木曽路の五平餅はなぜ味噌ではなく醤油と木の実のタレで、団子型なのか?

炭火から立ち上る、焦がし醤油とナッツの香り
木曽路の宿場町を歩いていると、どこからともなく香ばしい匂いが漂ってくる。五平餅の看板を見かけて足を止めると、炭火の上でじっくりと炙られているのは、多くの人が思い浮かべる大きな平たい板状の餅ではない。竹串に刺さっているのは、小ぶりな団子が二つ、三つと連なった愛らしい姿である。
そして何より違うのは、その表面を覆うタレの質惑と香りだ。一般的な五平餅といえば、赤味噌や信州味噌を甘辛く練り上げた濃厚な味噌ダレを想像する人が多い。しかし、木曽谷の店先で網に乗せられているタレは、褐色の中に細かな粒がびっしりと混ざり合い、火に触れると味噌のそれとは明らかに異なる、乾いた香ばしさと奥深いナッツの油分を含んだ香気を放つ。
舐めてみると、塩味の芯にあるのは味噌ではなく醤油であり、舌の上でほどけるのは胡桃とエゴマ、胡麻の重層的なコクである。なぜ木曽路では、味噌ではなく醤油が選ばれ、胡桃とエゴマが主役の座を占めているのか。街道をわずかに外れれば味噌ダレが主流を占めるこの中部山岳地帯にあって、木曽谷だけがこの独特の調合を守り続けてきたのはなぜなのだろうか。
木曽の谷と中山道が育んだハレの日の記憶
五平餅の起源には、山林地帯ならではの幾つかの伝承が存在する。その昔、深い山に入った木こりや猟師たちが、作業の合間に握り飯を平たく潰し、手近な木の皮や板切れに貼り付けて焚き火で焼いて食べたのが始まりだという説。あるいは、神事に用いられる「御幣(ごへい)」の形に似せて米を整え、山の神への供物として捧げたことから「御幣餅」と呼ばれるようになったという説である。島崎藤村の代表作『夜明け前』の中にも、木曽の山村で珍重される郷土の味として五平餅を囲む描写が登場するように、この地において五平餅は単なる日常の間食ではなく、特別なハレの日の食べ物であった。
急峻な山々に囲まれた木曽谷は、平坦な農地が極めて乏しく、冷涼な気候もあって米の収穫量が非常に限られていた。日常の主食はヒエやアワ、ソバや雑穀が中心であり、純粋な白米は貴重品そのものであった。秋の新米の収穫時や、年に一度の村祭り、あるいは遠方から大切な客を迎える席でなければ、うるち米を存分に炊くことなどできなかったのである。貴重な白米を炊き上げ、すり鉢や臼で粒が半分残る程度に粗く潰す。完全に餅にしてしまわずに米の食感を残す「半殺し」の状態にすることで、米の甘みを引き出しつつ、少量の米でも食べ応えのある形へと仕立て上げた。
木曽路における五平餅の形が小さな団子型になった背景にも、山仕事の携行食としての実用性が関係しているといわれる。平たいわらじ型に比べて、団子型は熱が芯まで均一に通りやすく、焚き火の端に刺して手早く炙るのに適していた。また、一本の串に複数の団子を刺す形は、家族や仲間内で取り分けて分け合うのにも都合が良かった。
この食文化は、江戸時代に整備された中山道という大動脈に沿って定着していった。信州と美濃を結ぶ中山道の宿場町——馬籠宿、妻籠宿、須原宿、奈良井宿といった町並みの中で、旅人をもてなす茶屋の名物として洗練されていったのである。注目すべきは、長野県内における五平餅文化の分布である。五平餅の北限は、中山道の難所である鳥居峠を越える手前、奈良井宿付近と長年言われてきた。奈良井宿より北の松本平や北信地域へ向かうと、主食の主役は小麦や蕎麦粉を用いた「おやき」や「すいとん」などの粉食文化へと劇的に切り替わる。米が極めて貴重な山間部でありながら、街道の宿場町として人の往来が盛んだった木曽谷の地理的条件が、米を使った特別なご馳走としての五平餅をこの地に留め、発展させる土壌となった。
山の恵みの油脂と、美濃から届く醤油の調合
木曽路の五平餅を決定づけているのは、胡桃、エゴマ、そして醤油の組み合わせである。なぜ味噌ではなくこの三者が選ばれたのかを解き明かすには、木曽谷の植生環境と物流の構造を見る必要がある。
第一に、山がもたらす貴重な油脂分の存在である。平地での稲作や養豚などの畜産が難しかった木曽の山間集落において、自給できる重要なカロリー源かつ脂肪分となったのが、山に自生する「オニグルミ(山胡桃)」と、畑の隅や痩せた傾斜地でも育つ「エゴマ(十念)」であった。オニグルミは市販の洋胡桃に比べて殻が非常に硬く、実を取り出すのに膨大な手間がかかるが、その分油分が濃密で野趣あふれる強い風味を持つ。エゴマもまた、噛み潰した瞬間に独特の青い清涼感と芳醇な油分が広がる種実であり、中部山岳地帯では古くから貴重な栄養源として栽培されてきた。
