2026/7/7
室町時代、豆腐のにがりはどう確保されたのか?

室町時代に豆腐が一般化したと見たことがあるが、にがりはどうしたのか?
キュリオす
室町時代に豆腐が庶民食となった背景には、製塩技術の革新による「にがり」の安定供給があった。揚浜式塩田の普及が、豆腐の普及を支えたメカニズムを解説。
供え物から市場の主役へ
白い立方体が、整然と水の中に並んでいる。現代のスーパーマーケットで見慣れたその光景は、実は室町時代の都市部ですでに完成していた。豆腐。この植物性タンパク質の塊が、寺院の奥深くにある精進料理の「供え物」という地位を脱し、町衆の日常食へと一気に駆け上がったのが室町時代である。当時の往来物(教科書)である「庭訓往来」には、酒や魚と並んで豆腐が日常の品として記されており、奈良の興福寺の記録である「多聞院日記」には、豆腐を売買する商人の姿が頻繁に登場する。
だが、ここで一つの物理的な疑問が浮かぶ。豆腐を固めるには凝固剤、すなわち「にがり」が不可欠だ。大豆を煮て絞った豆乳に、塩化マグネシウムを主成分とするにがりを加えることで、タンパク質が網目状に結合し、あの独特の食感が生まれる。現代でこそ化学的に精製された凝固剤が安価に流通しているが、物流も技術も限られた中世において、この「にがり」をどう確保していたのか。
塩の副産物であるにがりは、海辺の製塩地でしか手に入らない。一方で、豆腐の需要が爆発したのは京都や奈良といった内陸の都市である。塩そのものが貴重品であった時代に、その「残りカス」に過ぎない苦い液体を、わざわざ山を越えて運び、大量消費される豆腐のために供給し続ける。そこには単なる調理技術の伝播だけでは説明がつかない、当時の産業構造の劇的な変化が隠されているのではないだろうか。
僧侶の食べ物から都市の専門職へ
豆腐が日本に伝わったのは、奈良時代から平安時代にかけての遣唐使によるものと言われている。当初、それはあくまで仏教文化に付随する「僧侶の食べ物」であった。殺生を禁じられた僧侶にとって、大豆は貴重なタンパク源であり、豆腐はその調理のバリエーションを広げる画期的な発明だった。平安末期の「江談抄」などの記録には、法会の際の献立として豆腐の名が見えるが、それは貴族や有力僧侶といった極めて限定的な階層にのみ許された贅沢品であった。
この「寺院の食」が、室町時代に入ると急速に門前町や城下町へと染み出していく。その背景には、室町幕府による貨幣経済の浸透と、それに伴う都市人口の増加がある。特に京都や奈良では、寺院の周辺に「豆腐屋」という専業の職人が現れ始めた。興福寺の「多聞院日記」を紐解くと、天文年間(1532〜1555年)にはすでに「豆腐の座」という特権的な組合が存在し、原料の大豆の仕入れや販売権を巡って激しい争いが行われていたことがわかる。
室町時代には豆腐の製法そのものが大きく進化した。それまでは豆乳を加熱せずに固める、あるいは加熱した呉(砕いた大豆)をそのまま固めるような、現代の豆腐よりはるかに脆く、あるいは重いものだったと考えられている。しかし、室町中期以降、煮た呉を布で絞り、透明な豆乳を抽出してから固める「煮しぼり」の技法が確立された。この工程の分離により、豆腐は飛躍的に滑らかになり、料理としての完成度を高めた。
しかし、製法が洗練されればされるほど、凝固剤の重要性は増していく。豆乳の温度、攪拌のタイミング、そしてにがりの投入量。この微妙なバランスが豆腐の出来を左右する。当時の人々は、この「海からの贈り物」をいかにして手に入れ、内陸の食卓へと届けたのか。その答えは、同じ室町時代に起きた「塩」の生産革命の中にある。
揚浜式塩田がもたらした物流
豆腐の普及を語る上で欠かせないのが、同時期における製塩技術の転換である。中世以前、日本の製塩は「藻塩焼き」と呼ばれる、海藻に海水をかけて乾かし、それを焼いた灰から濃い塩水を抽出して煮詰めるという、極めて効率の悪い方法が主流だった。この方法では、得られる塩の量も少なく、副産物であるにがりも微量しか採取できない。
ところが室町時代、特に中期から末期にかけて、瀬戸内海沿岸を中心に「揚浜式塩田」が普及し始める。これは海岸に粘土を敷き詰め、その上に砂を撒いて海水を汲み上げ、太陽と風の力で水分を蒸発させて濃い塩水(かん水)を作る仕組みだ。この技術導入により、塩の生産量は飛躍的に増大した。
塩を作る工程では、かん水を釜で長時間煮詰めていく。すると、まず主成分である塩化ナトリウムが結晶として沈殿する。その結晶を掬い取った後に釜に残る、あるいは塩をザルに上げて滴り落ちる茶褐色のドロドロとした液体。これこそが「にがり(苦汁)」である。塩の生産量が「産業」と呼べる規模に拡大したことで、それまで捨てられるか自家消費される程度だったにがりが、商品として流通するだけのボリュームを持ち始めたのだ。
室町時代の物流網、いわゆる「問丸」や「運送の座」がこの流通を担った。瀬戸内海の塩田から運び出された塩は、淀川を遡り、京都の「塩の座」へと届けられる。このとき、塩の俵からは常に水分が滴り落ちていた。当時の塩は現代のような乾いた粒ではなく、にがり成分をたっぷり含んだ湿った塊だったからだ。京都や奈良の豆腐職人たちは、この塩の流通ルートに相乗りする形で、あるいは塩そのものから滴り落ちる液体を回収することで、凝固剤を確保していた。つまり、豆腐の普及は、中世日本のエネルギー革命とも言える「大規模塩田の開発」というインフラ整備によって、初めて可能になったのである。
