激しい争奪戦と戊辰戦争の焦土から、資源の街はどのようにして蘇ったのか?

桂城公園の水堀に佇むとき
秋田県北部の市街地中央に、穏やかな水面をたたえた堀と土塁が残る公園がある。大館城の跡地につくられた桂城公園だ。かつてここが、建物から町並みに至るまで全土が激しい炎に包まれた現場だったとは、にわかには信じがたい。
一般に大館という土地は、秋田犬のふるさととして、あるいは秋田杉を丹念に削り出した「曲げわっぱ」の産地として語られることが多い。米代川の豊かな水系と盆地独特の気候が育んだ、静かな北国の城下町というイメージである。
しかし、歴史の頁をめくっていくと、この穏やかな盆地に刻まれた過酷な記録が浮き彫りになる。戦国期には北方の大名たちが凄惨な争奪戦を繰り広げ、江戸時代には「一国一城令」という幕府の絶対的な原則を破ってまで城が残された。そして幕末の戊辰戦争では、自ら城に火を放ち、町の大半を灰燼に帰す凄惨な決戦の場となったのである。
これほどまでに荒波に揉まれ続けた土地は、全国を見渡してもそう多くはない。単なる一地方の境界線に過ぎないこの盆地が、なぜ時代の大きな節目ごとにこれほど重い役割を担わされ続けたのだろうか。
北の境目をめぐる四相の泥沼
大館が歴史の表舞台で激しく揺れ動き始めるのは、室町時代末期から戦国時代にかけてのことだ。この地は出羽国の北端に位置し、陸奥国の津軽地方や南部地方と隣接する、極めて複雑な地理的接点にあたる。
天文19年(1550年)頃、地頭の系譜を引く比内浅利氏の浅利勝頼によって大館城が築かれたとされる。だが、ここを起点としてこの地は、浅利氏、日本海側の港湾を抑えた秋田氏(安東氏)、東方の陸奥を統治する南部氏、そして北方の津軽氏という四つの勢力が錯綜する「争奪の泥沼」へと引きずり込まれていった。
天正10年(1582年)、浅利勝頼は秋田(安東)愛季の企みによって謀殺される。大館城は秋田氏の支配下に置かれたが、それも束の間であった。天正16年(1588年)、城代の五十目兵庫が南部氏に内応し、大館城には南部側の武将が乗り込んでくることとなる。
その後も秋田氏による奪還、津軽為信を頼った浅利氏の再起の企てなど、領主はめまぐるしく入れ替わった。浅利氏の遺児である浅利頼平は、秋田実季との確執から豊臣政権下の司法判断に望みを託して大坂へ上ったが、慶長3年(1598年)に現地で急死し、浅利氏はついに滅亡の憂き目を見た。
関ヶ原の戦いを経た慶長7年(1602年)、大きな転機が訪れる。常陸国から出羽国へ国替えとなった佐竹義宣が秋田に入部したのだ。佐竹氏は北方の防衛線を固めるため、重臣である小場義成を大館に派遣した。
小場氏はのちに佐竹西家を名乗り、大館城代として代々この地を治めることになる。元和元年(1615年)、徳川幕府は「一国一城令」を発布し、大名家が所有できる城郭を本城ひとつに限定した。しかし久保田藩(秋田藩)においては、久保田城のほかに、南の横手城と北の大館城のふたつが「支城」として存続を認められたのである。
これは幕府に対する久保田藩の粘り強い交渉の結果であった。南部藩および津軽藩と境界を接する大館は、単なる地方の代官所では代替できない、絶対的な軍事拠点として機能し続けることを余儀なくされたのだ。
城代が自ら火を放った朝
大館の軍事的な重要性が、最悪の形で現実のものとなったのが慶応4年(1868年)の戊辰戦争(秋田戦争)である。
奥羽越列藩同盟に一旦は参加した久保田藩だったが、情勢を見極めて新政府側へと立場を翻した。これに激怒した隣国の盛岡藩(南部軍)は、慶応4年8月9日に宣戦を布告し、圧倒的な兵力で久保田藩領内へ侵攻を開始した。その最前線として標的になったのが、大館であった。
8月20日、盛岡藩軍は大館の東に位置する扇田村を占領し、火を放った。翌8月21日から22日にかけて、米代川を挟んで大館城攻城戦が火蓋を切る。盛岡藩軍が新式の銃器や大砲を揃えていたのに対し、久保田藩軍の防衛隊は戦国時代と変わらぬ火縄銃が主流であり、新式銃はわずか5丁という絶望的な兵器差であった。