木曽の家庭では、すり鉢の中に煎ったエゴマや胡桃を入れ、油が滲み出て滑らかなペースト状になるまで丹念にすり潰す。ここに砂糖とみりん、そして醤油を加えてタレを練り上げる。この調合において、味噌を使わない、あるいはごくわずかな隠し味程度にとどめることには明確な味覚の理由がある。大豆を発酵させた味噌は、それ自体が非常に強烈な旨味と特有の発酵香を持っている。もし濃厚な味噌をベースにしてしまうと、手間をかけてすり潰した胡桃の繊細な甘みや、エゴマの微細な香気が味噌の力強い風味に覆い隠されてしまうのだ。
木の実や種子そのものがすでに濃厚なコクと油脂分を十分に蓄えているため、調味料に求められるのは「コクを足すこと」ではなく、「香ばしさを引き締め、輪郭を与えること」になる。そこで選ばれたのが醤油であった。醤油の塩気とアミノ酸、そして加熱されたときに立ち上るメイラード反応の芳香は、胡桃やエゴマの持つ天然のナッツオイルと完璧に調和する。火にかざされた餅の表面で、木の実の脂質と醤油の糖・アミノ酸が混ざり合って沸き立ち、焦げ目がついた瞬間に生まれる風味は、味噌ダレのそれとはまったく異なる軽やかさと深い奥行きを生み出す。
さらに、物流の歴史も見逃せない。木曽谷は信州に属しながらも、木曽川の水運や中山道を通じて、経済的・文化的には美濃(岐阜県)や尾張との結びつきが極めて強かった。南信の伊那谷が三河へと通じる伊那街道を通じて豆味噌や塩の文化を強く受け入れたのに対し、木曽路は中山道を通じて美濃の醸造文化と直結していた。岐阜の東濃地域では古くから醤油ベースに落花生や胡麻、胡桃を合わせたタレが親しまれており、木曽路のタレはその美濃の醤油文化と木曽の山林資源(山胡桃・エゴマ)が中山道の上で融合した結果生まれたものといえる。
街道ごとに分化する、三つの五平餅文化圏
五平餅というひとつの郷土食を俯瞰すると、中部山岳地帯の中で見事な地域的グラデーションを形成していることがわかる。その分化は、主に「どの街道に沿って文化が伝播したか」、そして「背後にある農業・醸造基盤が何であったか」によって三つに大別できる。
第一は、愛知県の三河・奥三河地方を中心とする「三河・三遠南信エリア」である。ここの五平餅は、大きな草履のような「わらじ型」や平たい小判型が主流である。タレの基本は八丁味噌に代表される濃厚な豆味噌、あるいは米味噌に砂糖をたっぷり混ぜ込んだ甘辛い味噌ダレである。温暖で大豆の栽培や味噌醸造が盛んであった平野部・中山間部の食文化を反映しており、ずっしりとした餅の大きさと、力強くコクのある味噌の風味が特徴となる。
第二は、長野県の伊那谷(伊那市や飯田市周辺)を中心とする「伊那街道エリア」である。この地域では小判型の餅が広く普及しており、タレには信州味噌が主軸として使われる。ただし三河の豆味噌一辺倒とは異なり、たっぷりのすり胡麻を味噌に練り込んだ「胡麻味噌ダレ」が好まれる。伊那街道は古くから三河と信州を結ぶ塩の道であり、三河の味噌文化と信州の米味噌、そして胡麻の風味が合流した地点として成立している。また、下伊那郡阿南町の新野地区などには、神棚に供える幣束の形を忠実に模した波型の「幣束型五平餅」が受け継がれており、祭祀の供物としての原型を強く残している事例もある。
第三が、岐阜県東濃地方から長野県木曽谷へと続く「中山道エリア」である。ここでは形状が平たい小判型から愛らしい「団子型」へと変化し、タレの基軸が味噌から完全に「醤油と木の実」へと移行する。東濃では落花生や胡麻をブレンドした香ばしいタレが好まれ、さらに山深い木曽谷に入ると、自生する山胡桃やエゴマの比率が一段と高まる。
同じ「五平餅」という看板を掲げながらも、三河の味噌文化、伊那の胡麻味噌文化、そして木曽の中山道・木の実醤油文化は、それぞれ全く異なる生態系と街道の交易史を背負っている。米を粗く潰して串に刺し、タレを塗って炭火で焼くという共通のフォーマットを用いながら、その土地で最も手に入りやすく、かつ最も贅沢とされた素材をタレに注ぎ込んだ結果が、この明確な地域差となって現れているのだ。
宿場の炭火と、山村の手仕事が支える現在地
