2026/6/23
平安京以前の京都盆地は、なぜ「扱いにくい土地」から千年の都になったのか

京都の歴史について詳しく教えて欲しい。平安京ができる前はどうだったのか?古代から奈良時代まで
キュリオす
京都盆地は、平安遷都以前、巨椋池などの湿地と原野が広がる「扱いにくい土地」だった。秦氏の土木技術と賀茂氏の祭祀が土地を「乾かし」、水運の利便性と地形的安定性を両立させた平安京は、過去の遷都の失敗を乗り越えた究極のハイブリッド都市だった。
湿り気を帯びた盆地の底で
京都の街を歩いていると、ふとした瞬間に足元の地面が「かつては水の下だった」ことを思い出させる場所がある。たとえば、地下鉄烏丸線の工事中に三条通付近で見つかった縄文時代の土器や、北白川の扇状地に眠る膨大な石器の破片だ。それらは、794年の平安遷都という華々しい幕開けよりはるか以前から、この盆地が人々の営みの場であったことを雄弁に物語っている。
現代の私たちは、京都を「碁盤の目の整然とした都市」として捉えがちだ。しかし、桓武天皇がこの地を選び取る前、京都盆地は決して住みやすい平原ではなかった。北から流れ込む鴨川と桂川、そして南に広がる巨大な遊水池である巨椋池(おぐらいけ)。盆地の底は湿地と原野が入り混じり、ひとたび雨が降れば泥濘と化す、制御の難しい土地だったのである。
なぜ、そんな「扱いにくい土地」が、やがて千年の都として選ばれるに至ったのか。そこには、平安京という巨大な完成品が姿を現す前に、数百年かけてこの土地を「乾かした」人々が存在した。彼らが山を削り、川を堰き止め、湿地に杭を打ち続けた歴史の積み重ねがなければ、平安京の栄華は物理的に成立し得なかっただろう。京都の歴史を遡るということは、華やかな貴族文化の背後に隠された、泥臭い土木と開拓の記憶を掘り起こす作業に他ならない。
秦氏の土木と賀茂氏の祈り
平安京が造営される300年以上前、5世紀後半の京都盆地にはすでに決定的な転換点が訪れていた。朝鮮半島から渡来した技術者集団、秦氏(はたうじ)の入植である。彼らは当時、新羅からもたらされた最新の土木技術を携えていた。
秦氏が本拠地としたのは、現在の右京区太秦(うずまさ)から嵯峨野にかけての一帯だ。当時のこの地域は、暴れ川として知られた桂川(当時の葛野川)が頻繁に氾濫する場所だった。ここで秦氏が行ったのは、単なる開墾ではない。彼らは嵐山の渡月橋付近に葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる巨大な堰を築き、川の流れを制御することに成功した。
この堰によって引き込まれた水は、それまで湿地だった嵯峨野一帯を豊かな水田へと変えた。単に農業生産性を上げただけではない。水を制したことで、この土地は「都市を支える食糧基地」としての機能を獲得したのである。太秦という地名の由来について、『日本書紀』には、秦酒公(はたのさけきみ)が献上した絹糸が「うず高く積まれた」ことから「うずまさ」と呼ぶようになったという伝承が残るが、その富の源泉は、紛れもなくこの高度な水利技術にあった。
秦氏が残した痕跡は、今も巨大な遺構として街の中に埋もれている。住宅街の真ん中に突如として現れる蛇塚古墳(へびづかこふん)がそれだ。全長約75メートルの前方後円墳だったとされるこの古墳は、現在は墳丘が失われ、巨大な石室だけが露出している。その石室の規模は、奈良の石舞台古墳に匹敵し、床面積では全国第4位を誇る。これほどの巨石を運び、組み上げる財力と技術が、平安京以前の京都にはすでに備わっていた。
一方で、盆地の北部、鴨川の上流へと勢力を広げていたのが賀茂氏である。彼らは在来系の氏族であり、自然への畏敬を基盤とした祭祀を司っていた。現在の上賀茂神社(賀茂別雷神社)や下鴨神社(賀茂御祖神社)の起源は、平安遷都よりはるかに古い。賀茂氏が祀る「別雷(わけいかづち)」の神は、文字通り雷を分ける、すなわち天候を制御し、農業の安定を祈る神であった。
秦氏という「技術」の主体と、賀茂氏という「祈り」の主体。この両者が、盆地の西と北をそれぞれのやり方で統御していたことが、後の遷都を支えるインフラとなった。秦氏が創建に関わった広隆寺や松尾大社、伏見稲荷大社といった古社寺は、平安京ができる前からこの土地の「守護」として機能しており、桓武天皇はそれらをいわば「居抜き」で利用する形で、新しい都のグランドデザインを描くことができたのである。
四神相応の裏にある水運の合理性
平安京の立地を語る際、東に青龍(鴨川)、西に白虎(山陰道)、南に朱雀(巨椋池)、北に玄武(船岡山)を配した「四神相応の地」という風水的な説明がなされることが多い。しかし、当時の権力者たちが求めたのは、単なるスピリチュアルな安心感ではなかった。彼らが真に必要としたのは、巨大都市を維持するための物流ネットワーク、すなわち「水運」の利便性だった。
