都から隔絶された山国になぜ最先端の文物が流れ込んでいたのか、古代信濃国の実態はどういったものだったのか?

千曲の川風とサワラの馬形
千曲川の旧流路にあたる千曲市の屋代遺跡群を発掘したとき、泥の中から現れたのは、サワラ材を削り出して作られた小さな馬や人の形代であった。飛鳥から奈良時代にかけて、激しい水流を鎮め、あるいは穢れを祓うために流された木製祭祀具である。長野盆地の南端に位置するこの地からは、それと時を同じくして、「布手」と墨書された大量の木簡も見つかっている。木簡に記されていたのは「金刺部富止」といった地方の民の名と、彼らが織り上げた麻布の記録だった。
現代の地図を開けば、長野県は険しい日本アルプスと山稜に囲まれた典型的な内陸山岳県である。古代の律令国家にとっても、畿内の都から見れば幾重もの峠を越えた遥か彼方の「東山道の山国」に過ぎなかったはずだった。しかし、発掘調査が明らかにする古代信濃国の姿は、都から隔絶された寒村の風景とは大きく異なっている。
塩尻市の吉田川西遺跡から出土した平安初期の墓からは、当時の都の最上層貴族しか所持し得なかった緑釉陶器の碗や皿、唐草文をあしらった青銅鏡が整然と並んだ状態で見つかった。松本平の神林地区にある下神遺跡からは、藤原南家が領主として君臨した荘園「草茂庄」の存在を示す大型建物跡とともに、巨大な甕が姿を現している。
平野の広がる畿内周辺ならいざ知らず、なぜ山々に幾重にも分断された信濃の谷々に、これほど濃密に都の制度、物資、そして最先端の文物が流れ込んでいたのか。単に中央の権力が地方へ浸透したという図式だけでは、この地に投じられた資力と特異な遺物の密度を説明しきれない。山国信濃は、古代国家においてどのような役割を引き受けていたのか。
東山道の整備と国分寺の威容
大化の改新を経て律令体制の構築へ向かった7世紀後半から8世紀初頭、信濃の地は「信濃国」として再編された。一時期、南部の伊那・諏訪地域が「諏方国」として分立したものの間もなく再統合され、千曲川流域から伊那谷、木曽谷に至る広大な山間地がひとつの令制国として固定された。
中央と信濃を結んだ動脈が、古代の官道である東山道である。美濃国から標高千六百メートルを超える険阻な神坂峠を越えて伊那谷へ入り、諏訪湖畔を経て小県、佐久を通り、碓氷峠を越えて上野国へと抜ける幹線ルートであった。この道は、単なる交易路ではなく、都の命令を東国へ伝え、東国の富と兵力を都へ送る軍事・行政の生命線であった。都と東国を往復する官人や防人たちは、この険しい山道を踏み越えていった。
天平十三年(741)、聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」は、信濃の地にも巨大な建設事業をもたらした。信濃国分寺が築かれたのは、千曲川の中流域、現在の長野県上田市国分である。降水量が少なく晴天日数の多い上田盆地の段丘上に、僧寺と尼寺が東西に並び立つ壮大な伽藍が計画された。発掘調査によれば、僧寺の敷地内には七重塔と見られる塔跡、金堂、講堂が整然と配置され、宝亀年間(770年頃)には本格的な伽藍が完成していたとされる。
この大伽藍を飾った屋根瓦には、古代信濃の行政機構が鮮明に刻み込まれている。信濃国分寺跡から出土した夥しい平瓦や丸瓦の端部には、「更」「伊」といった文字が箆で刻まれていた。更級郡や伊那郡をはじめとする信濃国内の各郡が、それぞれ瓦の生産と運搬を割り当てられ、総力を挙げて国分寺の造営を支えた証拠である。瓦を焼成した窯跡は坂城町の土井の入窯跡など千曲川流域に点在しており、地域を超えた生産体制が敷かれていたことがわかる。
