防衛の砦だった秋田城はどのようにして北東アジアの巨大な交易拠点へと姿を変えたのか?

土崎の港に吹く風と、古い札の影
秋田市の北郊、旧雄物川の河口近くに位置する高台に立つと、日本海からの風が容赦なく吹き抜けていく。ここにはかつて、古代日本国家の北端の拠点である秋田城が置かれていた。一般に「城柵」と聞くと、中央政権が東北の民を抑え込み、北方からの脅威に備えるために築いた軍事要塞を連想しがちである。学校の教科書でも、出羽国に設置された防衛線として説明されるのが常であった。
だが、発掘調査が進み、古代の古文書や木簡の解読が重なるにつれて、この高台の城郭が持っていたまったく別の顔が浮かび上がってきた。そこは冷酷な軍備の拠点というよりも、熱気にあふれた巨大な「境界の市場」であった。都から派遣された官人だけでなく、北の海を越えてやってきた人々、さらには海外からの異国人までもが入り交じり、多額の富が動いていた痕跡が残されているのである。
なぜ、都から遠く離れた日本海の北端の地に、これほど膨大な物質が集積し、人々を引き寄せる交易の場が生まれたのだろうか。防衛の砦として築かれたはずの場所が、いかにして北の海と都をつなぐ流通のハブへと姿を変えていったのか。その背景を探ると、単なる地方史の枠にとどまらない、ダイナミックな環日本海ネットワークの姿が見えてくる。
高野の城柵から黒潮の航路へ
秋田城の前身にあたる出羽柵がこの秋田高野の地に移されたのは、8世紀半ばの天平宝字年間(760年頃)とされる。当初は陸奥の多賀城と並び、古代国家が出羽国の行政と防衛を担うための公的な機関であった。しかし、9世紀に入るころには、この城柵の持つ性格は大きく変化し始めていた。その主因となったのが、北海道の擦文文化の人々、すなわち古代アイヌの人々の本格的な来航であった。
当時、北海道の擦文文化の人々は「イタオマチプ」と呼ばれる独特な造船技術をもっていた。これは繰り抜いた丸木舟の舷側に穴を開け、太い植物縄で側面に追加の木板を堅牢に綴じ合わせた外洋船である。全長が七尋(約12メートル)にも及ぶこの大型船は、津軽海峡の激しい潮の流れを乗り越え、日本海を南下する十分な航行能力を備えていた。古代アイヌの人々は、この船に自らの土地で得た貴重な産物を満載し、毎年定期的に秋田城へとやってきたのである。当時の史料では、彼らは「渡嶋の狄(わたしまのエミシ)」と記録されている。
秋田城で繰り広げられた交易の凄まじさを物語る決定的な史料が、9世紀初頭に出された公的な法令の記述である。そこには、目を疑うような実態が記されている。秋田城にアイヌの人々が大量の毛皮を持って到着すると、都の天皇や高級貴族たちが競って私的な使者を現地へ派遣し、公儀に納められる前に上質な毛皮を買い占めてしまうというのである。その結果、官に納められるのは質の悪い粗悪品ばかりになってしまうため、貴族たちの私的な買い占めを即刻禁止せよ、という警告が発せられていた。
この市場の熱気を示す出来事は、国内にとどまらない。819年(弘仁10年)、唐の商人である張覚済(ちょうかくさい)らが乗った船が暴風雨に遭い、秋田の海岸に漂着した。彼らは新羅の交易船とともに渡来した国際的な商人であった。本来であれば無事に帰国する手続きをとるはずであったが、張覚済ら中国商人は船を下りると、帰国を拒んでそのまま秋田に滞在してしまった。平安初期の僧・円仁が遺した記録にこの一件が示されている。
なぜ、遠く唐から来た国際商人が、都でもない北端の城柵にとどまることを選んだのだろうか。答えは単純である。そこには都の貴族たちが破格の値をつけ、私的な使者を走らせてまで欲しがる希少な北方産物が、溢れんばかりに集まる交易場が存在していたからにほかならない。秋田城は、中央政権が北方を統治するための出先機関という表の顔を持ちながら、実態としては国家の規制を潜り抜けた莫大な利権が渦巻く、東アジアレベルの国際市場として機能していたのである。
10世紀に入り、古代国家の支配機構が弛緩すると、秋田城を中心とした公的な取引の枠組みは徐々に姿を変えていった。だが、交易のルートそのものが絶えたわけではない。その勢力を継承したのが、東北北部に根を張った在地の豪族たちであった。前九年の役や後三年の役を経て、津軽から秋田沿岸にかけて海運網を握った安倍氏や清原氏、そしてその系譜を引く安東氏(安島氏)である。
