2026/6/3
夷隅の米、梨、いちご、たけのこ…多様な作物が育つ理由

夷隅のあたりは、どのような作物が獲れるのか?詳しく知りたい。
キュリオす
夷隅地域では、約1,500年前から良質米が獲れ、肥沃な粘土質の土壌「夷隅統」が米の甘みと粘りを生み出している。温暖な気候と多様な地形は、日本なし、いちご、食用ナバナ、たけのこなどの栽培も可能にしている。
夷隅地域が農業の中心地として認識される歴史は古い。約1,500年前、いすみ市がまだ「伊甚(いじみ)」と呼ばれていた時代には、アワビなどの海産物と並んで良質米が豊富に獲れ、朝廷の重要な直轄地であったという記録が残る。 近代に入ると、いすみ米の前身である上総国吉米は、東京や関西の市場で高値で取引され、いすみ鉄道の前身である木原線国吉駅周辺では、秋になると出荷を待つ米俵が駅舎からあふれるほどだったと伝えられている。
この米作を支えてきたのは、夷隅川がもたらす肥沃な土壌である。夷隅川流域に広がる粘土質の土壌は「夷隅統(いすみとう)」と名付けられ、ミネラルを豊富に含むことで知られている。 この特殊な土壌が、いすみ米特有の粘りと甘み、そして香りを生み出す基盤となっているのだ。 皇室献上米にも選ばれた実績は、その品質の高さを物語るものだろう。
夷隅地域は年間平均気温が摂氏16.0度前後と比較的温暖で、年間降水量も約2,000ミリメートルと農業生産に適した気象条件にある。 この温暖な気候と、海岸地帯、夷隅川流域の平坦地帯、そして中山間の谷津田地帯という多様な地形が、米以外の幅広い作物の栽培を可能にしている。
水稲が地域の農業生産の中心である一方、園芸作物も盛んに栽培されている。特に「日本なし」は、いすみ市を中心に栽培され、その品質の高さから市場で評価が高い。 幸水、豊水、そして大玉で糖度が高いとされるあきづきといった品種が主力で、千葉県が梨の生産高で全国1位を誇る中で、「一宮・岬梨組合」の梨は、大きさと甘さ、そして早出し産地として知られている。
また、近年注目を集めているのが「いちご」である。海からのミネラルを含んだ水と砂浜に近い畑で栽培されるいちごは、独自の風味を持つ。 中には、ビニールハウスではなく露地で、農薬や化学肥料を使わずに栽培される「昔いちご」のような取り組みも見られる。 その他、ブルーベリーや柿、キウイフルーツといった果樹も直売を中心に栽培されている。
野菜では、「食用ナバナ」が裏作として盛んに生産され、集落営農や定年帰農者、新規就農者の取り組みが見られる。 大多喜町を中心に生産される「たけのこ」は、粘土質の土壌で育つため色が白く、苦味やえぐみが少ないのが特徴で、関東有数の産地として知られる。 落花生も栽培されており、千葉県全体で落花生栽培150周年を記念するイベントが開催されるなど、地域に根差した作物である。
千葉県には「多古米」「長狭米」「夷隅米」という三大銘柄があるとされるが、いすみ米の特色は、その肥沃な粘質土壌「夷隅統」に由来する強い粘りと甘み、そして冷めても美味しいとされる食味にある。 一般的に、米の食味はタンパク質含有量が低いほど粘りが強く、美味しさを感じやすいとされるが、いすみ米の一部ブランドでは、食味値81以上、タンパク質6.9以下という厳選された基準で出荷されているものもある。 これは、単に「米が獲れる」だけでなく、「高品質な米を育てる」ことに特化した地域の姿勢を示すものだろう。
また、梨の栽培においても、千葉県全体で生産量が多い中で、いすみ地域は「早出し産地」としての地位を確立している。 これは、温暖な気候条件を最大限に活かし、市場の需要に合わせた出荷時期を狙う戦略的な取り組みの表れである。他の産地との競争において、気候と技術を組み合わせた差別化を図ってきた歴史がうかがえる。
一方で、いすみ市が近年特に力を入れているのが「有機農業」への転換である。2012年頃から市ぐるみで有機農業を普及させ、現在では学校給食に使用される米は100%有機栽培米となっている。 これは全国的に見ても先進的な取り組みであり、単に作物を生産するだけでなく、地域の環境保全や食育、さらには持続可能な地域社会の実現を目指すという、農業の多面的な価値を追求する姿勢が明確である。他の地域が効率化や大規模化を追求する中で、いすみ市は「自然との共生」という異なる軸で農業の未来を描こうとしている。
いすみ市の農業は、米を基幹としつつも、梨やいちご、食用ナバナ、たけのこ、スプレーストックなど、多角的な生産体制を築いている。 しかし、多くの地方と同様に、高齢化による農家の廃業や作付面積の減少といった課題も抱えている。 地域農業を支える担い手の育成・確保は喫緊の課題であり、新規就農者の支援や、定年帰農者、農村女性の積極的な受け入れが進められている。
梨栽培では、生産者の高齢化や園地の老木化が進む中で、新規就農者の育成体制整備や生産性向上対策が講じられている。 例えば、女性梨栽培技術講習会の開講や、農福連携による労働力確保の多様化など、柔軟な発想で課題解決に取り組む姿が見える。
また、有機農業への取り組みは、地域のブランド力向上にも繋がっている。日本航空のファーストクラス機内食に採用された有機米「いすみっこ」のように、高品質で環境に配慮した農産物は、首都圏の市場でも評価を得ている。 地域内の未利用資源を活用した土着菌完熟堆肥センターの設立など、循環型農業の推進も進んでおり、水稲だけでなく、小規模多品目の野菜でも有機栽培を広げようとしている。 これは、単なる生産効率の追求ではなく、地域全体で食の安全と環境負荷低減を目指す、より広範な視点に立った農業のあり方を示している。
夷隅地域の作物は、温暖な気候と肥沃な土壌という自然条件が基盤にある。しかし、それだけではない。夷隅川が育む平野部の水田と、丘陵地で展開される果樹や野菜の栽培、そして森林から得られる特用林産物、さらに沖合の豊かな漁場がもたらす海の幸。 これらが一体となって、この土地ならではの多様な恵みを生み出している。
有機農業への先進的な取り組みは、この里山と里海のつながりを意識したものであろう。土壌の健康は川を通じて海へ、そしてそこで育まれる海の幸へと繋がる。この循環の中で、いすみは単一の作物に特化するのではなく、自然の恩恵を多角的に受け入れ、それを次世代へと繋ぐための工夫を重ねている。夷隅の地で獲れる作物の多様性は、その土地が持つ自然の豊かさと、それに向き合う人々の営みの重層性を映し出している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。