秋田平野の地下60メートルに巨大な古い谷が隠されているのはなぜか?

平野の地下に沈む古い谷
秋田の沿岸部に立つと、目の前にはどこまでも平坦な水田地帯が広がっている。秋田平野や能代平野、あるいは内陸の横手盆地を走る車窓からは、起伏の少ない穏やかな地表が延々と続くように見える。雄物川や米代川といった大河川も、ゆったりとした足取りで日本海を目指して流れていく。この穏やかな風景を目にすると、ここは古くから安定した平地として存在してきたのだと誰もが思いがちだ。
しかし、地質のデータを開くと、その直観は一瞬で打ち砕かれる。例えば秋田平野の地下には、現在の地表からは想像もつかない深い切れ込みが隠れている。ボーリング調査や地盤解析によって明かされたのは、基盤となる岩石を深く削り込んだ「先雄物川谷」と呼ばれる巨大な谷の存在だ。その谷底は平野中央部で深さ約60メートル、北部では70メートル以上に達し、かつての河川が大地を激しく刻んだ痕跡を今に伝えている。
平坦に見える水田の下には、ビル数階分に相当する深さの古谷や侵食段丘が伏在し、それが厚い砂礫や泥によって完全に埋め立てられている。なぜ、これほど極端な高低差を持つ谷が地下に埋もれることになったのか。そして、日本海側に位置するこの土地は、どのような地球の営みによって現在の姿へと組み上げられたのだろうか。
海底の噴火から脊梁の隆起へ
秋田の地格を形作った大連動は、今から約2000万年前の新第三紀中新世にまで遡る。当時、日本列島はまだユーラシア大陸の東端に張り付いた一部に過ぎなかった。だが、プレートの引き裂き運動によって大陸から切り離され、現在の日本海となる広大な窪地が生まれ始める。この日本海拡大のプロセスに伴い、現在の秋田県全域に相当する地域は激しい海底火山活動の舞台となった。
激しい噴火によって海洋底へ大量の火山灰や浮石が供給された。それらが海水や熱水と反応して化学変化を起こすことで生まれたのが、緑色を帯びた凝灰岩や泥岩――いわゆるグリーンタフ(緑色凝灰岩)である。秋田の基盤構造の大部分は、この新第三紀の海底火山活動によって作られた厚い緑色凝灰岩や黒色泥岩、砂岩などの層によって占められている。この時代に地下で巡っていた熱水は、のちに小坂や花輪などの金属鉱脈(黒鉱)を形成する土土台ともなった。
地殻の引き裂きが収まると、今度は東西からの圧縮運動が始まる。約500万年前から現在にかけて、陸地化と急激な隆起運動が進行した。東側の岩手県境沿いでは、東北地方の背骨にあたる奥羽山脈(奥羽脊梁山脈)が大きく押し上げられた。この山脈の軸線に沿って那須火山帯の活動が活発化し、八幡平(標高1613メートル)、秋田駒ヶ岳(標高1637メートル)、栗駒山(標高1627メートル)といった急峻な火山群が誕生する。さらに、巨大な噴火によって十和田湖や田沢湖というカルデラ湖が形成された。
一方で、奥羽山脈の西側には、もうひとつの山地が平行するように隆起した。青森県西部から山形県中央部まで約250キロメートルにわたって伸びる出羽山地(出羽丘陵)である。出羽山地の多くは標高500〜600メートル程度の低い平頂丘陵だが、その体躯は新第三紀の凝灰岩や砂岩、頁岩で構成されている。この出羽山地は単一の山脈ではなく、東西に流れる米代川、雄物川、子吉川といった大河川によって分断され、北から白神山地、太平山地、笹森丘陵、丁岳山地といった個別のブロックに細かく切り分けられた。
東の奥羽山脈と、西の出羽山地。この二つの平行する隆起帯に挟まれたことで、その間には南北に伸びる陥没・沈降部が取り残された。ここが現在の花輪盆地(鹿角盆地)、大館盆地、鷹巣盆地、そして県南部に広がる横手盆地や仙北盆地である。秋田の地形は、二条の山脈が並走し、その隙間に盆地列が嵌め込まれ、さらに西側の出羽山地を河川が穿破して海岸平野に至るという、きわめて立体的な格子状の骨組みを持っているのだ。
氷期が削り土砂が伏せた暗渠構造