安東氏は津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠としながらも、秋田の湊(現在の土崎)をはじめ、能代、男鹿、赤尾津(現在の本荘)といった秋田沿岸の港湾を巧みに繋ぎ合わせた。1565年(永禄8年)、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが京都から送った書簡の中にも、北方の蝦夷地には法律もないが、「アキタ」と呼ばれる出羽の大きな町へ渡って交易を行う者が非常に多い、という記述が見られる。古代から中世、そして近世へと時代が移り変わっても、秋田が北方交易の巨大な受入口であるという構造は変わらなかったのである。
漆器と鉄鍋が北へ渡り、黒い皮が都へ登る
では、アイヌの人々と秋田の地との間では、具体的にどのようなルートを通って、どんな品々がやり取りされていたのだろうか。
流転のルートは明確である。北海道の日本海沿岸(余市や石狩、渡島半島)を出航したアイヌのイタオマチプは、津軽海峡を越えて日本海を南下し、米代川の河口にある能代や、旧雄物川の河口に位置する秋田(土崎・秋田城)へと入港した。河口は波が穏やかで、大型船を係留し、大量の物資を陸揚げするのに最も適した立地であったからだ。
アイヌ側が秋田へ持ち込んだ産物のなかで、最も重要な位置を占めていたのが動物の毛皮である。『延喜式』などの記録によれば、ヒグマ、アシカ、アザラシといった海獣や野生動物の皮が大量に運び込まれていた。しかし、それらの中でも群を抜いて価値が高く、都の貴族たちを狂喜させたのがクロテンの毛皮である。当時、国内では「フルキ」と呼ばれていた。
クロテンは、日本列島の中では北海道にしか生息しないイタチ科の小型小動物である。その毛皮は極めて柔らかく、保温性に優れ、光沢が美しい。平安貴族の社会において、クロテンの毛皮で作られた皮衣(ふるきのかわぎぬ)は、参議以上の最高幹部しか着用を許されない絶対的なステータスシンボルであった。『源氏物語』の中でも、末摘花が古風で貴重な「ふるきのかわぎぬ」を着ている場面が登場するように、それは格別の価値を持つ財宝であった。
長年、こうした高級なクロテン毛皮は渤海や中国大陸からの輸入品と考えられてきた。しかし、藤原道長の日記である『御堂関白記』の寛弘12年(1015年)の条には、極めて興味深い事実が刻まれている。道長は、中国の仏教の聖地である天台山へ贈物を送る際、その目録の中に「奥州のテンの皮衣」を挙げているのである。海外から輸入したものではなく、あえて「奥州のテン」と誇示して中国へ贈っているという事実は、日本国内に独自で確固たる北方からの入手ルートが存在していたことを証明している。サハリンや北海道の深い森でアイヌによって捕獲されたクロテンが、イタオマチプで秋田へ運ばれ、そこから平泉や京の都を経て、最終的には東シナ海を渡って中国大陸へと送られていた。秋田はその膨大なルートの最初の大規模な集積拠点であった。
毛皮と並んで高値で取引されたのが、ワシの尾羽根である。オオワシやオジロワシは、冬季になるとシベリア方面から北海道の道東や道北へと渡ってくる。これらのワシから得られる風切羽や尾羽根は、武士たちが用いる弓矢の「矢羽根」として最高級の素材であった。強い風を切って真っ直ぐに矢を飛ばすためのワシ羽は、軍事的な実用性に加えて、武者の威厳を示す最高級の装飾品でもあった。鶴岡八幡宮に保管されている国宝の矢にも、北海道産のオオワシの羽が使われている可能性が高いと指摘されている。ワシの羽を獲得するために擦文文化の人々が北海道東部へ分布を広げたという説があるほど、この羽の価値は高かった。
これら北方固有の絶品に対して、秋田の地からアイヌ側へと渡っていったのはどのような物であっただろうか。
最大の輸出品は、鉄製品であった。アイヌ社会には高度な木工や皮加工の技術があったが、鉄を鉱石から精錬する製鉄技術を持たなかった。そのため、鉄製の小刀、斧(マサカリ)、鎌、そして生活の根幹をなす「鉄鍋」や「針」は、喉から手が出るほど欲しい物品であった。鉄器がなければ、木彫の道具を作ることも、大量の魚を捌くことも、丈夫な服を仕立てることも困難だからである。
また、米や酒、糀(こうじ)、木綿布や古着、さらには漆器(塗物)などの生活物資も秋田から大量に北へ送られた。特に米は、単に主食として消費されるだけでなく、糀とともに濁酒(トノト)を醸造するための不可欠な原料として重宝された。アイヌの儀礼において神々(カムイ)に捧げる酒を作るためにも、秋田からもたらされる米や糀は絶対に欠かせないものであった。
