なぜ平らではなく急坂の尾根に宿場を開いたのか、馬籠宿の空間構造はどのようにしてつくられたのか

尾根の傾斜に連なる石畳の違和感
宿場町と聞けば、多くの人は平坦な街道の両脇に旅籠や茶屋が整然と並ぶ姿を思い浮かべる。ところが、中山道四十三番目の宿場である馬籠宿(岐阜県中津川市)へ足を踏み入れると、その先入観は最初の数十歩で覆される。街道は平らであるどころか、見上げるような急坂となって山の尾根へとまっすぐに伸びている。
足元に敷き詰められた石畳を踏みしめながら坂を上がっていくと、左右に立ち並ぶ格子戸の町家、勢いよく水煙をあげる水車、そして背後に広がる美濃の山並みが視界に飛び込んでくる。宿場の最上部にある見晴台に立てば、真正面に恵那山(標高2,191メートル)の雄大な山容がそびえ立っている。ここはかつて信濃国(木曽十一宿)の最南端であり、美濃国との境に位置していた。
一般に、宿場町は旅人や馬が足を休め、荷物の継ぎ立てを行うための交通結節点である。そうした機能から考えれば、荷駄の積み下ろしや人馬の往来に過度な負担を強いる急傾斜の尾根道は、宿場の立地として極めて不合理に思える。街道沿いの平坦な谷間や山裾に宿を構える選択肢はいくらでもあったはずだ。
なぜ馬籠は、あえてこの険しい坂の尾根に宿場を開き、維持し続けたのか。そして明治維新による宿駅制度の廃止や幾度もの大火を経験しながら、なぜ今なお当時の気配を色濃く残す空間として立ち現れているのだろうか。
美濃と信濃の狭間で刻まれた宿場の変遷
馬籠宿の歴史を紐解くには、まず木曽路という地理的空間の特殊性を確認する必要がある。島崎藤村の長編小説『夜明け前』の冒頭、「木曽路はすべて山の中である」という一節で知られる木曽谷は、深い山々と木曽川の急流に挟まれた険隘な地形である。江戸時代、徳川幕府が五街道を整備した際、東海道が海沿いを進むのに対し、中山道は内陸の山間部を縫うように設定された。そのなかで木曽の山並みを貫く約八十キロメートルの区間には、贄川から馬籠に至る十一の宿場、いわゆる「木曽十一宿」が置かれた。
馬籠はその木曽十一宿の最も西、美濃国落合宿(現在の中津川市落合)へと下る直前の標高約六百メートルの山腹に位置する。この地が宿場として定められた慶長年間の初頭、街道のルート選定には軍事的な防衛と水害の回避という二つの大きな制約があった。
谷底に道を拓けば、大雨のたびに谷川が氾濫し、道床が流失する危険が常に付きまとう。木曽川沿いや支流の谷底は軟弱地盤や崩落の危険地帯が多く、街道を維持管理する幕府や尾張藩にとって維持コストが高すぎた。一方で尾根道は、地盤が強固で水害を受けにくく、周囲を見渡せるため軍事的な警戒にも適している。こうして、標高差のある山の尾根に沿って街道を通し、そこに宿場町を形成するという、全国的にも極めて珍しい「坂の宿場町」が成立した。
宿場の構造として決定的な転換点となったのは、江戸時代初期に施された宿場町独自の都市計画である。馬籠宿は南北に約六百メートルにわたって伸びる坂道に沿って形成されたが、宿場の下入口(南側)には「枡形(ますがた)」と呼ばれる直角に折れ曲がる道が造られた。これは街道を意図的に屈曲させ、敵の直進を阻み、見通しを遮るための防衛構造である。下から攻め上がってくる外敵に対し、宿場全体が一つの城塞のような役割を果たす構造になっていたのだ。
宿場町としての馬籠は、尾張藩領の木曽谷において重要な役割を果たした。馬籠宿の本陣・庄屋・問屋の三役を代々務めたのが島崎家である。島崎家は木曽谷の南の玄関口として、参勤交代で行き交う大名や公家、幕府の役人を迎え入れ、公用通行のための人馬を常備する義務を負った。
しかし、明治維新は馬籠に激震をもたらす。明治維新によって宿駅制度が廃止され、公用の宿泊需要が一気に失われた。さらに追い打ちをかけたのが、明治後期から大正期にかけての中央本線の開通である。鉄路は木曽川沿いの谷筋を通ることになり、山上の尾根に取り残された馬籠宿は、近代交通の幹線ルートから完全に外れてしまった。
衰退の危機に瀕した馬籠に追い打ちをかけたのが、二度の大火である。明治二十八年(1895年)と大正四年(1915年)の火災により、島崎家の本陣をはじめとする宿場の建物の大半が焼き尽くされた。宿場町としての命脈を断たれ、建物すら失った馬籠は、一時は歴史の舞台から完全に退場しかけたのである。
坂道と水路が形づくる生活の仕掛け