二重の隆起帯と内陸盆地という骨格が完成したあとも、大地の彫刻は止まらなかった。地形を最終的に決定づけたのは、地球規模で繰り返された氷期と間氷期の気候変動、そして水流による侵食と埋積のドラマである。
数万年前の最終氷期、地球上の水が氷河として陸上に固定されたため、世界の海水面は現在よりも100メートル以上低かった。海面が低下すると、日本海へ注ぐ河川の河口位置ははるか沖合へと後退し、河川の侵食力は飛躍的に高まる。雄物川の前身にあたる古河川は、出羽山地を抜けて日本海へと注ぐ過程で、新第三紀の古い地層を深く切り刻んでいった。この激しい下向侵食によって形成されたのが、幅500〜700メートル、深さ50〜70メートルに及ぶ先雄物川谷である。同時に、現在の秋田市四ッ小屋地区や牛島地区の地下約20メートルには、当時の川が削り残した平坦な侵食面――四ッ小屋段丘や牛島段丘と呼ばれる埋没段丘が刻まれた。
約2万年前をピークとする氷期が終わりに向かうと、気候は温暖化し、海面が急速に上昇する。海面が上がると河川の勾配はゆるやかになり、それまで山地から運ばれてきた砂礫や土砂が、一転して谷や段丘を埋め尽くすように堆積し始めた。氷期に作られた巨大な谷や段丘は、わずか数万年の間に土砂の層によって完全に覆い隠された。これが現在の秋田平野、能代平野、本荘平野の正体である。
流路を土砂で埋め尽くされた河川は、平野部で勾配を失い、あちこちへ流路を変えながら激しく蛇行するようになった。雄物川は横手盆地を出てから秋田平野を抜けるまで、幾度も氾濫を繰り返した。その結果、平野の各所には河跡湖、旧河道、自然堤防、後背湿地といった氾濫原固有の微地形が密密と網の目のように残された。地表に見える平坦地は、広大な「川の暴れ跡」を土砂が均した結果に過ぎない。
さらに、この土地の地下に広がる地質そのものが、防災上の弱点を抱え込んでいる。新第三紀の海底火山活動に由来するグリーンタフや黒色泥岩は、変質作用によってモンモリロナイトと呼ばれる膨潤性の高い粘土鉱物を多く含む。これが秋田の気候――2メートルを超す豪雪と、春先の融雪水――と結びつくことで、大規模な地すべりを引き起こす要因となる。秋田県内には2022年時点で197箇所、総面積7325ヘクタールに及ぶ地すべり防止区域が指定されているが、その多くが出羽丘陵や横手盆地東縁の弱構造線、男鹿半島周辺など、グリーンタフ地帯に集中している。
越後と仙台が描く別の凹凸
秋田の地質構造が持つ特殊性は、他の地域と比較することでより明瞭になる。同じ日本海側に位置する新潟の越後平野、そして太平洋側に位置する宮城の仙台平野と並べてみよう。
新潟の越後平野も、秋田と同様に新第三紀のグリーンタフ地帯を土台とし、信濃川や阿賀野川といった大河川が運んだ土砂によって作られた沖積平野である。しかし、越後平野の背景にあるのは、広域的な沈降運動が継続した巨大な沈降盆地だ。ここでは何十メートル、時には100メートルを超えるぶ厚い沖積泥層が堆積しており、平野全体が地殻の沈降に合わせて土砂で埋め立てられ続けてきた。対して秋田は、沈降盆地が一元的に広がるのではなく、奥羽山脈と出羽山地という二つの隆起軸が存在し、その間に内陸盆地が孤立して並ぶという構造を取る。
太平洋側の仙台平野と比較すると、その違いはさらに際立つ。仙台平野は、奥羽山脈から太平洋に向かって地形が全体として東へ傾斜しており、阿武隈川や名取川、広瀬川といった河川が山脈から太平洋へ向かってほぼ直線的に下っていく。そこには出羽山地のような「沿岸部を遮る平行な山地」が存在しないため、河川は山地を出るとそのまま直接扇状地や沿岸平野を形成する。地形の配置はきわめてシンプルであり、内陸盆地と沿岸平野が山地によって二重に切り離されるような複雑さは見られない。