石膏と酸水に見る日本の選択
日本において豆腐の凝固剤といえばにがりが代名詞だが、視野を東アジア全体に広げると、必ずしもそれが唯一の解ではないことに気づく。豆腐の発祥地である中国では、古くから「石膏(硫酸カルシウム)」が凝固剤として広く使われてきた。石膏は天然の鉱物であり、海のない内陸部でも入手が容易である。
中国の豆腐が、日本のそれよりもやや硬く、豆腐干のように加工しやすい性質を持つのは、この石膏の使用に由来する部分が大きい。石膏はにがりに比べて凝固反応が緩やかで、保水性が高い。そのため、失敗が少なく大量生産に向いているという特徴がある。日本でも、戦国時代から江戸時代にかけて、一部の地域では石膏が使われていた形跡があるが、主流にはならなかった。それは、四方を海に囲まれ、各地に塩田が発達した日本という土地の条件が、にがりという選択肢を「当たり前」のものにしたからだろう。
また、にがりも石膏も手に入らない地域では、さらに別の工夫が見られた。例えば、大豆を煮た後の「ゆで汁」を放置して発酵させ、酸味の出た「酸水」を凝固剤として使う手法である。これは現代でも中国の一部や、日本の山間部のごく一部に伝承されている。あるいは、木灰を水に溶かした「灰汁(あく)」を使って固める手法もある。
これらと比較すると、室町時代の日本がにがりを選択し、それを物流に乗せてまで内陸へ運んだことの特異性が際立つ。にがりで固めた豆腐は、大豆の甘みを強く引き出し、口の中でとろけるような食感を生む。当時の日本人が求めたのは、単なる保存食としてのタンパク源ではなく、その繊細な風味だった。にがりの確保という物流上のコストを支払ってでも、彼らは「旨い豆腐」という美食の領域へ足を踏み入れていたのである。
伝統的な凝固剤の再評価
室町時代に確立された「にがりによる豆腐作り」は、その後数百年にわたって日本の食のスタンダードであり続けた。しかし、この伝統が一度、壊滅的な危機に瀕した時期がある。第二次世界大戦中である。にがりの主成分であるマグネシウムは、航空機の機体に使われるジュラルミンの原料として極めて重要な軍需物資となった。そのため、全国の豆腐店からにがりが没収され、代用品として石膏(すまし粉)の使用が強制された。
戦後も、大量生産に適した化学凝固剤やグルコノデルタラクトンといった新成分が登場し、手間のかかる天然にがりは市場から姿を消しかけた。昭和の高度経済成長期、豆腐は「安価なタンパク源」として工業製品化され、かつて室町時代の職人が塩の滴りから一滴ずつ集めたような物語性は失われていった。
しかし、ここ数十年の間に、再び風景は変わりつつある。1970年代以降の自然食ブームや、1997年の塩専売制の廃止を経て、各地の製塩所が復活し、それに伴って「天然にがり」の流通が再開された。今、こだわりの豆腐店の店頭を覗けば、「伊豆大島産にがり使用」「赤穂の天然にがり」といった文字が誇らしげに並んでいる。
現代の私たちが手にする一丁の豆腐は、かつての中世人が執念深く追い求めた「海と大地の接点」の再現でもある。機械化された工場であっても、豆乳ににがりを打つ瞬間だけは、職人の目が鋭くなる。それは、500年以上前の奈良や京都の路地裏で、塩の俵から染み出す苦い水を宝物のように扱っていた職人たちの眼差しと、本質的には何も変わっていない。
瀬戸内の塩田が支えた食文化
豆腐という食べ物を、単なる大豆加工品としてではなく、塩業の「余剰」を活用したシステムとして捉え直すと、室町時代という時代の輪郭がより鮮明に見えてくる。当時の人々にとって、塩は生命維持に不可欠な一級の戦略物資だった。その生産工程から必然的に生まれてしまう「苦くて使い道のない液体」を、彼らは捨てるのではなく、別の価値へと転換した。
この「副産物の再定義」こそが、中世日本の都市文化を支えた知恵の本質ではないか。塩を作るための熱エネルギー、海水を運ぶ労働力、そして広大な塩田という土地利用。それらすべてのコストは、第一義的には「塩」のために支払われている。豆腐の凝固剤としてのにがりは、その巨大な投資の陰に隠れた、いわばフリーライド(ただ乗り)の恩恵だった。この安価で潤沢な凝固剤の供給があったからこそ、豆腐は高級な精進料理の枠を飛び出し、庶民の胃袋を満たすボリュームゾーンへと降りてくることができた。
もし日本が岩塩の国であったなら、あるいは製塩技術が未発達なままだったなら、豆腐は今のような「国民食」にはなっていなかっただろう。にがりという、扱いが難しく、かつ物流に依存する素材をあえて選んだことで、日本の豆腐は独自の進化を遂げた。それは、土地の制約を技術と物流で突破しようとした、室町という時代のエネルギーの結晶でもある。
今、私たちが冷奴を口にするとき、感じるのは大豆の風味だけではない。そこには、瀬戸内の潮風、釜を焚き続ける煙、そしてそれらを内陸へと運び続けた人々の足跡が、目に見えない成分として溶け込んでいる。一丁の豆腐の白さは、かつての日本人が「苦い水」の中に見出した、ひとつの合理的な美学の到達点なのである。

塩の精製の革命も起こっていたのか。しらなかった。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。