京都盆地の南端には、かつて巨椋池という巨大な湖が存在した。周囲約16キロメートル、面積約800ヘクタールにも及ぶこの池は、桂川、宇治川、木津川の三川が合流する巨大な遊水池であり、同時に近畿地方における水上交通のハブ(拠点)でもあった。
平城京(奈良)から都を移す際、最大の課題となったのは「物資の輸送」である。奈良は内陸にあり、大和川を通じた水運には限界があった。対して京都盆地は、淀川を通じて瀬戸内海、さらには九州や大陸へと繋がる一級の国際物流ラインの終着点に位置していた。巨椋池は、全国から運ばれてくる年貢や資材を一時的に集積し、小型の舟に積み替えて盆地の奥深くへと送り出す、巨大な港湾施設のような役割を果たしていたのだ。
この水運の利便性を最大限に活用しようとしたのが、784年に遷都された長岡京である。長岡京は、巨椋池の西岸、現在の向日市や長岡京市付近に位置していた。ここは桂川と淀川の合流点に近く、物流の観点からは極めて合理的な選択だった。しかし、この「水への近さ」が、長岡京の致命的な弱点となる。
長岡京の造営を主導した藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は、秦氏の血を引く人物であり、その財力と技術を背景に驚異的なスピードで都を建設した。しかし、種継の暗殺という政治的動乱に加え、追い打ちをかけるように氾濫が都を襲った。水運を重視するあまり、低湿地に近すぎた長岡京は、当時の治水技術の限界を超えてしまったのである。
平安京への再遷都は、この「長岡京の失敗」を教訓にしている。平安京の立地は、長岡京よりもさらに北へ、つまり盆地の奥まった「わずかに高い場所」へとシフトした。水運の利を巨椋池や淀川に残しつつも、生活圏を水害から守るための絶妙な距離感。それが、四神相応という言葉で美化された土地選択の正体だった。平安京のメインストリートである朱雀大路の南端、羅城門の先には、かつてこの巨大な水系が広がっており、都の人々は常にその水の気配を感じながら暮らしていたのである。
平城京の閉塞と長岡京の挫折
京都という場所の特異性を理解するためには、同時期の他の都と比較してみるのが最も分かりやすい。特に、平城京(奈良)と長岡京の存在は、平安京がなぜ「最強の選択」であったかを浮き彫りにする。
平城京は、744年続いた安定した都であったが、その立地は「内陸の袋小路」という側面を持っていた。都を維持するためには膨大な木材や食糧が必要だが、それらを運ぶ大和川は川幅が狭く、大型の輸送には向かなかった。さらに、長年の定住によって山々の木々は伐採され、環境悪化が進んでいた。平城京の後半期には、仏教勢力が政治に深く介入し、天皇の権威を脅かすほどの力を持ち始めていたことも、遷都を促す大きな要因となった。
これに対し、桓武天皇が最初に挑んだ長岡京は、極めて「近代的な合理性」に基づいた都だった。平城京のような宗教的しがらみを断ち切り、水運という物流インフラを最優先に設計された。しかし、長岡京はわずか10年で放棄される。その理由は、前述した水害や政治事件だけではない。長岡京の設計そのものが、あまりにも「水」に依存しすぎていたため、防衛面や衛生面での脆弱さを露呈したのだ。
ここで興味深いのは、平安京への遷都が「長岡京の北へのスライド」であったという点だ。平安京は、長岡京のインフラを一部引き継ぎながらも、地形的な安定性を求めて北東の扇状地へと移動した。これは、平城京が「盆地の中心」にこだわったのとは対照的である。平安京は、北と東を山に囲まれ、自然の要塞としての機能を持ちつつ、南には開けた水路を確保するという、極めてバランスの取れた配置を実現した。
また、奈良時代に短期間だけ存在した恭仁京(くにきょう)との比較も示唆に富む。聖武天皇が木津川市付近に造営しようとした恭仁京は、美しい自然に囲まれていたが、平城京や平安京のような「広大な平地」を欠いていた。都としての拡張性に乏しかったのである。
こうして見ると、平安京以前の数々の遷都の歴史は、いわば「京都盆地という巨大なパズル」の正解を探し当てるまでの試行錯誤の過程だったと言える。平城京の閉塞感を打破し、長岡京の脆弱さを克服する。その答えが、秦氏が耕し、賀茂氏が守ってきた、盆地の最奥部にある高台だったのである。平安京は、過去のすべての都の「失敗」を栄養にして誕生した、究極のハイブリッド都市だった。
住宅街に沈む巨大な石室の風景
現在、京都の街を歩いて平安京以前の気配を最も強く感じられるのは、やはり右京区の太秦界隈だろう。嵐電(京福電鉄)がのんびりと走る住宅街の中に、突如として鉄柵に囲まれた「空き地」のような空間が現れる。それが蛇塚古墳だ。