秋田における交易は、単なる余剰品の交換にとどまらない。北の狩猟採集が生み出す希少な生体素材と、南の農耕と工業が生み出す金属や生活物資が、互いの不可欠な穴を埋め合う完璧な相互依存のシステムであった。そしてその結節点となったのが、秋田の河口港だったのである。
平泉の金色と、南の螺鈿が交差した地点
秋田が担った北方交易の役割をより深く理解するためには、同時代に他の地域で展開されていた交易拠点と比較してみるのがわかりやすい。
10世紀から12世紀にかけて、東北地方の交易の主役となったもう一つの拠点が、平泉の奥州藤原氏であった。藤原氏は津軽の外ヶ浜に直轄の拠点を設け、そこを経由してアイヌの人々と活発な交易を行った。二代基衡が平泉に毛越寺を建立した際、京から招いた仏師への破格の謝礼として贈った品々が記録に残されている。そこには、東北特産の金や馬とともに、「鷲羽百尻(わしばねひゃくしり)」や「水豹皮(アザラシの皮)六十枚」という北海道産の産物が大量に含まれていた。
平泉の象徴である中尊寺金色堂は、東北で産出する金がふんだんに使われていることで有名だが、昭和の大改修の際に新たな事実が確認された。金色堂の巻柱や仏壇を彩る眩い螺鈿(らでん)細工には、奄美諸島や琉球列島より南の温かい海にしか生息しないヤコウガイ(夜光貝)が2万7000個以上も使用されていたのである。平泉という都市は、北のアイヌからもたらされた毛皮やワシ羽と、南の琉球からもたらされたヤコウガイが同時に集積し、交差する巨大な消費の頂点であった。
これに対して、古代の秋田城やその後の秋田湊の立ち位置は、平泉や大宰府とは大きく異なっていた。
九州の大宰府や、喜界島に置かれた城久(ぐすく)遺跡群といった南方の拠点は、中央の国家や大宰府の権力が直接介入し、貴族たちが珍重するヤコウガイや火薬の原料となる硫黄を収集するために設けた「上からの統制型」の管理拠点であった。いわば中央の論理がそのまま末端まで貫徹された場所と言える。
しかし、秋田の交易場は質が違っていた。秋田は、北の生産者であるアイヌ自らがイタオマチプを駆って直接乗り込んでくる「双方持ち込み型」の境目市場であった。中央からの命令で物資を徴発するのではなく、異なる文化と経済圏を持つ二つの勢力が、河口という共有の場で互いの必要とする品を直接突き合わせる生々しい市場であったのだ。
また、中世後半に繁栄を極めた津軽の十三湊と比較しても、秋田の持っていた独自性が浮き彫りになる。十三湊は、室町時代には博多と並び称されるほどの日本海海運の大拠点となり、日本全国の船や京の小袖、中国の陶磁器が交わう大規模な中継港へと発展した。だが、そのぶん十三湊は広域な物流網の中に飲み込まれ、南北の市場の変動に直接左右される政治的・商業的都市としての性格を強めていった。
それに対し、秋田の港は一貫して実用的な「接点」であり続けた。米代川や雄物川という豊かな水系を背後に抱え、内陸から産出する鉄や米、漆器を確実に調達できる基盤を持ちながら、目の前の海からはアイヌの船を直接受け入れる。巨大な都市の華やかさこそ平泉や十三湊に譲るものの、泥臭く確実な実利の交換場として、古代から近世に至るまで息の長い機能を果たし続けたのである。
樹皮の衣と、北の海へ出た漁師たち
時代が下り、江戸時代から明治時代にかけても、秋田とアイヌの人々との繋がりは途切れることなく、かえって形を変えて人々の暮らしの奥深くまで浸透していった。
江戸時代中期から後期にかけて、北方でロシアとの接触が増えると、江戸幕府は蝦夷地の調査と管理を本格化させた。このとき、現場で不可欠となったのがアイヌ語の通訳(通辞)である。秋田の出身、あるいは秋田に深く関わった人物から、優れた通訳が何人も排輩出された。
代表的な存在が、加賀屋徳兵衛の家系である。初代徳兵衛の先祖は加賀の商人であったが、暴風雨で八森海岸(現在の秋田県八峰町)に漂着して秋田に居を構えた。その子孫である三代目の加藤伝蔵は、松前藩や函館奉行所の通詞として活躍し、日本初のアイヌ語辞典とされる『藻汐草』を筆写したうえで、自ら400語以上の単語を書き加えて補訂した。彼らが著した『イロハ蝦夷言』などの解説書は、和人とアイヌの人々の意思疎通を支える重要な架け橋となった。知識や言葉の面でも、秋田は北方世界との接触の最前線であり続けたのである。
さらに明治時代に入ると、秋田と北海道の関わりは民間人レベルで決定的な展開を見せる。