寺院造営の波は国分寺にとどまらなかった。佐久市の長土呂廃寺や長野市の上石川廃寺、安曇野の明科廃寺など、白鳳期から奈良時代初頭にかけて、在地豪族の手による仏教寺院が各地の盆地に相次いで建立された。それらは、諏訪の大祝を務めた金刺氏や、小県・更級を拠点とした他田氏など、古墳時代以来の有力氏族が律令体制下の郡司へと変貌を遂げ、仏教受容を通じて自らの権威を再構築していった過程を示している。
奈良時代の信濃はまた、過酷な軍事負担を負う国でもあった。万葉集には、防人として九州沿岸の警備へ駆り出された信濃の人々の歌が数多く残されている。「信濃道は 今の墾道刈株に 足踏ましなむ 沓履け我が背」と妻が夫の足元を案じたように、庶民にとって東山道は都へ、そして遠い筑紫へと続く別れの道であった。信濃の人々は、過酷な労役と兵役を担いながら、国家の枠組みの中に組み込まれていったのである。
馬と麻布が築いた国家の基盤
なぜ古代の中央政府は、これほどまでに信濃を重視し、緊密な関係を維持し続けたのか。その理由は、信濃が産出する二つの戦略物資にあった。軍馬と麻布である。
律令国家にとって、馬は軍事通信の根幹であり、武威の象徴であった。信濃の高原地帯は、良馬の育成に極めて適した自然条件を備えていた。寒冷な気候と水はけの良い火山灰土、千曲川や天竜川の水源に恵まれた広大な傾斜地は、牧草地として格好の環境を提供した。
平安時代中期に編纂された『延喜式』には、信濃国に十六箇所の「勅旨牧」が置かれていたことが記されている。全国の勅旨牧三十二箇所のうち、実に半数が信濃に集中していた。小県郡の塩野牧、佐久郡の望月牧や長倉牧、埴科郡の宮処牧、高井郡の笠原牧など、東山道沿いや浅間山麓、八ヶ岳山麓の広大な原野に国家直営の牧場が開かれた。
毎年秋になると、信濃の牧で育てられた選りすぐりの駿馬が「御馬」として都へ送られた。八月十五日に催される「駒牽」の儀式において、信濃の馬は天皇の前に引き出され、皇族や貴族たちに分配された。望月牧の名は、旧暦八月十五日の満月の夜に馬を集めて都へ送ったことに由来するという説があるほど、信濃の牧と中央の儀礼は深く結びついていた。信濃は、国家の軍馬供給プラットフォームとして機能していたのである。
もうひとつの柱が、麻布の生産である。信濃の冷涼な気候と豊かな水系は、繊維の強い良質な麻を育んだ。千曲市の屋代遺跡群から見つかった「屋代木簡」には、郡の官衙や工房で布を織る専任の技術者「布手」の名が記録されている。彼らが織り上げた麻布は「信濃布」として知られ、調や庸として都へ大量に貢納された。
屋代遺跡群の周辺では、水路を整え、規則正しい地割を施した条里制水田跡も確認されている。稲作に適した平坦地が限られる信濃において、千曲川の氾濫原を開発して米を確保しつつ、傾斜地や山麓で馬を育て、麻を栽培する。この複合的な生産構造が、山国信濃を屈指の貢納国へと押し上げた。
さらに、東山道の維持そのものが信濃の重要な役割であった。郡ごとに置かれた駅家には多数の駅馬が常備され、都からの使者を次の宿駅へと送り継いだ。馬を自前で供給できる信濃だったからこそ、難所の続く東山道の交通インフラを支え続けることが可能だった。信濃は孤立した山岳地帯ではなく、都の軍事と財政を支える生産・補給基地として、国家構造の深部に組み込まれていたのである。
分断された盆地と平野の王国の差異
信濃国の特異性をより際立たせるために、同じ東山道で隣接する上野国(群馬県)や、南に隣接する甲斐国(山梨県)、さらには古代の先進地であった近江国(滋賀県)と比較してみると、興味深い構造の違いが浮かび上がる。
