2026/6/27
城のない城下町から生まれた近江商人、その「三方よし」の生存戦略

近江八幡と近江商人について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
豊臣秀次による城がわずか10年で廃城となった近江八幡。権力の庇護を失ったこの地から、なぜ全国を席巻する近江商人が現れたのか。彼らの「三方よし」の精神と、移動を重視したネットワーク経営の秘密に迫る。
堀の水面に映る不在の城
八幡堀のほとりに立つと、水の匂いよりも先に、石垣と白壁が作る静謐なリズムに目を奪われる。観光用の屋形船がゆっくりと波紋を描くこの運河は、かつて琵琶湖と町を繋ぐ巨大な大動脈だった。しかし、この町を歩いていて不思議に思うのは、立派な城下町の地割がありながら、その中心にあるべき「主」の気配が希薄なことだ。
標高270メートルほどの八幡山の頂には、かつて豊臣秀次が築いた城があった。だが、その城が機能していたのは、開町からわずか10年ほどの短い期間に過ぎない。主を失い、武士が去った後、この町は「城のない城下町」として取り残された。普通であれば衰退の一途をたどるはずの条件だが、近江八幡はそこから日本を代表する商人の都へと変貌を遂げた。
なぜ、権力の庇護を失ったこの土地から、天秤棒一本で全国を席巻する商人が次々と現れたのか。その答えを探すと、単なる経営の才覚だけではない、この土地特有の「空白」と、それを埋めようとした人々の執念が見えてくる。
わずか十年の城下町という宿命
近江八幡の町の骨格を作ったのは、織田信長の甥であり、後に豊臣秀吉の養子となった豊臣秀次である。1585年、18歳の秀次は近江43万石の領主となり、安土城下の民をこの地へ移して新たな城下町を築いた。彼は信長の「楽市楽座」を継承し、さらに琵琶湖を往来するすべての船に八幡堀への寄港を義務付けるという強引なまでの経済政策を打ち出した。
秀次が公布した「八幡山下町中掟書」12箇条には、商人の特権を認め、自由な商売を奨励する姿勢が鮮明に表れている。しかし、この「開祖」の時代はあまりにも唐突に終わる。秀吉に実子が生まれたことで秀次は謀反の疑いをかけられ、1595年に高野山で切腹。八幡山城は廃城となり、町は城主のいない幕府直轄領(天領)へと変わった。
この「廃城」こそが、近江商人の運命を決定づけた。城があれば、商人は城内の武士を相手に商売をしていれば生活が成り立つ。だが、城が消えた八幡の町衆には、養うべき武士も、守ってくれる主君もいなくなった。彼らに残されたのは、秀次が整えた碁盤の目状の町並みと、琵琶湖に通じる運河、そして「自由にしてよい」という商いの権利だけだった。
生き残るためには、外へ出るしかない。町衆は天秤棒を担ぎ、八幡堀から船に乗って、未知の土地へと行商に出かけていった。彼らが最初に目指したのは、当時まだ開発途上だった江戸や、遠く離れた東北の地である。城主がいなくなったことで生まれた「空洞」を、彼らは移動距離というエネルギーで埋めようとしたのだ。
八幡商人の強みは、最初から「帰るべき場所」として近江の本宅を維持し続けたことにある。家族や本店を近江に残し、主人や奉公人は数ヶ月、時には数年にわたって他国を渡り歩く。この「他国稼ぎ」のスタイルは、単なる出稼ぎではなく、近江という情報集積地と、各地の消費地を結ぶネットワーク経営の走りとなった。
三方よしという言葉の裏側にある生存戦略
近江商人の精神としてあまりにも有名な「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」という言葉。実はこのフレーズ自体は、江戸時代からあったものではない。近年の研究によれば、この言葉が広まったのは明治以降、あるいは戦後の研究者による造語に近い側面があると言われている。しかし、その根底にある思想は、1754年に麻布商の中村治兵衛が書き残した「宗次郎幼主書置」という家訓に明確に刻まれている。
