2026/7/2
なぜ長田は「ゴムの街」となり、震災で壊滅的な被害を受けたのか

神戸の長田の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
神戸市長田区の歴史を辿る。明治期からの在日コリアン集住と、マッチ・ゴム・靴産業の発展、そして「職住一体」構造が震災被害を拡大させた背景を明らかにする。
鉄の巨像が見守る路地の奥で
JR新長田駅を降りると、高さ18メートルの「鉄人28号」が迎えてくれる。阪神・淡路大震災からの復興のシンボルとして据えられたその巨像は、力強く拳を突き上げている。しかし、その足元から少し歩みを進め、国道2号線を越えて南側の路地へ入り込むと、空気の質がふっと変わることに気づく。
そこには、巨大なモニュメントの影に隠れるようにして、かつての「下町」の密度が色濃く残っている。路地の角にある小さな加工場から漏れ聞こえるミシンの音、そして鼻を突く、ゴムと接着剤が混ざり合った独特の匂い。この街には、単なる「観光地」や「被災地」という言葉では括りきれない、日本の近代化が抱え込んだ矛盾が地層のように積み重なっている。
なぜこの街に、これほどまでに多くの在日コリアンが集い、そしてなぜ、あの日、これほどまでに多くの命が炎に包まれなければならなかったのか。長田という土地の輪郭をなぞることは、私たちが目を背けがちな、都市の「裏地」を直視することに他ならない。
煙の街からゴムの街へ
長田に在日コリアンの集住が始まったのは、100年以上前、明治後期のことに遡る。きっかけは「マッチ」だった。当時の神戸は世界的なマッチ生産の拠点であり、港に近い長田周辺には数多くの工場が立ち並んでいた。マッチ製造は極めて労働集約的であり、低賃金でも働く労働力を常に必要としていた。そこに、植民地化が進む朝鮮半島から、生活の糧を求めた人々が流入し始めたのである。
決定的な転換点は、1923年の関東大震災だった。東京や横浜のゴム工場が壊滅したことで、全国の注文が神戸、とりわけ長田のゴム工業地帯に殺到した。熟練工の奪い合いが起きるほどの活況の中、日本語が不自由でも従事できる単純作業の場として、朝鮮人労働者の数は爆発的に増加した。1920年代後半には、長田の朝鮮人人口は神戸市全体の半数近くを占めるまでになっていた。
彼らは単なる「労働者」としてだけではなく、戦後の混乱期に産業を再定義する主体ともなった。戦災で多くの工場が焼失し、生ゴムが統制物資となった時代、法的な制限が少なかった在日コリアンの人々は、闇市などで生ゴムや再生ゴムを巧みに入手し、零細な家内工業を次々と立ち上げた。1950年代、生ゴムに代わって登場した塩化ビニールという新素材に目をつけ、「ケミカルシューズ」という名称を与えてファッション産業へと押し上げたのも、彼ら経営者たちの知恵と粘りだった。
最盛期には、長田のケミカルシューズ関連企業は800社を数え、その7割近くが在日コリアンによる経営だったと言われている。一般の労働市場から排除された移民たちが、自らの血路として切り拓いたのが「靴の街・長田」だったのだ。
燃えやすかった「職住一体」の構造
1995年1月17日、長田は地獄と化した。阪神・淡路大震災による神戸市全体の全焼棟数のうち、実に68パーセントが長田区に集中している。焼失面積は約52ヘクタール、区内での死者は921人に達した。なぜ、これほどまでに被害が拡大したのか。その理由は、この街が歩んできた産業発展の形そのものにあった。
長田の街は、大正末期から昭和初期にかけて建てられた老朽化した木造長屋が、極めて高い密度で密集していた。皮肉なことに、戦時中の神戸大空襲において、長田の一部エリアは焼け残ってしまった。それが、戦後の都市計画から取り残された「木造住宅密集地域(木密)」を温存させる結果となった。道幅は狭く、消防車が入り込めない路地が迷路のように張り巡らされていた。
さらに被害を深刻にしたのが、ケミカルシューズ産業特有の「内職」構造である。長田の靴作りは、一階が作業場、二階が住居という「職住一体」の形態が一般的だった。作業場には、可燃性の極めて高いゴム糊や接着剤、合成樹脂の資材が大量に保管されていた。地震によって倒壊した家屋から火が出ると、これらの資材が火に油を注ぐ形となり、爆発的な延焼を引き起こしたのである。
倒壊した建物が狭い路地を塞ぎ、住民の救助を阻み、火は隣の街区へと次々に飛び火した。あの日、長田で起きたのは単なる自然災害ではない。産業の利便性と居住の安全性を切り離せなかった、近代都市の構造的欠陥が噴出した瞬間だったのだ。
