2026/6/5
本庄の歴史:古代豪族から宿場町、絹産業まで

埼玉の本庄の歴史についても詳しく教えて欲しい。
キュリオす
埼玉の本庄市は、古代の豪族が築いた古墳、中山道最大の宿場町としての賑わい、そして近代の絹産業の中心地として発展してきた。利根川水運や街道との接点、そして時代の変化に対応する柔軟性が、この地の歴史を形作ってきた。
埼玉県の北西部に位置する本庄市を訪れると、その地形の多様さに気づかされる。北には利根川が流れ、南西には陣見山などの山々が連なる。この地が、単なる平野の一部ではなく、古くから人々が暮らし、文化を育んできた複雑な歴史を秘めていることを、その起伏が語りかけてくるようだ。なぜこの土地が、時代ごとに異なる顔を見せながら発展を遂げてきたのか。その問いは、足元の土壌から、かつてこの地を往来した人々の足跡へと誘う。
本庄の歴史は、今からおよそ2万年前の旧石器時代に遡る。小島石神境遺跡などからは当時の石器が出土しており、この地が早くから人類の活動拠点であったことが窺える。古墳時代には、県内でも有数の大規模な遺跡群が分布し、特に鷺山古墳は4世紀前半の築造と推定される県内最古級の前方後方墳である。また、前山1号墳は県内最大の前期前方後円墳であり、これらの古墳からは、全国的にも珍しい「笑う盾持人物埴輪」や坊主頭の人物埴輪が出土している。これらはこの地の古代豪族の勢力を示すものだろう。
奈良時代には武蔵国児玉郡に編入され、平安時代末期には武蔵七党の一つである児玉党が台頭する。児玉党の本宗家である庄氏が12世紀頃に栗崎に館を構え、その分家が13世紀頃に北堀に館を築き「本庄氏」を名乗ったことが、現在の地名の由来とされている。
戦国時代に入ると、本庄は関東の争乱の最前線となる。15世紀には五十子陣が築かれ、享徳の乱では関東管領上杉氏の拠点となった。1556年(弘治2年)には本庄宮内少輔実忠が現在の市役所付近に本庄城を築き、利根川水系に削られた河岸段丘の天然の要害を利用した。しかし、1590年(天正18年)の小田原征伐で本庄氏は滅亡し、本庄城も落城する。
江戸時代に入り、徳川家康が関東に入国すると、小笠原信嶺が本庄城主となり本庄藩が立藩される。しかし、1612年(慶長17年)には小笠原氏が古河藩へ移封され、本庄藩はわずか22年で廃藩、本庄城も廃城となる。この廃城が、皮肉にも本庄の新たな発展の契機となった。城下町は中山道の宿場町として整備され、「本庄宿」が誕生する。 天保14年(1843年)には、人口4,554人、家数1,212軒を数え、中山道六十九次の中で最大の宿場町へと発展した。
本庄宿が中山道最大の宿場町となり得た背景には、複数の要因が重なっている。まず、地理的な条件として、武蔵国の最北端に位置し、利根川の水運との接点であったことが挙げられる。利根川の河岸を通じて物資が集積し、中山道を通じて江戸へと運ばれる物流のハブとしての役割を担ったのだ。 加えて、中山道だけでなく下仁田街道(上州姫街道)との追分でもあり、信州や越後、上州方面への分岐点でもあったため、人や物の往来が絶えなかった。
そして、早期に本庄藩が廃藩となり、城下町全体を宿場町として転用できたことも大きな要因である。他の宿場町では城下町と宿場町が併存し、武家と商家の区別があったのに対し、本庄宿は城の縛りから解放され、純粋な商業都市として発展する道を選べた。これにより、戸谷半兵衛家のような豪商が生まれ、飢饉の際には領民の救済に当たるなど、その経済力が地域社会の安定にも寄与したという。
