急峻な山国の土の下で、なぜ列島屈指の人口密度と生産力が保たれ続けたのか?

千曲川の段丘に立つ
千曲川を見下ろす河岸段丘や、北アルプスを仰ぐ松本盆地の平野部に立つと、足元の土の下に重なる時間の厚みに驚かされることがある。長野県といえば急峻な山々に囲まれた「信州の山国」という印象が強いが、考古学の記録をたどると、その印象は大きく覆される。
県立歴史館がまとめた遺跡地名表に記載されている遺跡数は、実に1万2000箇所を超える。その内訳を見ると、旧石器時代が300箇所以上、縄文時代が約8000箇所、弥生時代が約2000箇所、古墳時代が約880箇所(古墳そのものは3500基以上)、そして奈良・平安時代が3200箇所以上にも達する。列島全体を見渡しても、これほど濃密に各時代の生活痕跡が折り重なっている地域は極めて珍しい。
山岳に隔てられた内陸の盆地群が、なぜ原始から古代にかけて列島屈指の人口密度と生産力を保ち続けたのか。水田耕作に適した広大な平野が広がる太平洋沿岸や瀬戸内海沿岸とは異なり、冬の寒冷な気候や険しい峠道を抱えるこの地が、なぜ中央政権にとっても無視できない戦略拠点となり得たのか。その歩みを順に追っていくと、私たちが抱く「山国の辺境」という古代像とはまったく異なる、列島の動脈としての信濃の姿が浮かび上がってくる。
黒曜石の山から巨大古墳の平野へ
信濃の歴史の幕開けは、日本列島における人類の足跡そのものと重なっている。後期旧石器時代、霧ヶ峰や八島ヶ原湿原、そして和田峠周辺で産出する黒曜石は、鋭利な刃先を作り出すための最高級の石材として利用された。このガラス質の鉱物は、山を越えて関東平野や東海、さらには北陸地方にまで運ばれており、氷河期の過酷な環境下においても、信濃の山々はすでに列島規模の資源供給地として機能していた。
約1万年前に始まった縄文時代に入ると、信濃の繁栄は頂点を迎える。特に八ヶ岳山麓から諏訪湖周辺、千曲川流域にかけては、温暖化に伴う豊かな落葉広葉樹林の恵みを受け、大規模な集落が次々と形成された。千曲市屋代遺跡群や八ヶ岳山麓の遺跡から出土する過剰なまでの装飾を持つ中期縄文土器や、多様な造形を見せる土偶の群れは、当時の食料獲得活動の安定と、それを基盤とした精神文化の成熟を物語っている。長野県内に縄文遺跡が約8000箇所も集中している事実は、この地が当時の日本列島における人口と文化の最大級の中心地であったことを明確に示している。
しかし、紀元前数世紀に西日本から稲作を中心とする弥生文化が波及してくると、信濃の様相は一変する。冷涼で傾斜地の多い地形は、初期の水稲耕作にとって決して有利な環境ではなかった。それでも人々は河川の氾濫原や段丘崖下の湧水地を選び、水田を切り拓いていった。
中野市の南大原遺跡では、弥生時代中期後半から後期にかけての集落跡から、精緻な文様を持つ栗林式土器とともに、管玉や勾玉を製作した玉つくり工房跡が確認されている。緑色凝灰岩の原石や玉鋸といった道具の出土は、北陸方面との鉱物交易ルートがこの時期にも維持されていたことを示している。また、塩尻市の柴宮遺跡からは完形の銅鐸が出土しており、信濃の南部から中部に至る地域が、近畿を中心とする青銅器祭祀圏の周縁として直接結びついていたことが分かる。
3世紀後半から4世紀にかけて古墳時代に入ると、信濃の首長層は畿内のヤマト政権と極めて密接な関係を築き始める。その象徴が、松本盆地に築かれた4世紀前半の前方後方墳、弘法山古墳である。東日本でも最古級に属するこの古墳からは、中国製の鏡(舶載鏡)や鉄器が出土し、畿内勢力が東国へ進出する際の足がかりとして、松本盆地の勢力が重視されていたことが窺える。
4世紀末から5世紀にかけて、権力の中心は善光寺平(長野盆地)南部へと移る。千曲川を望む尾根上に築かれた森将軍塚古墳は、全長約100メートルに達する前方後円墳で、墳丘全体が川原石でびっしりと覆われ、巨大な竪穴式石室を持っていた。森将軍塚をはじめ、有明山、川柳、倉科、土口といった「将軍塚」の名を冠する大型前方後円墳が千曲川沿いに連続して築造されたことは、この地を掌握した首長が、千曲川の水運と日本海・関東を結ぶ陸上交通を掌握し、ヤマト政権から強大な軍事的・政治的権威を認められていた証拠である。
