2026年5月21日
琉球から薩摩へ、サツマイモが九州に根付いた理由
サツマイモは17世紀初頭に琉球へ伝来し、その後薩摩へもたらされた。痩せた土地でも育ち、飢饉に強いサツマイモは、薩摩の風土と人々の必要性から栽培が奨励され、定着していった。
薩摩芋、その名の由来をたどる
秋風が吹き始めると、街角に甘く香ばしい匂いが漂うことがある。焼き芋の香りだ。日本の食卓に深く根ざした薩摩芋は、その名が示す通り「薩摩の芋」として親しまれている。しかし、この「薩摩」という地名が、単に伝来経路を示しているだけなのか、それとも、この芋がこの地で特別な意味を持った結果として名付けられたのか。その背景には、九州の風土と、人々が飢えと向き合った歴史が横たわっている。
琉球から薩摩へ、海の道が繋いだ芋の旅
サツマイモの原産地はメキシコを中心とする熱帯アメリカ大陸であり、大航海時代を経て世界各地に伝播した。日本への伝来は、17世紀初頭の江戸時代初期に遡る。まず1605年(慶長10年)頃、中国の福建省から琉球王国(現在の沖縄県)にもたらされたのが始まりとされる。野國總管(のぐにそうかん)という琉球の役人が中国から鉢植えの甘藷を持ち帰り、儀間真常(ぎましんじょう)がその栽培法を研究し、琉球全土に普及させたという記録が残る。琉球は台風が多く、たびたび飢饉に見舞われていたため、サツマイモのような気候不順に強い作物は、まさに「食糧革命」ともいうべき画期的な出来事だったのだ。
琉球で定着したサツマイモが、現在の鹿児島県である薩摩国に伝わるまでには、複数の経路があったと言われている。一つの説として、1698年(元禄11年)に種子島の島主である種子島久基が琉球王尚貞から取り寄せ、栽培に成功したというものがある。また、1705年(宝永2年)には、薩摩山川の漁師である前田利右衛門(まえだりえもん)が琉球に渡った際、現地で栽培されているサツマイモに着目し、その苗を薩摩に持ち帰ったという伝承も広く知られている。利右衛門は自らの畑で栽培を試み、成功すると、その種芋や苗を近隣の農民に分け与え、瞬く間に薩摩全域に広まったとされる。この功績から、前田利右衛門は「甘藷翁(かんしょおう)」と称され、故郷の指宿市山川には彼を祀る徳光神社が建立されている。
ただし、一介の漁師が行政の力なくして広範囲に普及させたとは考えにくいという見方もある。後に島津藩の家老となり農政を担当した種子島久基が、前田利右衛門の名で普及活動を行ったとする説も存在する。いずれにせよ、17世紀末から18世紀初頭にかけて、琉球から薩摩へとサツマイモが伝わり、その後の日本の食糧事情に大きな影響を与えることになるのだ。
不毛の地で命を繋いだ、三つの条件
サツマイモが九州、特に薩摩でこれほどまでに深く定着した背景には、いくつかの要因が重なり合っていた。第一に挙げられるのは、薩摩のである。鹿児島県本土の約52%を占める広大なシラス台地は、火山の大噴火によってできた白っぽい砂礫の台地で、有機物をあまり含まない痩せた土地である。水はけが良すぎるため、稲作には不向きな場所が多かった。しかし、サツマイモは水はけの良い土壌を好み、痩せた土地でも比較的よく育つ特性を持つ。火山灰土壌はミネラルを豊富に含み、温暖な気候と相まって、サツマイモの栽培に適していたのだ。