明治時代に入ると、本庄は宿場町から養蚕・製糸業の町へと変貌を遂げる。1872年(明治5年)に官営富岡製糸場が開業すると、本庄は繭の集散地として賑わいを見せるようになる。 1883年(明治16年)には日本鉄道(現在の高崎線)が開通し、物流はさらに効率化され、繭や生糸の取引が活発化した。 多くの製糸工場が進出し、繭を担保とした融資を行う本庄商業銀行が1894年(明治27年)に設立され、その繭蔵として煉瓦倉庫が建設されるなど、絹産業が経済を牽引した。 諸井泉衛や、その子で秩父セメントを創業した諸井恒平など、日本の近代化に貢献した実業家もこの地から輩出されている。
日本の街道沿いには数多くの宿場町が存在した。例えば、東海道の箱根宿や中山道の奈良井宿、妻籠宿などは、それぞれが独自の歴史的背景や地理的条件から発展してきた。箱根宿は、天下の険として知られる箱根越えの要衝であり、関所が置かれたことで軍事・交通上の重要性が高かった。奈良井宿や妻籠宿は、木曽路の難所に位置し、山間部の物資集散地として、また旅人の休憩地として栄えた。これらの宿場町は、地理的な制約や政治的な意図が色濃く反映された発展を遂げたと言えるだろう。
対して本庄宿は、早期の廃藩によって城下町の枠組みから解放され、純粋な商業都市としての機能を追求できた点が特徴的である。中山道最大の宿場町という規模は、単なる交通の要衝というだけでなく、利根川水運との連携や、周辺地域への分岐点としての役割が複合的に作用した結果であった。城下町としての歴史が宿場町の基盤となり、その後の絹産業の発展へと繋がる、柔軟な転換を見せた点が他とは異なる。
また、明治以降の絹産業の発展も、富岡製糸場という官営工場を核とした地域経済圏の中で、本庄が原料供給と流通の要として機能した点で特筆される。多くの宿場町が明治維新後の鉄道開通によって衰退の道を辿る中で、本庄は鉄道を新たな物流の動脈として活用し、絹という当時の基幹産業と結びつくことで、近代化の波に乗ることができた。 これは、単に古い伝統を守るだけでなく、時代の変化に合わせて産業構造を転換させ、新たな価値を生み出す地域としての対応力があったことを示している。
現在の本庄市内を歩くと、その歴史の重層性を感じさせる風景に出会う。旧中山道沿いには、かつて本陣や脇本陣が置かれた名残を示す史跡が点在し、宿場町としての賑わいを今に伝えている。 また、明治期に繭蔵として建設された旧本庄商業銀行煉瓦倉庫は、現在は交流展示スペース「本庄レンガ倉庫」として活用され、近代の絹産業の記憶を留めている。 競進社模範蚕室も、養蚕業の技術革新を物語る貴重な文化財として保存されている。
本庄市は、JR高崎線、八高線、上越新幹線の本庄早稲田駅、さらには関越自動車道の本庄児玉インターチェンジといった交通網が整備され、首都圏からのアクセスも良好である。 歴史的な建造物の保存と活用を進めながら、新たな産業や地域活性化の取り組みも進められている。例えば、本庄絣といった伝統的な絹織物の技法を受け継ぎ、現代の製品へと展開する試みも行われている。
本庄の歴史をたどると、この地が常に「結節点」であったことが浮かび上がる。古代には古墳が築かれ、地域の有力者が集う場であった。中世には武家の争乱の最前線となり、鎌倉街道の要所として機能した。近世には中山道最大の宿場町として、人、物資、情報が行き交う交通のハブとなった。そして近代には、絹産業という新たな経済の動脈が、鉄道という新しい交通手段と結びつき、地域の繁栄を支えた。
本庄は、特定の産業や政治的中心地として固定されることなく、時代ごとの要請に応じてその役割を変え、柔軟に対応してきたと言える。それは、利根川という大河がもたらす水資源と肥沃な土地、そして関東平野と山間部の境界という地理的特性が、常に多様な可能性をこの地に与えてきたからかもしれない。道が結び、絹が紡いだ本庄の歴史は、変化を恐れず、常に新しい「結び目」を探し続けた人々の足跡そのものなのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。