2026/5/30
霞ヶ浦の「かすみ鴨」はなぜ生まれた?自然と人の哲学が育むブランド鴨

霞ヶ浦のかすみ鴨について知りたい。ブランド鴨らしい。
キュリオす
茨城県霞ヶ浦周辺で生産される「かすみ鴨」は、30年以上前に放し飼いで鴨を育てたいという思いから誕生した。長期飼育とストレスの少ない環境で育つ鴨は、旨味が凝縮され、しつこくない脂が特徴。生産者の哲学が、このブランド鴨を支えている。
茨城県南部の霞ヶ浦。日本で二番目に大きなこの湖は、その水面が朝な夕なに霧に覆われることから「かすみ」の名を冠したとも言われる。その湖畔からほど近い場所で、「かすみ鴨」という名のブランド鴨が育てられていると聞いたとき、その「かすみ」という響きに、どこか不思議な符合を感じた。レストランで供されたその肉は、野性味と繊細さが同居し、すっきりとした脂が印象的だった。なぜこの地で、この「かすみ鴨」が生まれたのか。その背景には、霞ヶ浦を取り巻く自然環境と、鴨と向き合い続けてきた人々の選択があった。
霞ヶ浦周辺は、シベリアなどから渡来する真鴨をはじめとする渡り鳥にとって、古くから越冬地として知られている。奈良時代に編纂された『常陸国風土記』にもヤマトタケルがカモを射落としたという逸話が残るほど、鴨と人との関わりは古い。しかし、「かすみ鴨」は野生の鴨を捕獲する「常陸国天然まがも」とは異なり、養殖された鴨である。その歴史は、茨城県かすみがうら市にある西崎ファームが30年以上前に鴨の飼育を始めたことに遡る。
創業者の西崎敏和氏が養鴨を始めた背景には、当時の一般的な養鶏環境への疑問があったという。窓のない鶏舎で一度も外に出ることなく育つ鶏の姿に心を痛め、「鴨には自由にのびのびと過ごしてもらいたい」という思いから、放し飼いでの飼育を決意したのだ。この選択が、「かすみ鴨」の肉質を決定づける重要な要素となる。当初から、鴨がストレスなく健康に育つ環境づくりに重点が置かれ、広大な農場でのびのびと過ごせるように工夫されてきた。
「かすみ鴨」の最大の特徴は、その飼育方法にある。西崎ファームでは、筑波山麓と霞ヶ浦に挟まれた豊かな自然環境のもと、完全放し飼いで鴨を育てている。この地域は水資源に恵まれ、鴨たちはミネラル豊富な水を自由に摂取し、太陽の光を浴びながら広々とした農場を駆け回る。
一般的な養鴨では生後49日程度で出荷されることが多いのに対し、「かすみ鴨」は90日と長期間飼育される。この長期飼育と、ストレスの少ない放し飼いという環境が、肉質を強くし、旨味を凝縮させる。さらに、鴨たちが自ら農場に生える緑草や果物、腐葉土などから必要なビタミンやミネラルを摂取できるようになっている。与える飼料も非遺伝子組み換えのトウモロコシや飼料米が主体で、抗生物質やワクチンなどの薬剤は一切使用しない。
「育てるのではなく、育ってくれるのを待つ」という西崎ファームの哲学は、鴨本来の生命力と自然のリズムを尊重する姿勢から生まれている。この結果、肉は程よい噛み応えと豊かな旨味を持ち、鴨特有の臭みが少なく、サラッとしたしつこくない脂が特徴となる。飼育から屠畜、加工までを一貫して行うことで、品質管理を徹底し、鮮度の高い状態で市場に供給している点も、ブランドを支える要因である。
日本における鴨肉の利用は古くから見られるが、その形は地域や時代によって多様だ。例えば、水田にアイガモを放し、雑草や害虫を食べさせる「合鴨農法」は、減農薬や無農薬の米作りとして平安時代や安土桃山時代にまで遡るとも言われている。近代的な合鴨水稲同時作は1990年代に福岡県の有機農家が提唱し全国に広まったとされ、アイガモの糞は肥料となり、肉は食肉としても活用される複合農業の側面を持つ。これは「かすみ鴨」のような食肉専用の養殖とは目的が異なる。
一方、ヨーロッパ、特にフランスでは、鴨肉は高級食材として確立されている。「バルバリー種」と呼ばれるフランス鴨は、肉質と量に優れ、フランスの飼育鴨の9割を占める代表的な品種だ。日本には1976年にフランス政府の特別許可を得て、青森のジャパンフォアグラ社がバルバリー種の雛鳥を輸入し、飼育を始めた歴史がある。このバルバリー種は、真鴨や合鴨特有の泥臭さが少なく、柔らかくまろやかな味わいが特徴とされる。
また、茨城県には「常陸国天然まがも」というブランドも存在する。これは霞ヶ浦周辺に飛来する野生のマガモを、伝統的な「むそう網猟」で捕獲したものだ。網猟は鴨を傷つけずに捕獲できるため、肉質の劣化が少なく、フランス料理で用いられる血抜きをしない「エトフェ」処理にも対応できるという。野生ゆえの野趣あふれる香りと弾力のある肉質が特徴で、養殖の「かすみ鴨」とは異なる魅力を持つ。
「かすみ鴨」は、フランス鴨のような品種改良による肉質の追求と、合鴨農法における自然との共生、そして天然鴨の放し飼いに近い環境という、異なる鴨肉文化の要素を独自に組み合わせた結果と言えるだろう。飼育期間の長さや放し飼い、非遺伝子組み換え飼料の徹底は、フランス鴨の品質志向と重なる部分があり、霞ヶ浦という渡り鳥の飛来地である環境が、その発想の土壌になった可能性も考えられる。
現在、「かすみ鴨」を生産する西崎ファームは、創業者の西崎氏から2020年に2代目の清水司氏に引き継がれ、その哲学は継承されている。西崎ファームの鴨肉は、現在その9割以上が有名レストランへ出荷されているという。シェフたちは、「かすみ鴨」の柔らかい赤身と、しつこさのない豊かな風味の脂を評価しているようだ。
料理人との対話を重視し、彼らの要望に応えながら鴨を育てていきたいという清水氏の姿勢は、高品質な食材を求める現代の料理界と生産者の関係性を示している。飼育から加工まで一貫して行うことで、屠畜直後の新鮮な鴨肉を最短で提供できる体制も、料理人からの信頼を得る要因だろう。地元の茨城県内では、霞ヶ浦周辺のレストランや蕎麦店などで「かすみ鴨」を使った料理が提供されており、地域ブランドとしての認知度も高まっている。
霞ヶ浦の「かすみ鴨」が示すのは、単なるブランド肉の成功物語ではない。そこには、大量生産・効率化とは一線を画し、鴨本来の生理と土地の自然条件に寄り添う生産者の姿勢がある。渡り鳥が越冬する豊かな水辺という地理的条件が、鴨を育む環境のヒントを与え、その土地で養鴨を始めた人の「動物福祉」への問いかけが、現在の飼育方法に繋がった。
「育てるのではなく、育ってくれるのを待つ」という言葉は、人間が自然を支配するのではなく、その営みに敬意を払い、共生しようとする試みの一端を表している。霞ヶ浦の「かすみ」が、水面に立ちこめる霧だけでなく、鴨と人が織りなす、ある種の曖昧で奥深い関係性を象徴しているのかもしれない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。