2026/6/14
札幌すすきの、原野に遊郭が計画された理由とネオン街への変遷

札幌のすすきのの歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
札幌すすきのの歴史は、開拓使による「薄野遊郭」の設置から始まった。労働力維持と治安維持を目的とした計画的な街づくりが、後の多様な歓楽街へと発展する礎となった経緯を辿る。
ネオンの光の下、原野に拓かれた街の始まり
札幌の夜を象徴するすすきの。無数のネオンサインが瞬き、多様な人々が行き交うこの街の姿は、多くの旅人の記憶に刻まれているだろう。しかし、この活気に満ちた歓楽街が、そもそもどのような経緯で生まれたのかと問われると、その答えは意外な場所に行き着く。現在の華やかなイメージとは裏腹に、すすきのは明治初期、北海道開拓使によって意図的に、そして周到に計画された「遊郭」としてその歴史を始めたのだ。なぜ未開の原野に、行政主導でこのような施設が設けられたのか。そして、その官製の遊郭が、いかにして今日の日本有数の歓楽街へと変貌を遂げたのか。この問いの先に、北の大地の開拓史と、人々の営みの本質が見えてくる。
開拓使が描いた「薄野遊郭」の区画
すすきのの歴史は、明治新政府が北海道開拓使を設置し、札幌本府の建設を本格化させた1869年(明治2年)に遡る。本州から数万人の労働者や職人が送り込まれたが、厳しい労働環境と娯楽の少なさから、定住者が極端に少ないという問題が浮上した。当時の開拓判官であった岩村通俊は、この労働力の流出を食い止める方策として、遊郭の設置を構想したとされている。また、市内に点在していた私娼(飯盛女を置く旅人宿など)の取り締まりが困難であったことも、官許の遊郭を設ける理由となった。
1871年(明治4年)、開拓使は現在の南4条から5条、西3丁目から4丁目の2町四方の区画に公認の遊郭を設けることを決定した。これが「薄野遊郭」の始まりである。この遊郭地は、周囲に高さ4尺(約1.2メートル)の土塁が巡らされ、正面には大門が設置されるという、吉原遊郭を模した大規模なものであった。土塁の内側には「藤井町」「中之町」「柳川町」といった町名が付けられたという。
翌1872年(明治5年)には、官費で妓楼「東京楼」が建設され、東京から遊女21名と芸者3名が招かれた。彼女たちは脇本陣で仮営業した後、現在の南5条西4丁目に完成した東京楼へ、吉原の花魁道中さながらのパレードで移り住んだと伝えられている。東京楼は政府高官の接待にも利用される「御用女郎屋」としての役割も担った。同年には「芸娼妓解放令」が発令され、奴隷に準ずる人々への人権問題解消の機運が高まったが、開拓使は北海道の特殊事情を訴え、その適用を一時延期するよう求めたものの、最終的には適用されることになった。
「すすきの」という地名の由来については諸説ある。一つは、遊郭の設置に尽力した工事監事、薄井竜之の姓にちなんで、岩村通俊が「薄野遊郭」と名付けたという説。もう一つは、当時この一帯がススキの生い茂る原野であったことから「茅野(すすきのの別称)」と呼ばれており、それが転じて「薄野」となったという自然地名説である。札幌開府の請負総元締であった中川源左衛門が岩村から直接聞いた話として前者を支持する資料が多く、通説となっているが、確たる結論は出ていない。
明治10年(1877年)には開拓使によって「貸座敷並芸娼妓三業規則」が制定され、貸座敷業、芸妓業、娼妓業が正式に「札幌遊郭」として発足した。娼妓は独立した営業者として貸座敷業者から部屋を借りて営むことになったが、実質的には遊女屋が貸座敷に名称変更されたに過ぎなかった。当時の遊女の多くは東北出身者で、年季奉公という形で働かされ、故郷に帰ることは稀であったという。
しかし、この官許遊郭としてのすすきのの歴史は、永続するものではなかった。大正時代に入り、札幌の人口増加と市街地の拡大が進むと、遊郭は市街地の中心部に位置するようになり、風紀上の問題が指摘されるようになる。特に、1918年(大正7年)に開道五十年記念北海道博覧会の会場が中島公園に決まると、観客が遊郭街を通り抜けなければならない状況が問題視された。その結果、1920年(大正9年)には遊郭は豊平川を越えた白石村菊水(現在の白石区菊水)へ移転されることになり、「白石遊郭」と改称された。これにより、すすきのは官許遊郭としての役割を終え、その歴史に一旦幕を下ろすことになる。
開拓地の「安全弁」としての機能と転換