なぜ馬籠宿は、大火によって木造建築の大半を失いながらも、今日見られるような風格ある景観を保ち得たのか。その背景には、地形に逆らわず、傾斜を生活のエネルギーに変えてきた独自の空間構造と、地域の再建意識の重なりがある。
馬籠の景観を決定づけているのは、街道の中央や脇を流れる澄んだ水路と、坂道の勾配である。尾根の傾斜地である馬籠には、大きな河川が存在しない。そのため背後の恵那山系から湧き出る細い水流を宿場の最上部で集め、街道の傾斜に沿って階段状に流し落とす水利システムが江戸時代から緻密に構築されていた。
この水路の水は、かつては生活用水や防火用水として厳格に管理されていた。坂の町において最も恐ろしいのは火災である。下町で起きた火は、谷から吹き上げる風に乗って一気に上町へと駆け上がる。大火を経験した馬籠の人々は、水をただ流すのではなく、随所に防火用の枡や水槽を設け、さらに今も町内の要所に防火用の消火設備や消火栓を整備して景観と調和させている。
また、傾斜による落差を利用した水車は、単なる風情ある添え物ではなく、かつては精米や製粉の動力源として実用的に稼働していた。水が坂を流れ落ちる力を余すところなく利用する仕組みが、町の背骨として組み込まれていたのである。
もう一つの重要な要因は、大火後の再建における敷地割り(地割)の継承と、昭和期の景観整備である。明治と大正の大火で建物は灰燼に帰したが、江戸時代から続く間口が狭く奥行きが深い短冊状の宅地割や、石垣による段々状の造成はそのまま残された。住民たちは再建にあたり、土台となる石垣を補修し、傾斜に合わせて家屋を建て直した。
さらに昭和初期、島崎藤村の長編小説『夜明け前』が広く読まれるようになったことで、馬籠は「藤村の故郷」「近代日本の夜明けの原風景」として文化的な価値を帯び始める。昭和二十年代には藤村の生家跡に「藤村記念館」が建設され、谷口吉郎の設計による記念堂などが整えられた。高度経済成長期に入ると、失われつつあった宿場の風情を取り戻すため、アスファルト舗装されていた坂道が風情ある石畳へと整備された。
馬籠の景観は、江戸時代の遺構がそのまま真空パックされて残ったものではない。尾根の急坂という厳しい自然地形、水害と火災への対策、そして文学を通じたアイデンティティの再発見が幾重にも重なり合い、意図的に守り育てられてきた空間なのである。
妻籠・奈良井との対比に見る空間の特異性
木曽路の宿場町を語る際、必ず比較されるのが隣宿である妻籠宿(長野県南木曽町)や、鳥居峠の麓に位置する奈良井宿(長野県塩尻市)である。この三宿は同じ木曽十一宿に属しながら、立地条件と保存の経緯において対照的な性格を持っている。
まず、妻籠宿との違いである。馬籠宿から馬籠峠を越えて約七・三キロメートル北東に進んだ先にある妻籠宿は、全国で初めて町並み保存に取り組んだ地域として知られる。妻籠宿は蘭川(あららぎがわ)沿いの比較的緩やかな谷底平坦地に位置しており、江戸時代後期の宿場建築が火災を免れて奇跡的に数多く現存している。妻籠は「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を住民憲章に掲げ、江戸時代の木造建物を可能な限りそのまま残すという厳格な保存路線をとった。そのため、妻籠宿に漂うのは、時が止まったかのような重厚で均一な江戸の静けさである。
これに対して馬籠宿は、前述のように大火によって江戸期の木造建築の多くを失っている。しかし、馬籠には妻籠にはない圧倒的な地形のダイナミズムがある。急勾配の坂道、視界が開ける見晴台、段差のある屋根の重なりなど、三次元的な空間の面白さである。妻籠が「建物の原形保存」によって宿場のリアリティを保っているとすれば、馬籠は「地形と地割の構造」によって宿場の気配を現代に接続している。
一方、木曽十一宿の中で最も栄え「奈良井千軒」と謳われた奈良井宿は、南北約一キロメートルにわたって直線的な平坦道が続く平地型の宿場町である。奈良井宿は街道に面して出桁造りの町家が隙間なく並び、宿場町としての巨大なスケール感と商家の賑わいを伝えている。千本格子や袖壁がどこまでも続く水平の美学が奈良井の持ち味だ。
これら二つの代表的な宿場と並べることで、馬籠宿の特異性がより鮮明になる。馬籠は水平に連なる町ではなく、垂直にせり上がる町である。山深い木曽谷の閉塞感から抜け出し、美濃の平野へと視界が開ける「境界の峠道」としての開放感と緊張感を併せ持っている。建物そのものの古さだけで測れば妻籠や奈良井に譲る部分があるかもしれないが、山と街道、水と石畳が織りなす地形劇としての宿場景観において、馬籠は唯一の立ち位置を占めている。