そこには、「他国へ行商に出ても、その土地の人々が喜んで着てくれるように心がけ、自分の利益ばかりを考えず、神仏の恵みを大切にせよ」といった趣旨が記されている。これがなぜ「生存戦略」なのか。彼らはよそ者として他国に入り込む際、現地の商人や住民から激しい排斥を受けるリスクを常に抱えていた。
「自分たちだけが儲かればいい」という態度は、他国では命取りになる。地元の橋を直し、寺社に寄進し、飢饉の際には施しをする。そうして「世間」を味方につけることは、商売を継続するための不可欠なコストであり、防衛策でもあった。三方よしとは、高潔な道徳心であると同時に、アウェイの地で生き残るための極めて合理的な知恵だったのである。
商法においても、彼らは「産物廻し(諸国産物廻し)」と呼ばれる高度な流通システムを構築した。近江の麻布や日野の薬を東国へ運び、その売上金で現地の紅花や米を買い、それを上方で売りさばく。これを井原西鶴は「のこぎり商売」と呼んだ。引いても押しても利益が出る、という意味だ。
さらに驚くべきは、そのリスク管理の仕組みである。近江商人は、複数の商人が資本を出し合う「乗合商合」という、現代の合資会社に近い形態を江戸時代にすでに実践していた。一人の資本に頼らず、利益も損失も分け合う。また、複式簿記に似た独自の帳簿システム(帳合)を使い、遠隔地の出店を厳密に管理していた。天秤棒一本から始まった彼らは、やがて巨大な情報の商社へと進化していったのだ。
伊勢商人が「店」なら近江商人は「網」だった
江戸時代の巨大商人グループとして、近江商人と並び称されるのが「伊勢商人」である。三井家(三越)に代表される彼らと近江商人を比較すると、その戦略の違いが際立って見える。
伊勢商人の特徴は、江戸や大坂といった大都市に巨大な「店」を構え、そこで定価販売を行う「現金掛け値なし」のような革新的な小売モデルを確立したことにある。彼らは拠点を固定し、その場所のブランド力を高めることで富を築いた。いわば「拠点の商人」である。
対して近江商人は、最後まで「移動」を重んじた。もちろん江戸に店を構える豪商も現れたが、彼らの本質は常に、産地と消費地を繋ぐ「網(ネットワーク)」の中にあった。特定の巨大店舗に依存するのではなく、各地に小さな出店を張り巡らせ、情報の格差を利用して利益を生む。このスタイルは、現代の総合商社のビジネスモデルに極めて近い。
なぜ近江商人は、伊勢商人のように大都市に同化しなかったのか。そこには、近江という土地が持つ「多様性」が関係している。一口に近江商人と言っても、近江八幡(八幡商人)、日野(日野商人)、五個荘(湖東商人)では、扱う商品も気質も異なる。
八幡商人は蚊帳や畳表を扱い、いち早く江戸に進出した「先駆者」だった。日野商人は薬や漆器を扱い、行商ネットワークの密度で勝負した。五個荘商人は幕末から明治にかけて麻布や呉服で台頭し、近代的な商社へと脱皮していった。このように、地域ごとに異なる専門性を持ちながら、全体として「近江」という緩やかなブランドを共有していた。
この「多様な小集団の集合体」であったことが、時代の変化に対する強靭さを生んだ。一箇所がダメになっても、他のルートが生きている。伊勢商人が大都市の消費文化と心中する運命にあったのに対し、近江商人は常に新しい市場を求めて移動し続けることで、幕末から明治への大転換期をも乗り越えることができた。現在も伊藤忠商事や丸紅、西川、高島屋といった企業が近江をルーツに持っている事実は、その柔軟なネットワーク型のDNAが近代資本主義と相性が良かったことを示している。
埋め立ての危機を救った「後悔」という言葉
現在の近江八幡を象徴する八幡堀の風景は、実は一度失われかけた歴史を持つ。1970年代、高度経済成長の影で、使われなくなった堀はヘドロが溜まり、悪臭を放つ「どぶ川」と化していた。市は衛生上の理由から、この堀を埋め立てて駐車場や公園にする計画を立てた。
その時、立ち上がったのは地元の青年会議所を中心とした市民たちだった。「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」という、あまりにも重い言葉を合言葉に、彼らは自ら泥にまみれて清掃を始めた。当時の行政や多くの市民は、埋め立てこそが「近代化」だと信じていた時代である。保存運動は孤立無援に近い状態から始まったが、やがてその熱意が行政を動かし、埋め立て計画は撤回された。