すすきのの誕生と発展には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。その根底にあったのは、北海道という広大な未開の地を開拓する上での、特殊な社会構造とそれに伴う必要性であった。
まず第一に挙げられるのは、開拓地の労働力維持という切実な要請である。明治政府が蝦夷地を「北海道」と改称し、札幌を本府と定めてから、本州から大量の請負人、大工、職人、人夫が送り込まれた。彼らは過酷な労働に従事する一方で、娯楽が極めて少ない環境に置かれていた。このような状況では、労働者の定着は難しく、開拓事業の遅延を招く恐れがあった。開拓使は、男性中心の労働者たちの性的欲求を満たす「安全弁」として、公的な遊郭を設けることで、彼らを札幌に繋ぎ止めることを意図したのである。当時の札幌の人口はわずか1000人余りで、男性が女性の約3倍を占めていたという男女比の偏りも、遊郭設置を急がせた一因とされる。
次に、治安維持と風紀統制の手段としての側面がある。開拓が進むにつれて、労働者を目当てに私娼を置く旅館や飲食店が市内に散見されるようになった。これらの無秩序な営業は取り締まりが困難であり、風紀の乱れを招くとして問題視された。そこで開拓使は、遊女たちを一箇所に集約し、官の管理下に置くことで、風紀の紊乱を抑制し、効率的な取り締まりを図ろうとしたのだ。これは、社会秩序の維持という現実的な必要性から生まれた、ある種の「官製ソリューション」だったと言えるだろう。
さらに、札幌の都市としての経済的需要と成長も、すすきの発展の重要な背景にあった。開拓使本庁が札幌に置かれ、都市機能が整備されるにつれて、官吏や商人、そして増加する一般市民の間に娯楽施設への需要が高まった。遊郭は、単なる売春の場に留まらず、料亭や芸妓による接待の場としても機能し、札幌の経済活動の一翼を担うようになった。明治5年(1872年)に札幌初の割烹店となった蕎麦屋「東京庵」のように、遊郭周辺には飲食業が発展していった。
そして、極めて重要なのが、遊郭移転後の劇的な転換である。1920年(大正9年)に薄野遊郭が白石へ移転した後、この地域は一時的に寂れたと記録されている。しかし、この空白が新たな可能性を生み出した。遊郭の跡地には、カフェーやバー、飲食店が次々と立ち並び始めたのだ。大正末期から昭和初期にかけて、「美満寿館」や「西田座」といった劇場(映画館)も誕生し、ネオン街の基礎が築かれていった。1930年(昭和5年)頃には、札幌市内のカフェやバーの約450軒のうち大半がすすきのに集中し、女給(現在のホステスにあたる)も約800人を数えるまでになった。これは、官製遊郭という特定の機能が失われた後も、人々の娯楽への根源的な欲求と、それを満たそうとする民間事業者の活力が、この地に新たな「歓楽街」としての息吹を与えたことを示している。遊郭という形態が法的に制限されても、その場所が持つ「夜の街」としての磁場は失われず、形を変えて引き継がれていったのである。
計画と有機性が交錯する歓楽街の姿
すすきのの歴史を、他の主要な歓楽街の成り立ちと比較することで、その独自性と普遍的な側面がより鮮明になる。日本各地にはそれぞれ異なる背景を持つ歓楽街が存在するが、それらの形成過程は、その土地の歴史や社会情勢を色濃く反映している。
江戸時代から続く東京の吉原遊廓は、日本における公娼制度の象徴であった。当初は日本橋付近に設けられたが、明暦の大火後に浅草日本堤へ移転し、都市計画の一部として整備された。吉原もまた、政府公認の遊廓として、特定の区画に遊女を集約し、管理する形態をとった点で、すすきのの「薄野遊郭」と共通する。すすきのの名称に「薄野」という漢字が当てられたのは、「吉原」がアシ(葦)の生い茂る野原に由来するとされるのと同様に、ススキの野原に築かれたことにちなむ、という説があるほど、吉原は薄野遊郭の範となった。しかし、吉原が既に成熟した大都市江戸の社会構造の中で、遊興文化の集積地として発展したのに対し、すすきのは開拓初期のフロンティア都市において、労働力確保というより切実な課題に応える形で生まれたという点で、その出発点には大きな違いが見られる。