秋田の地形が描く最大の特異点は、水脈の遠回りにある。奥羽山脈に端を発した水流は、まず内陸の横手盆地や大館盆地に溜まり、そこで一度平野を形成する。しかし、すぐ西側に出羽山地という壁が立ちはだかっているため、水流は山地を突き破る狭い谷間を探して西へと進み、ようやく能代や秋田、本荘といった沿岸平野に出ていく。そしてその沿岸平野の地下には、氷期に刻まれた先雄物川谷のような深谷が潜んでいる。
二つの山脈に挟まれた内陸盆地列、それを横切る狭隘な河谷、そして沿岸部の埋没谷。この三つの要素が連続する立体的な多層構造こそが、仙台平野の単純な傾斜地形や、越後平野の広大な沈降低地とは異なる、秋田固有の地学構造なのだ。
膨潤する粘土と人工の放水路
大地がたどってきた激しい変動と埋積のプロセスは、現代の秋田における人々の暮らしやインフラの現場にダイレクトに結びついている。
あきたこまちに代表される米どころとしての基盤は、雄物川や米代川が氾濫原に積み上げた肥沃な沖積土壌によって支えられている。しかしその足元は、建設や土木の観点からは非常に繊細な地盤である。平野部や盆地部には軟弱な泥砂層や、層厚が10メートルを超える樹枝状の谷泥炭地が広がり、構造物の沈下やすべりを引き起こしやすい。道路や建物の建設にあたっては、押え盛土やサンドドレーン、さらには深層混合処理工法などの地盤改良が欠かせない。1983年の日本海中部地震(マグニチュード7.7)の際には、旧河道や砂丘間低地の盛土部分で大規模な液状化現象が発生し、地下構造の脆さが浮き彫りとなった。
山地や丘陵地に目を転じれば、モンモリロナイト粘土と豪雪がもたらす地すべりとの戦いが続いている。農林水産省の農村振興局や国土交通省、林野庁によって指定された防止区域では、地下水を抜く集水井や明暗渠排水工、地盤を固定するアンカー工や杭打工が施工されている。小渕や神成、狼沢といった集落の背後では、目に見えない地下の変質帯と融雪水の挙動を監視する土木技術が張り巡らされた。
また、氾濫を繰り返してきた雄物川の治水史において最大の転換点となったのが、秋田市新屋(あらや)地区における人工放水路の開削である。かつて雄物川は秋田平野に入ると北へ大きく蛇行し、旧雄物川を通って日本海へ注いでいた。この蛇行が毎年のように大水害を引き起こしたため、大正から昭和初期にかけて山を削り、直線的に日本海へ抜ける放水路が掘削された。1938年(昭和13年)に完成した新屋放水路により、大量の洪水は直接海へ排出されるようになり、秋田市の安全度は劇的に向上した。
この放水路の完成によって、かつて先雄物川谷を刻み、氾濫を繰り返した雄物川の旧流路は静かな水路へと姿を変えた。人間の技術が地学的な氾濫の連鎖を断ち切り、その暴れ痕を街並みや田園の下へと押し込めたのである。
見えない谷の上に立つ田園
秋田の土地を旅するとき、広大な水田の背後にそびえる奥羽山脈や、日本海沿いに低く連なる出羽山地の姿は、ごくありふれた地方の風景に見えるかもしれない。しかし、地学の視点を少し差し込むだけで、その視界は一変する。
地表に見える穏やかな平野は、決して静止した大地ではない。2000万年前の海底噴火が積み上げたグリーンタフの層、500万年前からの東西圧縮が生んだ二条の山脈と内陸盆地、そして数万年前の氷期が深く刻み、その後の温暖化が砂礫で埋め立てた深さ50メートル以上の地下谷。目の前に広がる一見フラットな田園は、これら巨大な地球の変動が残した凹凸を、土砂がギリギリまで覆い隠している「暗渠」のような場所なのだ。
出羽山地を切り裂いて流れる米代川、雄物川、子吉川の3大河川。県内197箇所に及ぶ地すべり防止区域。地下60メートルの暗闇に横たわる先雄物川谷の砂礫。それらひとつひとつの事実と数字は、この土地が今なお過渡期の地殻変動の中にあり、山が上がり、谷が埋まり続けている最中であることを示している。
秋田平野の土を踏むとき、我々が立っているのは単なる平坦な土地ではない。地下に伏在する古谷の存在と、それを埋めた水と土砂の果てしない積層の上に、束の間の平穏としてその風景は置かれている。
旅と食が好き。どこにでもいます。