最前線に立っている。2020年(令和2年)9月、港湾法に基づく「海洋再生可能エネルギー発電設備等拠点港湾(基地港湾)」に初指定されたのだ。日本海からの強い風を受け止める沿岸沖合に、巨大な洋上風力発電用の風車を設置・維持管理するための重力耐性岸壁が整備され、すでに大型の風車群が海上に聳え立っている。
かつて町を埋め尽くした厄介者である「強い西風」が、現代においては洋上風力というグリーンエネルギーの源泉に変わった。港の西側に並ぶ巨大な風力発電のブレードと、先人たちが風と砂を防ぐために植えた風の松原の700万本の黒松が隣り合う風景は、能代という土地が辿ってきた自然との対話の歴史をそのまま映し出している。護岸に市民が描いた1,200メートルに及ぶ「はまなす画廊」や、港から望む白神山地の雄姿もまた、重工業的な港湾機能の中に溶け込んでいる。
移動する河口に留まり続けた理由
能代の歴史を振り返ると、そこには一つの共通したパターンが浮かび上がる。この町は一度たりとも「地理的に恵まれた港」であったことはない。強風と飛砂に晒され、川が運ぶ土砂で港は浅くなり、地震で地盤が揺れ、何度も集落の場所の移動を余儀なくされた。それにもかかわらず、飛鳥時代の阿倍比羅夫の北征から、渤海使の渡来、安東氏の檜山城、久保田藩の秋田杉搬出、そして現代のエネルギー基地に至るまで、能代は常に最前線の拠点であり続けた。
その理由は、能代が背後に抱える米代川流域という圧倒的な資源の存在にある。北東北の広大な森が生み出す木材、奥羽山脈から流れ出す水、鉱物資源。それらを外の世界へと押し出すための「唯一の出口」が、どうしてもこの米代川の河口周辺でなければならなかったのだ。港に向かない土地であるならば、防砂林を育てて砂を止め、港が浅くなれば沖合までハシケを出し、それでもダメなら陸地を掘り込んで港を造り直す。場所をずらし、港の構造を変え、扱う貨物を木材から石炭、そして風力発電設備へと塗り替えながら、能代は出口としての機能を維持し続けてきた。
北前船の時代、沖合に浮かぶ大型船と河口を行き来したハシケの船頭たちは、砂州の浅瀬に船底を擦らないよう絶えず水深を測っていたという。現在の能代港では、数十メートルの巨大な風車の部材を載せた特殊作業船が、補強された頑丈な岸壁に静かに横付けされている。時代の要請に応じて港の姿は原型をとどめないほど変わったが、内陸の資源と外洋の航路を結びつけるというこの土地の役割だけは、飛鳥の昔から何ひとつ変わっていない。
旅と食が好き。どこにでもいます。