大阪・生野との決定的な分岐点
同じく在日コリアンの集住地として知られる大阪市生野区と比較すると、長田の特殊性がより鮮明になる。生野もまた、戦前からゴム産業や靴製造で発展し、済州島出身者を中心とした大規模なコリアタウンを形成してきた。しかし、両者の現在の風景は決定的に異なっている。
生野の靴産業は、主に「ヘップサンダル」などの安価な履物が主流であり、街には今も戦前からの古い木造住宅や市場が迷路のように残っている。一方で長田は、震災という「暴力的なリセット」を経て、大規模な土地区画整理事業が行われた。現在の新長田駅南側には「アスタくにづか」などの巨大な再開発ビルがそびえ立ち、かつての路地裏の風景は地中深くへと埋め立てられた。
しかし、この再開発が街のコミュニティを分断したという側面も否定できない。生野が古い街並みを維持しながら「観光地化」という形で多文化共生をブランド化していったのに対し、長田は壊滅した産業の再建と、バラバラになった住民の生活基盤をゼロから作り直す必要があった。
生野が「継続」の街であるなら、長田は「断絶と接合」の街である。震災後、長田ではベトナム難民やその家族がケミカルシューズ産業の新たな担い手として流入し、かつての在日コリアンが歩んだ道をなぞるようにして定住を始めている。長田の多文化共生は、華やかなイベントとしてのそれではなく、産業という細い糸で繋がれた、生き延びるための切実な協力関係の上に成り立っている。
再開発ビルの足元に残る記憶
現在の長田を歩くと、整然とした再開発ビルの合間に、震災を語り継ぐための小さな拠点が点在していることに気づく。「神戸在日コリアンくらしとことばのミュージアム」や、震災の火災を耐え抜いた「大国公園」のクスノキなどは、その代表だ。
再開発によって生まれた巨大なビル群は、一見するとどこにでもある地方都市の風景に見えるかもしれない。しかし、その地下や低層階に入居しているのは、かつて路地裏で靴を作っていた零細な加工場や、多言語での放送を続けるコミュニティラジオ局「FMわぃわぃ」である。彼らは、コンクリートの壁に囲われながらも、かつての「下町」の機能を必死に維持しようとしている。
しかし、課題は山積している。ケミカルシューズ産業は海外製品との競争や後継者不足により、かつての勢いを失っている。再開発ビルの空き店舗問題も深刻だ。かつて「内職」という形で街を支えていた高齢者たちは、高層住宅の個室に閉じこもり、路地で交わされていた挨拶や情報のやり取りは、物理的な壁によって遮断されつつある。
長田の現在地は、震災復興という名の下で行われた「都市の近代化」が、必ずしもコミュニティの再生と一致しなかったことを静かに物語っている。それでも、ベトナム料理店と韓国料理店、そして古くからの神戸の立ち飲み屋が隣り合う風景の中には、この街が100年かけて培ってきた「よそ者」を受け入れる強靭な土壌が、今も確かに息づいている。
矛盾を抱えたまま、この街は続く
長田の歴史を紐解いて見えてくるのは、この街が常に「日本の外側」と接続され、そのしわ寄せを一身に受けてきたという事実である。植民地支配が生んだ労働力の流入、関東大震災を契機とした産業の偏在、そして「職住一体」という効率性の追求が生んだ大震災の惨劇。
私たちが長田という街に感じる独特の重みは、ここが単に「多文化で賑やかな街」だからではない。むしろ、近代日本が切り捨ててきた、あるいは見ないふりをしてきた「労働」「差別」「災害」という生々しい事実が、今も街の隅々に染み付いているからだ。
「なぜ在日コリアンが多くなったのか」という問いの答えは、彼らがこの地でしか生きられなかったという歴史的な排除の裏返しであり、「なぜ震災の被害が大きかったのか」という問いの答えは、彼らがこの地で生きるために積み上げた生活の形そのものが、災害に対して脆弱であったという悲劇的な皮肉にある。
長田は、震災から30年近くを経て、再び静かな変化の中にいる。鉄人28号が見下ろす広場では、今日も多国籍な子供たちが走り回っている。かつての「ゴムの街」は、その形を変えながらも、矛盾を抱えたまま、次の100年へと足を踏み出そうとしている。その歩みは、決して軽やかではない。しかし、路地裏から漂う接着剤の匂いが消えない限り、この街の記憶が完全に埋め立てられることはないだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。