第二次世界大戦後の焼け野原から復興した東京・新宿の歌舞伎町は、また異なる経緯を辿った。戦後の復興計画において、この地に歌舞伎劇場を建設し、「道義的繁華街」としての文化的で健全な街づくりを目指したのがその始まりである。しかし、実際の歌舞伎劇場は建設されず、代わりに映画館、劇場、スケートリンクといったエンターテインメント施設が次々と誕生し、やがて多様な飲食店や風俗店がひしめく日本最大級の歓楽街へと変貌していった。歌舞伎町が「健全」を目指しながらも、結果的に広範な「夜の顔」を持つに至ったのに対し、すすきのは最初から「遊郭」という「不健全」な機能として計画されながらも、遊郭移転後に多様な娯楽施設が集積する「健全な歓楽街」の側面を強めていった。この、出発点における「計画の意図」と「実際の発展」の逆転現象は、両者が持つ興味深い対比である。
一方、福岡の中洲も、すすきの、歌舞伎町と並び「日本三大歓楽街」に数えられる。中洲は那珂川と博多川に挟まれた細長い地形的特徴を持ち、江戸時代に福岡藩の財政再建策の一環として、橋が架けられ、商業地として発展したのが始まりとされる。中洲もまた、時代とともに遊廓や料亭、劇場、そして現代のクラブやスナックへと業態を変化させてきた。川に囲まれた地理的制約の中で、多種多様な店舗が密集する独自の発展を遂げた点は、碁盤目状に計画された札幌の街区に生まれたすすきのとは異なる。しかし、経済活動の中心地としての機能と、人々の娯楽需要に応える形で発展してきたという点では、普遍的な共通点を見出すことができるだろう。
さらに、札幌市内の別の商業地域である狸小路商店街との比較も興味深い。狸小路は、すすきのの誕生とほぼ同時期の明治6年(1873年)頃に、商家や飲食店が自然発生的に集まり始めたのがルーツとされる。「狸小路」という名称も、客引きを狸になぞらえたという説や、実際に狸が生息していたという説があり、自然発生的な要素が強い。すすきのが開拓使によるトップダウンの計画で始まったのに対し、狸小路は市民の生活に根ざしたボトムアップの商業集積として形成された。この二つの対照的な発展は、札幌という開拓都市が、官主導の開発と民間活力の双方によって形作られてきたことを示している。
これらの比較から見えてくるのは、歓楽街というものが、その土地の社会経済的な要請に応える形で、計画的あるいは有機的に形成されていくという普遍性である。しかし、すすきのの特異性は、その誕生が、未開のフロンティアにおける社会統制と労働力安定化という、純粋な経済・行政的理由に強く裏打ちされていた点にある。他の歓楽街が都市の成熟や文化的な発展の産物である側面が強いのに対し、すすきのは「開拓」という目的のための、いわば「機能としての街」として始まったのである。
変化を続ける「昼も夜も眠らない街」へ
昭和に入ると、すすきのは遊郭移転後のカフェーやバーがさらに増加し、北日本を代表する歓楽街としての地位を確立していく。しかし、第二次世界大戦後には、新たな変化が訪れた。1946年(昭和21年)1月24日の公娼制度廃止後、白石に遊郭が移っていた影響もあり、すすきのには「パンパン」と呼ばれる街娼が跋扈し、北海道最大の売春街として再び性の無法地帯と化した時期もあったという。1948年(昭和23年)には札幌で検挙されたパンパンが1,279人に上り、2年後には推定3,600人にも達した。さらに「特飲店」が出現し、「赤線地帯」として再び活況を呈するようになる。
高度経済成長期を経て、1960年代には飲食店のビル化が進む。1964年(昭和39年)には「第1グリーンビル」が建ち、高層化の先駆けとなった。また、札幌冬季オリンピックを控えた1970年代には、1974年(昭和49年)に松坂屋デパートが開店するなど、「明るく近代的な」街づくりが目指された。この頃から、客層も社用族やサラリーマンだけでなく、若年層や女性客へと広がりを見せる。カラオケの流行やディスコ、カフェバー、居酒屋といった、従来のバーやキャバレーとは異なる気軽な店舗が登場し、多様なニーズに応えるようになったのだ。
1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気期には、すすきのの飲食店数はピーク時には5000店を超えたとも言われ、その活況は伝説的に語り継がれている。しかし、その後の景気低迷により、店舗数は減少傾向に転じた。2008年末時点では総店舗数が4463店、うち飲食店は3620店に減少。特に飲食店の減少が顕著である一方で、風俗店や駐車場の数は増加傾向にあるという報告もあった。また、客引きやぼったくり店の問題も依然として存在し、歓楽街特有の課題を抱えている。
こうした状況に対し、札幌市と地元団体は「クリーン薄野活性化連絡協議会」を設立し、防犯対策や魅力向上に向けた官民協働のまちづくりを進めている。「札幌市屋外広告物条例」による「広告物活用地区」に指定され、街の活気や雰囲気を形成するための広告物規制緩和も行われている。