上野国は、関東平野の北西端に位置し、広大な平野部と豊かな火山灰土壌を持つ。古墳時代には東日本最大級の前方後円墳が次々と築かれ、毛野氏と呼ばれる強大な豪族が平野全域に君臨した。上野国も信濃と同様に勅旨牧を抱え、良馬の産地として知られたが、その権力構造は平野部を中心とした比較的まとまりのあるものであった。新羅系渡来人の移住によって多胡郡が設置されるなど、渡来系技術の導入も国家的プロジェクトとして集約的に進められた。
これに対し、信濃国は地形的に全く異なる条件を持っていた。長野盆地(善光寺平)、松本盆地、上田・佐久盆地、伊那谷、諏訪盆地というように、山峠によって隔てられた複数の小盆地がモザイク状に連なっている。ひとつの平野が国全体を圧倒することができず、それぞれの盆地ごとに独自の首長層が存在した。諏訪の金刺氏、小県の他田氏、安曇の安曇氏、善光寺平の豪族など、盆地ごとに根を張った氏族たちが並立していた。
この分権的な地形は、国家権力の関わり方にも独特の影を落とした。上野国では国府周辺の平野部に権力が集中しやすかったのに対し、信濃国では十六もの勅旨牧が各盆地の山麓に分散して配置された。中央政府は単一の拠点を統制するのではなく、盆地ごとに広がる牧や工房を個別に掌握し、東山道という一本の糸で結びつける必要があった。
甲斐国との対比も示唆に富む。甲斐もまた山に囲まれた盆地であり、巨麻郡などに牧が置かれて名馬を産出したが、甲斐の空間は甲府盆地にほぼ集約されている。東海道と東山道の連絡路という位置づけであった甲斐に対し、信濃は東山道の本線そのものが縦断しており、通過する交通量と戦略的重要性の桁が違っていた。
近江国のように都の喉元に位置し、直接的な政治的支配を受けた地域とも異なり、信濃は都から適度な距離を持っていた。遠隔地でありながら、馬と布という不可欠の資源を握っているため、中央の貴族や皇族は信濃の在地勢力を単なる被支配者としてではなく、生産現場の管理者として厚遇せざるを得なかった。塩尻の吉田川西遺跡で見られる貴族並みの副葬品は、そうした「都の利害を代行する在地有力者」の特権的な地位を物語っている。信濃の分断された地形と特異な産物は、中央依存と地域自立が同居する独特の政治空間を作り出していたのである。
石碑の文字と千曲の流れに立つ史跡
古代信濃の息吹は、現在の長野県各地に点在する遺跡や博物館において、具体的な物質として触れることができる。
しなの鉄道の屋代駅からほど近い千曲市屋代の「科野の里歴史公園」には、長野県立歴史館が建っている。館内の古代展示室に入ると、屋代遺跡群から出土した「布手」木簡の実物や、千曲川の祭祀で用いられたサワラ材の馬形形代が展示されている。隣接する山裾には、東日本最大級の威容を誇る前方後円墳・森将軍塚古墳が復元されており、古墳時代から奈良時代へと続く千曲川流域の権力の推移を一望できる。
上田市国分に広がる信濃国分寺跡は、史跡公園として整備されている。広大な敷地には、かつての金堂や講堂、七重塔の礎石が整然と並び、古代の建築スケールを肌で実感させる。敷地内にある信濃国分寺資料館には、発掘調査で出土した八葉複弁蓮華文軒丸瓦や、各郡の名が刻まれた文字瓦、役人が文字を書くために使った円面硯、和同開珎などが収蔵・展示されている。全国の国分寺跡の中でも、僧寺と尼寺の遺構が良好に確認された例として貴重な場所である。
平安時代の富裕層の痕跡を見るならば、塩尻市から出土し長野県立歴史館に収蔵されている吉田川西遺跡の副葬品群が外せない。緑色の釉薬が美しく残る緑釉陶器の皿や、緻密な花鳥文が彫られた青銅鏡は、平安京の貴族文化がそのまま信州の谷へ持ち込まれていた事実を突きつける。