かつて秋田の沿岸部ではニシンが豊富に獲れていた。しかし、明治30年代に入ると海流の変化などにより、秋田沿岸からニシンが完全に姿を消してしまう。代々ニシン漁で生計を立てていた男鹿半島や山本郡、八郎潟周辺の漁民たちは甚大な打撃を受けた。生きていくため、漁民たちは北上するニシンを追い、北海道や樺太、さらにはカムチャツカ半島の沿岸へと大量に出稼ぎに渡るようになった。大正から昭和初期にかけて、秋田県から北方へ渡った出稼ぎ労働者は毎年数万人に及んだ。
秋田県立博物館の収蔵庫には、この時代を象徴する一枚の衣装が保管されている。「アイヌアツシ」と呼ばれるアイヌの伝統的な民族衣装である。
このアツシは、オヒョウやハルニレといった樹皮の繊維を温泉や沼の水に浸して丁寧に取り出し、糸に紡いで織り上げたもので、独特の丈夫さと美しい風合いを持つ。博物館に所蔵されているアツシは、明治から大正期にかけて、旧峰浜村(現八峰町)の漁師が北海道へニシン漁の出稼ぎに行った際に、現地から秋田の自宅へ持ち帰ったものだと伝えられている。
この衣装は、権力者が集めた珍品でもなければ、学術的な研究のために買い集められた標本でもない。過酷な北の海へ出向き、現地でアイヌの人々と寝食をともにし、同じ労働に汗を流した秋田の漁師が、生活の記憶として、あるいは土産として無造作に風呂敷に包んで持ち帰った生々しい暮らしの証拠である。
秋田城跡のある高台を降り、土崎の港から男鹿の沿岸へと車を走らせると、日本海の荒波が寄せては返している。古代の木簡に記された毛皮の買い占め事件から、明治の漁師が持ち帰った一枚の樹皮衣に至るまで、この海岸線には北の海を越えて交錯した人々の呼吸が、何層にも重なって静かに眠っている。
境目の市場が問いかけるもの
長らく、日本史の文脈において東北地方や秋田の地は、「中央から離れた辺境」あるいは「国家の防衛線の外縁」として捉えられがちであった。秋田城もまた、大和朝廷の征服事業の足がかりとして描かれることが多かった。
しかし、アイヌとの交易という軸を通してこの土地を眺め直すと、全く異なる歴史のパノラマが開けてくる。
秋田城や秋田の港は、単なる地方の城郭や寒村の船着き場ではなかった。それは、北海道やサハリン、さらにはアムール川流域へと続く膨大な北東アジアの自然資源と、平泉や京の都、果ては東シナ海を越えた中国大陸の都市文明とを直結させる、きわめて重要な「変換プラグ」であった。
藤原道長が中国の天台山へ贈った一着のクロテンの皮衣を思い起こしてみよう。その毛皮は、北海道の深い山林でアイヌの狩人によって獲られ、イタオマチプの船底に積まれて秋田の河口へと運ばれた。秋田の市場で米や鉄鍋と引き換えに和人の手に渡り、出羽の山道を越えて京の都へと持ち込まれ、最高級の仕立てを施された後に、博多から渡唐船に乗せられて海を渡ったのである。
この壮大な物質循環のネットワークにおいて、秋田は単なる通過点ではない。そこは、まったく異なる文化と生態系を持つ二つの世界が出会い、価値を再定義し、品物を交換する「境目の市場」であった。都の貴族たちが私的な使者を走らせたのも、中国の商人がそのまま居着いてしまったのも、この場所が持つ圧倒的な市場の熱量と、他では手に入らない貴重な物資の集積ゆえであった。
古代の木枠や土留めが風化した城跡に立つと、今では静かな住宅地と港湾施設が広がっている。だが、土地の記憶を丁寧に掘り起こしていけば、そこには国家という限定された枠組みを軽々と踏み越え、海を渡って生き抜いた人々の具体的な選択が、たしかに刻まれている。
権力の中心からはるか遠く離れた北の港で、鉄鍋と毛皮が交わされた。その淡々とした事実の積み重ねこそが、歴史の教科書が語る「辺境」という言葉の貧しさを、静かに、そして決定的に書き換えている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 交易品がつないだ、アイヌと琉球 — 古代東アジアの海のネットワーク – 北海道大学大学院文学研究院・大学院文学院・文学部let.hokudai.ac.jp
- 古代東アジアはグローバル社会だった。北大人文学カフェで古代世界の交易に思いを馳せる | ほとんど0円大学hotozero.com
- 秋田県-あなたのまちと北方領土- | 北方領土問題対策協会hoppou.go.jp
- アイヌモシリ年表・古代userweb.alles.or.jp
- 本州アイヌ - Wikipediaja.wikipedia.org
- 2.03.01アイヌ民族とその生活town.kamifurano.hokkaido.jp
- アキハクコレクション 秋田県立博物館akihaku.jp
- [古文書]収蔵資料の概要・目録ダウンロード | 美の国あきたネットpref.akita.lg.jp