この運動が特筆すべきなのは、単に「古いものを残そう」という感傷ではなかった点だ。彼らは、八幡堀こそが近江商人のアイデンティティの源泉であり、これを失うことは町の歴史の背骨を折ることに等しいと直感していた。結果として、再生された八幡堀は日本初の「重要文化的景観」に選定され、今では年間数百万人を惹きつける観光資源となっている。
また、この町にはもう一つの異質な風景が溶け込んでいる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した数多くの洋風建築だ。明治末期、英語教師として来日したヴォーリズは、この地で建築設計事務所を興し、メンソレータム(現メンターム)を広め、病院や学校を建てた。
なぜ、保守的とも思える商人の町が、青い目の異邦人をこれほどまでに受け入れたのか。ヴォーリズの「建築の風格は人間と同じで、外観よりむしろ内容にある」という思想は、質素倹約を旨とし、目に見えない「信用」を第一とした近江商人の倫理観と深く共鳴したからではないか。和菓子屋の「たねや」が、ヴォーリズとの交流から洋菓子(クラブハリエ)を始めたエピソードは、この町の「外から来るもの」に対する不思議な寛容さを象徴している。
不在が形作った自立の風景
近江八幡の町を歩き終えて改めて八幡堀を見下ろすと、かつてここに城があったという事実が、遠い神話のように感じられる。もし秀次が失脚せず、八幡山城が存続していたら、この町はどこにでもある穏やかな城下町として歴史に埋もれていたかもしれない。
城主という「頼るべき中心」を奪われたことが、結果としてこの町の人々に、自分の足で立ち、遠く他国へ目を向けることを強いた。近江商人の「三方よし」や「しまつして、きばる(倹約して励む)」という精神は、豊かな環境から生まれた余裕の産物ではない。それは、何もない空白の地から、いかにして持続可能なシステムを築くかという、切実な問いへの回答だった。
伝統とは、形を変えずに守ることではない。むしろ、生き残るために形を変え続けるプロセスの集積を指すのだろう。材木商から種屋、そして和菓子、洋菓子へと業態を変えながら名前を繋いできた「たねや」の歴史や、1566年の創業以来、蚊帳から布団へと主力商品を変えてきた「西川」の歩みには、その「変化への執着」が通底している。
八幡堀の石垣に積まれた時間は、単なる過去の遺物ではない。それは、中心を失った者が自らの手で作り上げた、自立の記録である。夕暮れ時、観光客が去った後の堀端に立つと、かつて天秤棒を担いでこの道を歩き出した男たちの、静かな足音が聞こえてくるような気がする。彼らが求めたのは、一時の富ではなく、自分がいなくなった後も続く「世間」との健やかな関係だった。その願いは今も、埋め立てを免れた水の流れの中に、静かに息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 歴史的建造物誕生を探る! 近江商人発祥の町並みと八幡堀[滋賀県]| コベルコ建設機械ニュース(Vol.261) | コベルコ建機 日本サイトkobelco-kenki.co.jp
- 近江商人の「三方よし」を学ぶ | 茶堂chadeau.com
- 【日本ふるさと紀行3】近江八幡(滋賀県)~近江商人とヴォーリズと 中尾隆之 - 観光経済新聞kankokeizai.com
- 近江商人「三方良し」の起源と意味や経営における使い方shikumikeiei.com
- 近江商人から学ぶ - オーダースーツ 名古屋 オーダージャケットなら『トリプレッタ』tripletta.net
- 近江商人について|【公式】近江八幡市観光情報サイトomi8.com
- 近江八幡ライフスタイルツーリズム①八幡堀、徹底解剖。|特集|【公式】近江八幡市観光情報サイトomi8.com
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