現代の木曽路において、五平餅はかつてのようなハレの日の特別な供物ではなく、観光客を迎える名物料理として宿場町の日常に溶け込んでいる。妻籠宿の石畳沿いにある茶屋や、奈良井宿の格子戸が連なる町並み、大桑村の街道沿いの店などでは、今も注文を受けてから団子を炭火にかざし、手作りのタレを重ね塗りして焼き上げる光景が見られる。
しかし、その伝統的な製法を維持することには、現代ならではの苦労も伴っている。特にタレの決め手となるオニグルミの確保は容易ではない。山に入って自生するオニグルミを拾い集め、天日で干し、硬い殻を一つひとつ金槌で割って中の実を針でほじくり出す作業は、途方もない時間と手作業を要求する。そのため現在では、手に入りやすい落花生や胡麻を適度にブレンドして味のバランスを整えたり、地元の農家が栽培するエゴマを安定的に仕入れる仕組みを作ったりと、各店舗や加工所で様々な工夫が重ねられている。
一方で、五平餅の食文化そのものは、近年新たな広がりを見せている。かつて五平餅の「北限」とされてきた奈良井宿を越えて、長野県内の中信・東信、さらには北信地域の小中学校の学校給食に五平餅が導入されるケースが増えているのだ。長野県伊那市にある食品会社などが、新米の時期に合わせて子どもたちに郷土の食文化を伝える食育の一環として五平餅の製造・供給を広げたことで、今や県内100校以上の給食メニューに採用されているという。
家庭で作られる機会は減少しつつあるものの、真空パックの技術向上によって木曽路の味をそのまま全国へ届ける試みも進んでおり、道の駅や土産物店では、団子型の餅と特製の胡桃・エゴマ醤油ダレがセットになった商品が定番として親しまれている。
山林の油脂と街道の調味料が結実した形
五平餅という食べ物は、単なる「素朴な田舎の焼き団子」ではない。それは、平地が極端に少なく稲作に適さなかった木曽谷の人々が、限られた貴重な白米をどうにかして最高のご馳走に仕立て上げようとした知恵の結晶である。
一般に、日本料理においてコクを出す調味料といえば味噌がその代表格として君臨してきた。しかし木曽谷の人々は、味噌に頼る必要がなかった。周囲の深い森には油分を豊富に含んだ山胡桃が実り、痩せた段々畑には芳香に満ちたエゴマが育っていたからだ。彼らが求めたのは、味噌の強烈な旨味で木の実の味を塗りつぶすことではなく、中山道を通じて美濃から運ばれてくる醤油のキレと香ばしさを使い、木の実の脂質と香気を最大限に引き出すことであった。
木曽路の五平餅が他地域の味噌ダレ・わらじ型と異なり、団子型で胡桃やエゴマを用いた醤油仕立てになっているのは、単なる好みの違いではない。それは、山林が与えてくれる天然の脂質資源と、中山道という交通路がもたらした醸造文化が、険しい谷あいの地で出会った必然の結末であった。
炭火の上でプツプツと泡立ち、香ばしい煙を上げる褐色のタレ。その一串には、山に生きる人々が自然の恵みを丹念にすり鉢ですり潰し、街道を行き交う旅人をもてなしてきた、木曽谷の歴史と風土がそのまま焼き付けられている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 五平餅本舗ふるや:中山道木曽路名物・郷土の味覚「五平餅(12本詰/20本詰)」タレがセットの真空パックのお取り寄せは百選横丁hyakuyoko.com
- 【楽天市場】五平餅本舗ふるや:中山道木曽路名物・郷土の味覚「五平餅(20本詰)」タレがセットの真空パック:百選横丁 楽天市場店item.rakuten.co.jp
- ただ今、北上中! 地域で形もタレも異なる「五平餅」 給食で見直され「北限」越える郷土食 | 長野県内のニュース | NBS 長野放送nbs-tv.co.jp
- 木曽路ごへい餅 | 有限会社宴物産utage-shop.com
- 五平餅 | 木曽谷とりっぷkiso-nagano.ne.jp
- 今話題の「五平餅」情報 | 是より木曽路blog.nagano-ken.jp
- 五平餅 ( 木曽奈良井宿 きむら くるみとえごまのタレ ) - こぶた食堂 (*´(00)`*)39kobuta.blog.fc2.com
- 五平餅の魅力を徹底解説!地域ごとの味わいと歴史を探る|五平餅のつぐや | ブログ | 五平餅のお土産なら株式会社つぐやtsuguya.site