また、地名そのものが古代の記憶を留めている。浅間山の南麓に広がる佐久市望月や東御市の御牧原は、かつての勅旨牧「望月牧」の敷地であった。今も緩やかな傾斜地がどこまでも続くこの台地に立つと、千頭を超える馬が群れをなして草を食んでいた古代の景観が、地形のうねりの中に重なって見えてくる。
さらに、松本市周辺には平安時代の荘園「草茂庄」の痕跡や、国府が置かれた推定地(松本市蟻ケ崎周辺など諸説ある)が存在する。松本盆地の集落遺跡から見つかる「講院」などの墨書土器は、郡司や有力農民たちが文字を使い、都の宗教儀礼や行政手続きをこなしていた日常を今に伝えている。
牧の管理者から武士団への転回
信濃の奈良・平安時代を概観して見えてくるのは、「山に閉ざされた僻地」という信濃観の誤りである。山々によって小盆地に分断された地形は、農業生産の上限を制約した一方で、山麓の傾斜地を広大な放牧地へと転換させ、千曲川や天竜川の水系を麻の晒し場や水田へと変える基盤となった。
律令国家が求めたのは、単一の穀倉地帯ではなく、機動力たる軍馬と、財政を支える規格化された麻布であった。信濃はその要求に最も適合した国土構造を持っていたからこそ、遠隔地でありながら東山道という大動脈で都と直結し続けた。
しかし、平安時代中期から後期にかけて、律令体制が緩み、公地公民の原則が崩壊すると、信濃が担っていた機能は新たな歴史のうねりを生み出す母体へと変わっていく。
承平八年(938)、関東で勢力を拡大していた平将門と、それを追う平貞盛が、信濃国分寺付近で武力衝突を起こした。『将門記』などに描かれるこの戦いは、信濃が東国の軍事動乱と無縁でいられなくなった現実を示している。信濃国分寺はこの兵火によって焼失したと伝えられており、発掘調査でも十世紀頃の衰退の痕跡が確認されている。
律令国家の直営牧であった勅旨牧は、次第に中央の権門勢家や在地豪族の私有地へと移行していった。牧の管理を任されていた牧監や郡司層は、馬を育てるだけでなく、自ら馬に乗り、弓を引く武装集団へと変貌を遂げていく。望月牧を基盤として成長した望月氏や、海野氏、禰津氏といった「滋野三家」をはじめとする信濃武士団の台頭である。
彼らは、平安末期に木曾義仲が平家打倒の兵を挙げた際、その軍事力の中核を担うこととなった。山裾で馬を飼いならし、険しい峠道を駆け抜けていた古代の生産者たちは、そのまま中世の騎馬武者へと脱皮していったのである。
屋代遺跡群の泥から掘り出されたサワラの木製馬形は、神仏に平穏を祈るための呪具であった。だが、その祈りが捧げられていた千曲川のほとりは、やがて本物の駿馬に跨った武士たちが東国と都を揺るがす起点となった。奈良から平安へ至る信濃の歴史は、中央の制度を受け入れながら自前の軍事力を蓄え、中世という次の時代を切り拓く力を静かに準備した過程そのものであった。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 古代 | 常設展示 | 長野県立歴史館npmh.net
- トップページ | 長野県立歴史館 | 長野県立歴史館npmh.net
- 長野県立歴史館|長野県博物館協議会公式サイト | 信州 Museum Guidenagano-museum.com
- 長野県立歴史館 | ちるぷchilps.com
- 長野県立歴史館 - 信州の文化施設 - 公益財団法人 八十二文化財団82bunka.or.jp
- 信濃国分寺資料館museum.umic.jp
- 信濃国分寺跡|日本遺産ポータルサイトjapan-heritage.bunka.go.jp
- 旧石器から平安まで人々の暮らしが見えるー上田市信濃国分寺史料館[JOMOSEUM]|土note.com