久保田軍は長根山から米代川沿いに至る防衛線を敷き、地元のマタギや農兵を加えて必死の防戦を試みた。弘前藩からの応援部隊も加わったものの、精鋭を揃えた盛岡軍の猛攻と挟撃の前に防衛線は次々と突破されていった。
8月22日午前8時前、大館城代の佐竹義遵(佐竹大和)は決断を下す。敵の手へ渡ることを防ぎ、また背後の自軍の退路を確保するため、みずから大館城に火を放って西側のきみまち阪方面へと撤退を開始したのだ。
占領に成功した盛岡藩軍は焦土作戦を展開し、大館の城下町は猛火に包まれた。わずか29軒の家屋を残して町全体が消失したとされる。盛岡軍の参謀・楢山佐渡は「延寿元年」という独自の改元を布告し、自国の領有を宣言する標木を立てた。
だが、この悲劇的な占領は長くは続かなかった。西へ退いた佐竹軍は、新政府軍からの援軍を得て勢力を立て直し、激しい反撃に出た。9月6日には盛岡軍を自国領内へと押し戻すことに成功し、戦局は逆転する。
全焼した大館城の跡には、今も生々しい爪痕が眠っている。昭和25年(1950年)に行われた桂城公園のお堀の浚渫作業の際、泥の中から戊辰戦争当時の「ざくろ弾(炸裂弾)」が発見された。また、戦場となった扇田神明社の境内に立つ老杉の幹には、今も当時の弾痕がはっきりと刻まれている。
山城と鉱山町が同居した異形
これほど凄惨な破壊を経験した城下町でありながら、大館が歴史の表舞台から消え去ることはなかった。むしろ明治以降、この土地はまったく別の姿へと急速に貌を変えていくことになる。なぜ、これほどの再生が可能だったのだろうか。
それを解き明かす鍵は、同じ久保田藩の支城であった横手城下との比較、そして全国の一般的な「鉱山都市」との構造的な違いにある。
久保田藩の南の要衝であった横手は、広大な平野の農業生産性と、羽州街道を軸とした流通・商業によって栄えた伝統的な城下町であった。そこでは城を中心に武家地と町人地が整然と区画され、地域の安定した経済基盤が町を支えていた。
一方の大館は、単なる城下町ではなかった。大館盆地は、地上には広大な「秋田杉」の天然林を抱え、地下には無数の鉱脈をひそませる資源の宝庫であった。江戸時代から久保田藩は秋田杉の採掘・管理を厳重に行い、建築資材や曲げわっぱ、樽材としての加工業が発展していた。さらに藩内各地には数多くの鉱山が開かれ、銅や銀の採掘が行われていたのである。
全国にある多くの鉱山都市、たとえば佐渡や石見、あるいは足尾などは、鉱山の開掘とともに突如として山中に集落が形成され、鉱脈の枯渇や閉山とともに廃墟化するという単一のライフサイクルを辿ることが多い。城下町としての行政機能と、山林・鉱山都市としての資源抽出機能が別々の場所に分離しているのが一般的だったのだ。
しかし大館の場合、防衛のための山城・城下町という行政的・軍事的な枠組みの中に、豊かな森林資源と地下資源の供給地が最初から重なり合っていた。
戊辰戦争によって地上にあった建物や街並みが焼き尽くされたとしても、地下に眠る鉱床と、周囲の山々を覆う秋田杉という実質的な「資産」は一切失われていなかった。さらに大館には、江戸時代に久保田藩の藩校「明徳館」の分校として「博文書院」や「成章書院」が置かれ、武士のみならず庶民層にも学問の気風が根付いていたという背景がある。
地上の城下が灰燼に帰しても、知的な地盤と地下の資源、そして交差点としての交通網は残された。この複合的な構造こそが、壊滅的打撃からの驚異的な復興を可能にしたのだ。
黒鉱の街から循環の実験場へ
明治時代に入ると、政府による鉱山技術の近代化に伴い、大館の地下資源は本格的な爆発期を迎える。その主役となったのが「黒鉱(くろこう)」と呼ばれる複合硫化鉱であった。
黒鉱とは、銅、鉛、亜鉛のほか、金、銀、さらには多様なレアメタルを含んだ複雑な鉱石のことである。製錬が極めて難しい反面、非常に密度の高い有用金属の塊でもあった。
明治18年(1885年)、大館の北部に位置する花岡鉱山で大規模な鉱脈が発見される。花岡鉱山は日本の金属鉱山としては珍しい露天掘りなどを取り入れ、一大鉱床として拡大していった。大正5年(1916年)には大館駅から鉱山を結ぶ専用鉄道まで敷設され、最盛期には花岡地区だけで1万人を超える人々が暮らす鉱山都市が形成された。