現代の街道を歩く人々と受け継がれる日常
現在の馬籠宿を訪れると、そこには単なる観光地にとどまらない、活発な街道文化の現在地が広がっている。かつて旅人が草鞋で越えた坂道は、今や世界各地から訪れるハイカーたちの歩行ルートとして再発見されている。
特に顕著なのが、馬籠宿から妻籠宿へと抜ける約八キロメートルの古道トレッキングである。世界的旅行ガイド『ロンリープラネット』で高く評価されたことを契機に、欧米を中心に数多くの外国人旅行者がこの地を訪れるようになった。彼らの多くはバスや車で名所を駆け抜けるのではなく、馬籠に宿をとり、自らの足で峠を越えて妻籠へと歩く。街道沿いのゲストハウスは外国人客で賑わい、地元観光協会による馬籠・妻籠間の手荷物配送サービスなど、歩く旅人を支える仕組みも稼働している。
宿場の坂道沿いには、往時を偲ばせる茶屋やみやげ物店が並ぶ。香ばしい醤油とエゴマのタレを塗って香ばしく焼き上げる団子型の「五平餅」や、野沢菜や茄子を包んだ素朴な「おやき」、栗きんとんといった郷土の味が、今も手軽な旅の軽食として受け継がれている。街道を行き交う旅人が軒先で立ち止まり、熱々の五平餅を頬張る光景は、江戸時代の茶屋の風景と何ら変わりがない。
2020年には「島崎藤村宅(馬籠宿本陣)跡」が日本遺産「木曽路はすべて山の中~山を守り 山に生きる~」の構成文化財に追加認定され、歴史的景観の価値が改めて位置づけられた。また、中央自動車道神坂スマートインターチェンジの整備により、広域交通からのアクセス性も向上している。
しかし、観光の賑わいの裏には現代固有の課題も横たわる。急増するインバウンドへの対応や多言語案内の不足、担い手となる地元住民の高齢化や事業後継者不足である。さらに、歴史的な町並みの風情を維持しながら、住民の日常生活の利便性をどう確保するかという問題も常に存在する。歩行者の安全と石畳の保護のため、宿場内では昼間の車両通行止めが行われているが、こうした細かなルールの積み重ねによって、坂の上の生活景観はぎりぎりの均衡で保たれている。
境界の町が紡ぎ直した時間の層
馬籠宿という空間が私たちに与える発見は、失われた歴史の痕跡を惜しむことではなく、制約の多い土地を人間がどう住みこなしてきたかという知恵の蓄積である。
尾根の急坂という宿場には不向きな地形を水利と防衛の利点に変え、度重なる大火で町が灰になっても地割と石垣の骨格を手放さず、時代の変化に合わせて坂道を石畳へと整え直した。島崎藤村が『夜明け前』で克明に描いたように、馬籠は江戸から明治という巨大な時代の転換期に翻弄されながらも、自らの土地の記憶を文学と景観の両面で紡ぎ直してきた場所である。
見晴台から恵那山を眺め、背後に続く急な石畳の坂を見下ろすとき、そこに見えるのは単なる古い町並みではない。山と平野の境界に立ち、地形の厳しさを引き受けながら、街道を行き交う無数の旅人を迎え入れ続けてきた人々の確かな足跡である。
坂道の水路を流れる水の音と、今も軒先に置かれた消火用の設備が、この急峻な宿場町が生きてきた時間の長さを静かに物語っている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 馬籠宿 | 中津川観光協会公式Webサイトnakatsugawa.town
- 馬籠宿|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」kankou-gifu.jp
- 馬籠宿(まごめじゅく)/中津川市city.nakatsugawa.lg.jp
- 中山道馬籠宿の藤村記念館(公式サイト)toson.jp
- 地元から“嬉しい悲鳴”…岐阜・中津川の観光地「馬籠宿」に外国人観光客が殺到|FNNプライムオンラインfnn.jp
- 世界的旅行雑誌でTOP25に選出…国内外からの旅人を迎える『馬籠宿』伝統的な街並みを守る“桶”の役割 | 東海テレビNEWStokai-tv.com
- 目的は一体何なのか…外国人観光客が急増中の岐阜・中津川市『馬籠宿』海外に刺さった“2つのグルメ”|FNNプライムオンラインfnn.jp
- 馬籠観光協会kiso-magome.com