近年、すすきのは新たな変貌を遂げている。2020年以降、札幌市中心部ではホテル建設ラッシュが続き、すすきのにもその波が押し寄せた。2023年11月には、かつて「ススキノラフィラ」があった場所に、ホテルやシネマコンプレックス、商業施設などが入る大型複合施設「COCONO SUSUKINO」がオープンした。この施設は、年間1100万人の集客を記録するなど好調で、地下には食品スーパーも入ることで、昼間も楽しめる街としての側面を強化している。また、オフィスビルやタワーマンションの開発、外資系ホテルの進出、国際会議を誘致するMICE施設の計画も進行中であり、すすきのは「昼も眠らない街」を目指し、観光とビジネスの融合を図っている。
現在のすすきのには、約3500軒の店舗が集積し、夜の人口は約8万人とも言われる。ニッカウヰスキーの「キング・オブ・ブレンダーズ」の巨大な看板は、今もすすきの交差点のランドマークとして輝き、多くの人々を迎えている。また、毎年8月には「すすきの祭り」が開催され、花魁道中や神輿、太鼓演舞が行われるほか、冬には「さっぽろ雪まつり」のすすきの会場として「すすきのアイスワールド」が開催され、幻想的な氷像が街を彩る。かつての「薄野遊郭」の面影はもはやないが、豊川稲荷別院の境内には、当時の遊女たちの名前が刻まれた玉垣が残り、この街の長い歴史を静かに伝えている。
原野に刻まれた「計画」と「適応」の軌跡
すすきのの歴史を辿ると、この街が単なる「自然発生的な歓楽街」ではなかったという事実に改めて気づかされる。明治初期、開拓使による「薄野遊郭」の設置は、フロンティア都市・札幌の社会秩序と労働力安定化という、極めて実用的な目的のために計画されたものだった。それは、人々の娯楽や欲望を管理し、都市の機能を円滑に進めるための、いわば「官製インフラ」としての側面を持っていたと言える。
しかし、その後の歴史は、この計画された枠組みを人々がいかに乗り越え、適応し、新たな価値を創造してきたかを示している。大正時代に遊郭が白石へ移転した後、すすきのが「ゴーストタウン」となるのではなく、カフェーやバー、劇場といった多様な娯楽施設が集積する「ネオン街」へと変貌を遂げたのは、その最たる例だろう。行政が定めた役割が失われても、この地に根付いた「夜の街」としての磁場は消えず、民間主導の活力が新たな形態で街を再構築していった。これは、都市の機能が一方的な計画だけで決定されるのではなく、そこに住まう人々の生活や文化、経済活動によって絶えず再定義されていくという、普遍的な都市の適応と発展の軌跡を物語っている。
現代のすすきのが「昼も眠らない街」を目指し、大型複合施設やホテル誘致を進めているのも、この歴史の延長線上にある。かつての「夜の街」という限定的なイメージから脱却し、より広範な観光客やビジネス客を取り込むことで、新たな都市機能を取り込もうとする試みだ。それは、開拓使が「薄野遊郭」を計画した時と同様に、その時代の社会経済的要請に応えようとする、ある種の「計画的な適応」とも言える。
ススキの生い茂る原野に、まず人為的な区画が引かれ、そこに人々の欲望と生活が流れ込んだ。そして、その区画が役割を終えても、土地は記憶を保持し、形を変えながら新たな賑わいを育んできた。すすきのの歴史は、都市が、時に計画され、時に人々の営みの中で偶発的に、そして常に変化に適応しながら、その姿を更新していく過程を映し出す鏡である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- すすきのの歴史的背景heartib-p.com
- すすきのの歴史 | すすきの観光協会susukino-ta.jp
- すすきのの歴史と由来|なぜ人口わずか600人の札幌に『官製遊廓』が建設されたのか? - Yahoo! JAPANarticle.yahoo.co.jp
- すすきの - Wikipediaja.wikipedia.org
- sakura.ne.jpmoiwa.sakura.ne.jp
- 札幌すすきの 地名の由来を探偵する - 町点ー撮るに足らない人の撮るに足らないブログparupuntenobu.hatenablog.jp
- 札幌薄野(すすきの)遊郭の歴史|遊郭・赤線跡をゆく|yonezawakoji.com
- “すすきのに時計台はない!?” 地名のルーツと観光のズレにツッコミ🕰️ - すすきのニュースチャンネルsusukino-news-ch.com