さらに昭和30年代後半から40年代にかけて、大館を中心とする北鹿地帯(秋田県内陸北部)で「黒鉱ブーム」が巻き起こる。昭和37年(1962年)の釈迦内鉱山、昭和38年(1963年)の松峰鉱山の発見である。特に松峰鉱床は、鉱量約3,000万トンを誇る日本最大の黒鉱鉱床とされ、世界の鉱山学者や技術者から「KUROKO」の名で注目を集めた。
しかし、繁栄の歴史は永久には続かない。1985年のプラザ合意以降に進行した急激な円高と、海外産鉱石との価格競争、そして埋蔵鉱量の枯渇により、日本の鉱業は一気に冬の時代を迎える。昭和62年(1987年)に釈迦内鉱山が、平成6年(1994年)には花岡鉱山と松峰鉱山が相次いで閉山し、大館における数百年の鉱採掘の歴史は幕を下ろした。
だが、ここで物語は終わらない。黒鉱という複雑極まりない鉱石から多様な金属を取り出してきた精錬技術と化学処理のノウハウは、閉山後にまったく新しい用途へと転用された。
かつて鉱山を運営していたDOWAホールディングス(旧同和鉱業)グループは、鉱山跡地や施設を活用し、使用済み家電や産業廃棄物から金、銀、銅、レアメタルを回収・再資源化する、世界最高水準のリサイクル・環境事業の拠点へと大館を生まれ変わらせたのだ。地中から鉱石を掘り出す街から、地上に溢れる都市鉱山を還元する街へ。大館の地下技術は、時代を超えて循環型社会の最前線へと引き継がれている。
200キロの黒い鉱石の前で
城下町として築かれ、境界の要衝として軍事の重圧を背負い、自ら火を放つ焦土の底から資源都市としてよみがえった大館。その歴史を辿ってみると、この土地が常に「周縁でありながら、時代の本質的な負荷を引き受ける場所」であったことに気づかされる。
一国一城令の例外として残された支城構造も、戊辰戦争における壮絶な自焼も、戦後の高度成長期を支えた黒鉱の猛烈な採掘も、すべては中央の政治や経済の動向と直結した過酷な要請であった。大館という土地の凄みは、そうした外からの荒波に何度も打ち破られながらも、そのたびに足元に眠る天然資源と技術を再定義し、しぶとく姿を変えて生き残ってきた点にある。
桂城公園からほど近い大館郷土博物館の展示室には、かつて松峰や深沢の坑道から掘り出された、重さ200キログラムにおよぶ黒鉱の巨塊が鎮座している。黒と灰色の地肌に、微かに黄銅色の輝きを混ぜ合わせたその無骨な岩石は、金や銀、銅、鉛、亜鉛、そしてレアメタルが複雑に絡み合ったまま固まったものだ。
博物館の窓の外には、戊辰戦争の火災を奇跡的に免れた大館八幡神社の二連本殿の屋根が見え、その向こうには秋田杉の深い森を抱いた山々が連なっている。地上の歴史がどれほど激しく塗り替えられようとも、その足もとに蓄積された自然の産物と、それを活かそうとしてきた人間の技術の蓄積だけは、今も途切れることなくこの盆地に留まり続けている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 大館城攻城戦 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 大館城|日本全国の城をめぐる|つちやうみまるyamauchi-man.com
- 大館城tanbou25.stars.ne.jp
- 大館城joukan.sakura.ne.jp
- 大館城 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 大館市は戊辰戦争激戦の地!大館周辺の戦いから残されている文化財まで解説 - 秋田県大館市で「繊細さん×田舎×webライター×農業」で暮らすブログago-life.top
- 鉱石 | 大館市公式サイト|観光・市政・暮らし情報|大館というところ。city.odate.lg.jp
- 花岡鉱山 - Wikipediaja.wikipedia.org