5世紀後半以降になると、千曲川流域や伊那谷には大陸系の技術を持つ渡来人の影響が色濃く現れる。須坂から松代にかけて広がる大室古墳群に見られる無数の積石塚(石を積み上げて築いた墳丘)や、各地で導入された横穴式石室、馬具の副葬などは、騎馬文化を携えた集団の定着と、信濃が馬の育成適地として開発され始めた歴史を反映している。
律令国家を支えた馬と麻布のネットワーク
7世紀後半、大化の改新から律令制の導入へと向かう激動のなかで、「科野(しなの)」と呼ばれた地域は「信濃国」として再編された。奈良時代を迎えると、信濃は律令国家の軍事・交通・財政を支える最重要拠点の一つへと位置付けられていく。
信濃国の行政区分は、北は高井・水内・埴科・更級、中部は筑摩・安曇、東は小県・佐久、南は諏訪・伊那など10郡に及んだ。国府は上田周辺(小県郡)に置かれ、近くには信濃国分寺・国分尼寺が建立されて国家の安寧が祈られた。
当時の信濃が中央政府にとって決定的に重要だった理由は、第一に「東山道」という国家の幹線道路が国の中央を貫いていたことにある。都から美濃を経て神坂峠を越え、伊那谷を北上し、塩尻から松本、上田、佐久を経て上野国(群馬県)へと抜ける東山道は、陸奥や出羽といった東北地方の経営を推し進めるヤマト政権にとって、兵員や物資を送り込むための大動脈であった。
飯田市に位置する恒川遺跡群からは、広大な敷地に整然と配置された大型掘立柱建物跡や多数の木簡、瓦などが出土しており、伊那郡の役所である「郡衙(ぐんが)」の実態が明らかになっている。東山道の宿駅を管理し、都からの使者を迎え、公的な物資を中継する拠点が、こうした谷あいの平野に整然と築かれていた。
第二の重要性は、軍馬の供給基地としての役割である。信濃の広大な高原や山麓の傾斜地は放牧に最適であり、律令政府は信濃に数多くの「御牧(みまき)」を設置した。佐久や小県、諏訪などで育てられた名馬は、都の朝廷へと貢納され、軍事力や儀礼を支えた。
そして第三の柱が、特産物としての繊維生産である。冷涼な気候と水はけの良い土壌はアサの栽培に適しており、信濃の麻布は調や庸として都へ大量に運ばれた。千曲市の屋代遺跡群から出土した奈良時代の木簡には、「金刺部富止(かなさしべのと)」といった人名とともに「布手(ふて)」という文字が記されている。布手とは郡の工房などで麻布を織る専門職の呼称と考えられており、国家的な徴税システムのもとで組織的な手工業生産が行われていたことを示している。
また、屋代遺跡群の千曲川旧流路跡からは、馬や人をかたどった大量の木製祭祀具(形代)が出土している。サワラ材を加工して作られたこれらの馬形や人形は、疫病の退散や水害の防止を願って川に流されたものである。都の祭祀儀礼が地方の官衙や集落へと浸透すると同時に、馬を神聖な乗り物として尊ぶ地域固有の信仰が混ざり合っていた様子が窺える。
さらに、松本盆地に位置する南栗遺跡の発掘調査では、奈良時代の地層から版築工法(土を層状につき固める建築技術)を用いた大型掘立柱建物の柱穴や、文字を書くための道具である「円面硯(えんめんけん)」が出土している。集落内に読み書きのできる下級官人や有力者が定住し、租税の管理や帳簿の作成に携わっていたことが裏付けられている。
東山道が結んだ内陸と沿岸の差異
信濃国の古代社会が持っていた特異性は、太平洋沿岸を走る東海道沿いの諸国(尾張、遠江、駿河など)と比較することで、より鮮明になる。
東海道の諸国は、温暖な気候と広大な平野部を背景に、主として米の生産力を国家への貢献の軸としていた。また、沿岸部の舟運を活用して都と直結し、塩や海産物を貢納することが期待されていた。集落の立地も沖積平野の低地に集中し、水利の開発と水害への対処が社会の最優先課題であった。
対照的に、信濃は複数の山脈によって四つの大きなブロック(北信・東信・中信・南信)に分断されている。それぞれの盆地は独自の河川水系を持ち、気候や土壌条件も異なる。したがって、単一の穀物生産力だけで見れば、沿岸の大国に及ばない側面があった。