かつては75メートルもの威容を誇った前方後円墳も、今では墳丘の土が削り取られ、周囲を民家に囲まれている。しかし、露出した石室の中に一歩足を踏み入れれば、その圧倒的なスケールに言葉を失う。高さ5メートルを超える巨石が整然と積まれた空間は、ここが1300年以上前から「力を持つ者」の土地であったことを静かに主張している。平安京の華やかな朱塗りの柱が立つ数百年前に、これほどの石の建築物がこの場所にあったという事実は、京都の歴史の奥行きを物理的に突きつけてくる。
また、太秦の蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)に足を運べば、秦氏がもたらした養蚕と機織の文化が、単なる伝説ではないことがわかる。境内にある「三柱鳥居」は、三つの鳥居を三角形に組み合わせた特異な形状をしており、その中心には神座が設けられている。この鳥居が指し示す方向は、秦氏の聖地である稲荷山、松尾山、双ヶ丘であるという説がある。平安京という巨大なグリッドが敷かれる前に、すでにこの土地には、特定の山々を結ぶ独自の聖なるネットワークが存在していたのだ。
さらに南へ目を向ければ、伏見の深草一帯も秦氏の拠点であった。伏見稲荷大社の裏山である稲荷山には、4世紀後半に遡る古墳が点在しており、秦氏がこの地に定着する前から、山そのものが信仰の対象であったことを示唆している。秦氏は、そうした土着の信仰を巧みに取り込みながら、自らの技術と財力を融合させていった。
今の京都の地図から消えてしまった巨椋池の痕跡も、地名の中に生き続けている。槇島、向島、中書島。これらの「島」が付く地名は、かつてそこが広大な水面に浮かぶ陸地であった名残だ。昭和初期の干拓事業によって巨椋池は農地へと姿を変えたが、今もこの一帯を歩けば、周囲よりわずかに低い土地の起伏や、水路の複雑な入り組み方に、かつての巨大な遊水池の面影を見出すことができる。
平安京以前の京都は、決して「何もない原野」ではなかった。そこには、巨大な石室を築く技術があり、暴れ川を制御する知恵があり、山や水を畏れる祈りがあった。現代の観光客が通り過ぎる何気ない路地や、住宅街の小さな段差の中に、平安京という巨大な「上書き」を突き破って、それ以前の骨格が今も顔を覗かせている。
「居抜き」としての千年の都
京都の歴史を平安京以前まで遡って見えてくるのは、桓武天皇という一人の天才が白紙のキャンバスに都を描いたという物語の修正である。平安京は、ゼロから創造された都市ではなく、秦氏や賀茂氏といった先住民たちが数百年かけて作り上げた「高度なインフラ」の上に、天皇という権威が看板を掛け替えた、壮大な「居抜き物件」だったのではないか。
秦氏が桂川を堰き止めて湿地を乾かしていなければ、平安京の広大な条坊を引くことは物理的に不可能だった。賀茂氏が北の山々を神域として守り、水系を管理していなければ、都の飲料水や衛生環境を維持することはできなかった。平安京の造営費用や労力の多くを秦氏が負担したという記録は、この新都がいかに既存の地方勢力の基盤に依存していたかを裏付けている。
興味深いのは、平安京が完成した後も、これらの「先住の痕跡」が完全に消し去られることはなかった点だ。むしろ、平安京というシステムの中に、秦氏の技術や賀茂氏の祭祀は不可欠なパーツとして組み込まれていった。葵祭(賀茂祭)が都の最重要行事となり、秦氏の氏神である松尾大社や伏見稲荷が「皇城鎮護」の要として崇敬されたのは、新参者である天皇家が、この土地の真の支配者である「水と土の記憶」に敬意を払わざるを得なかったからだろう。
私たちは京都を「千年の都」と呼ぶが、その千年の時間を支えたのは、さらに数百年遡る「開拓の時間」だった。平安京という華麗な上着を脱がせてみれば、そこには巨石を積み上げ、泥にまみれて川を塞ぎ、原野を田へと変えていった人々の、極めて合理的で強靭な意志が通っている。
平安京以前の京都を知ることは、完成された美しさの背後にある「未完成のエネルギー」に触れることでもある。京都駅の喧騒を離れ、太秦の巨大な石室の前に立つとき、あるいは巨椋池の名を残す島々の地名を辿るとき、私たちは平安京というフィルターを通さない、この盆地の生々しい素顔に出会うことができる。その素顔は、千年の都という言葉から想像されるよりもずっと、荒々しく、そして技術的な確信に満ちている。京都の歴史は、794年に始まったのではなく、それ以前の「水の支配」を巡る格闘によって、すでにその骨格を完成させていたのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。