しかし、律令国家が信濃に求めたのは米の量だけではなかった。険しい山々に囲まれているからこそ、山間部の高燥な段丘は放牧地として機能し、寒冷な気候は高品質な麻を生み出した。東海道諸国が「穀物と海産物の供給地」であったのに対し、信濃は「馬・麻布・鉱物資源、そして陸上軍事輸送の中継地」という、きわめて特化された複合プラットフォームとして機能していたのである。
また、交通のあり方にも決定的な違いがある。東海道が一本の連続した沿岸ルートとして機能したのに対し、信濃を貫く東山道は、北陸へ抜ける北国脇往還や、太平洋側へ下る天竜川水系、関東平野へ抜ける碓氷峠など、複数の結節点を抱える「内陸のハブ」であった。
この地理的構造は、出土する遺物の多様性にも現れている。塩尻や松本の中信地域では畿内的な須恵器や前方後方墳の系譜が強く見られる一方、千曲川流域の北信地域では日本海側(越後)や北関東(上野)との土器文化の共通性が目立つ。南信の伊那谷は三河や遠江との結びつきが強く、東海地方の土器様式が早くから流入している。
内陸の盆地群が山によって遮断されていたのではなく、それぞれの谷が列島の異なる結節点へと開かれていた。信濃という一つの国の中に、日本海側、太平洋側、関東、畿内の結びつきが同時に同居していたことこそが、沿岸部の単一的なルートを持つ諸国との決定的な違いであった。
造成地の下から現れる五百年の集落
こうした古代の営みは、現代の長野県内で行われている数々の発掘調査によって、極めて生々しい姿で掘り起こされている。
長野自動車道や中部縦貫自動車道、北陸新幹線、リニア中央新幹線などの交通基盤整備に伴い、県内各地で大規模な調査が進められてきた。その中でも松本市島立・和田地区にまたがる南栗遺跡は、古代集落の息の長さを象徴する現場である。
南栗遺跡では、これまでに600軒を超える竪穴建物跡が確認されている。この集落は7世紀後半の古墳時代終末期に形成が始まり、奈良時代を経て12世紀前半の平安時代後期に至るまで、約500年間にわたって人々が同じ場所で暮らし続けた。発掘現場の断面を見ると、洪水で埋没した奈良時代の住居跡の真上に、平安時代の竪穴建物が幾重にも重なって掘り込まれている。
住居の壁面には、石を芯材にして粘土を塗り固めたカマドが据えられていた。調査員が土を慎重に除くと、住居を廃棄する際に意図的に破壊されたカマドや、その上に底部を抜いた甕を立てて石で囲んだ祭祀の跡が現れる。また、日常の食器の縁に煤が付着した燈明皿や、鉄を叩いて農具や刀子を修理・製作した「村の鍛冶屋」の炉跡、送風管(ふいご羽口)も見つかっている。
さらに興味深いのは、平安時代の住居跡から出土する「土師器合口甕(あいくちがめ)」と呼ばれる遺構である。長胴甕を横倒しにして口同士を合わせた状態で埋設されており、乳幼児のための土器棺として使われたと考えられている。過酷な自然環境の中で命をつないだ人々の、家族への祈りが土の中にそのまま残されている。
千曲市に整備された「科野の里歴史公園」を訪れれば、尾根の上に復元された森将軍塚古墳の偉容とともに、隣接する長野県立歴史館で屋代木簡や千曲川の木製祭祀具の実物を観察することができる。千曲川の氾濫原に広がる水田と、それを見下ろす山々の稜線は、千数百年前の人々が目にした地形と今も変わらない。
盆地を貫く通路としての信濃
山に囲まれた土地を「孤立した空間」と捉えるのは、近代以降の高速鉄道や平野中心の視座に慣れた私たちの先入観に過ぎない。
黒曜石の流通に始まり、八ヶ岳山麓の縄文集落、善光寺平や伊那谷の巨大古墳、そして東山道と御牧を擁した律令期の信濃国に至るまで、この地は常に列島の東西南北を媒介する通路であり、結節点であった。
段丘を切り拓いて開かれた水田、山麓に放牧された軍馬、工房で女性たちが織り上げた麻布、そして役所で役人が硯を使って木簡に走らせた文字。それらはすべて、険しい山岳を障壁としてではなく、異なる地域を結ぶ天然の回廊として活用した人々の創意工夫の結果であった。
発掘された須恵器の底に残る指の跡や、カマドの隅に供えられた小さな坏。千数百年前にこの盆地群を行き交い、土を耕し、馬を走らせた名もなき人々の営みは、今も乾いた信州の土の下に、確かに刻まれている。
旅と食が好き。どこにでもいます。