2026/5/30
鹿島神宮の七不思議、要石や御手洗池にまつわる言い伝え

鹿島神宮の七不思議について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
鹿島神宮に伝わる七不思議は、創建の歴史や武甕槌大神信仰と深く結びついている。地震を鎮める要石や尽きない湧水の御手洗池など、自然現象と信仰が織りなす伝承を紹介する。
鹿島神宮の創建は、初代神武天皇が即位した紀元前660年と伝えられている。この社は、日本建国・武道の神である武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)を主祭神として祀る。神話によれば、神武天皇が東征の途上で窮地に陥った際、武甕槌大神が授けた神剣「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の神威によって救われたという。この神恩に感謝した神武天皇が、即位の年に武甕槌大神をこの地に勅祭したのが鹿島神宮の始まりだとされる。
以来、鹿島神宮は東国開拓の拠点として、また国家鎮護の守護神として篤く信仰されてきた。奈良時代には、藤原氏が平城京鎮護のため、鹿島神宮の武甕槌命を奈良の春日大社に勧請したという経緯もある。 中世以降、武家の世となると、源頼朝や徳川家康といった武将たちからも厚い崇敬を集め、「武神」としての性格を一層強めていった。現在の社殿は、徳川二代将軍秀忠の寄進によるもので、奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房によって奉納されたものであり、いずれも国の重要文化財に指定されている。
鹿島神宮に伝わる「七不思議」は、この地の自然や歴史、そして人々の信仰が織りなす物語を凝縮している。一般的に挙げられるのは、「要石」「御手洗池」「末無川」「御藤の花」「海の音」「根上りの松」「松の箸」の七つだ。
まず「要石(かなめいし)」は、鹿島神宮の最も有名な不思議の一つだろう。これは、地中で暴れる大鯰の頭を押さえつけ、地震を鎮めているとされる石である。 地上に見えているのは直径約40cmほどの小さな円形の石だが、地下深くへと続いていると言い伝えられてきた。江戸時代には、水戸藩主の徳川光圀がこの石の深さを確かめようと掘らせたものの、七日七晩掘り続けても底に到達せず、掘り続ける中で事故が頻発したため、作業を断念したという逸話が残る。
次に「御手洗池(みたらしいけ)」は、澄み切った湧水が特徴の池だ。 かつては参拝者がここで身を清めてから本殿に向かうのが習わしだったという。 この池の不思議は、どんなに日照りが続いても水量が減らず、また、大人も子どもも池に入ると水面が胸の高さに留まるというものだ。 実際には一日40万リットル以上もの清らかな水が湧き出ており、透明度が高い。 毎年1月には、この湧水で身を清める「大寒禊」が行われている。
「末無川(すえなしがわ)」は、高天原の松林から湧き出し、途中で地中に消えてしまう川のことである。 その名の通り、流れの末が見えないという。 「御藤の花(みふじのはな)」は、藤原鎌足が植えたとされる藤の木で、花の付き具合でその年の豊作・凶作を占ったと伝えられているが、現在は枯れて現存しない。
「海の音」は、境内で聞こえる波の音の方向によって天気を予測できたという伝承である。北から聞こえれば快晴、南から聞こえれば雨になると言われていた。 「根上りの松(ねあがりのまつ)」は、境内の松の木は伐採しても切り株から再び芽が生え、決して枯れることがないという。 そして「松の箸(まつのはし)」は、鹿島山の松で作った箸にはヤニが出ず、正月七日に使われていたという言い伝えだ。 これら「御藤の花」「根上りの松」「松の箸」は、現在ではその伝承を直接確認できる形では残っていないものも含まれている。
鹿島神宮の七不思議の中でも、「要石」と「御手洗池」は、その性質において対照的でありながら、この地の信仰の根幹をなしている。要石は、地震という抗いがたい自然の猛威を「鎮める」という、ある種の防御的な信仰の象徴だ。古来より日本が地震の多い国であるという背景を考えれば、人々が要石に抱いたであろう切実な願いは想像に難くない。 実際、1970年代後半の調査では、鹿島の地下に巨大な蛇紋岩体が存在することが判明しており、要石の伝説が単なる迷信ではない可能性も示唆されている。 鹿島神宮の要石は、千葉県の香取神宮にある要石と対をなし、それぞれ大鯰の頭と尾を押さえていると伝えられ、地下で繋がっているとも言われている。
一方、御手洗池は、尽きることなく「湧き出す」清らかな水を供給し続ける、生命の源泉としての信仰の対象である。 禊の場として、また日々の生活用水としても利用されてきたであろうこの池は、人々に恵みをもたらす自然の力を象徴している。水量が常に一定であるという不思議は、地下水脈の安定した供給を示唆するものであり、科学的な知見が及ばぬ時代には、まさに神威としか捉えようがなかっただろう。 この二つの不思議は、人々が自然の力に対して抱いた畏敬と、それを鎮め、あるいは享受しようとする営みの表れともいえる。
鹿島神宮の「要石」に見られる地震鎮護の信仰は、日本各地に存在する類似の伝承と比較することで、その独自性と普遍性をより深く理解できる。例えば、三重県伊賀市の大村神社や宮城県加美町の鹿島神社にも「要石」が祀られている。 これらの要石もまた、地震を引き起こす大鯰を鎮めるという点で共通の信仰を持つ。 特に、香取神宮の要石と鹿島神宮の要石が、大鯰の頭と尾を押さえる対の関係にあるという伝承は、両社が東国における重要な鎮護の拠点として機能してきたことを示している。
しかし、鹿島神宮の要石が特筆されるのは、その背後に武甕槌大神という武神の存在がある点だろう。 武甕槌大神は国譲り神話において力強い交渉役を担い、また神武天皇の東征を助けた武勇の神である。 単に地震を鎮めるだけでなく、国土の安定、ひいては国家の安寧を守るという、より広範な意味合いが付与されているのだ。これは、鹿島神宮が古代から朝廷や武家から厚い崇敬を受けてきた歴史とも重なる。 多くの神社が自然現象を神格化する中で、鹿島神宮の要石は、武神の力によって秩序が保たれるという、より能動的な信仰の形を示していると言えるだろう。
現代の鹿島神宮は、その広大な境内を訪れる人々に、古来からの伝承と自然の息吹を感じさせる場所であり続けている。奥参道の先に広がる「鹿園」には、現在も約20頭の鹿が飼育されており、「神の使い」である神鹿として大切にされている。 奈良の春日大社の鹿の祖先が鹿島から渡ったという伝承は、両神社の深い結びつきを示すものだ。 鹿島アントラーズのチーム名の由来にもなっているこの鹿たちは、訪れる人々に親しまれ、古くからの信仰が現代の文化に息づいていることを感じさせる。
御手洗池は、その透明度の高さと周辺の整備された景観から、多くの観光客が訪れる写真スポットとなっている。 池のほとりには茶屋もあり、湧水を使った蕎麦やだんごを味わうこともできる。 かつては禊の場であった場所が、今では人々の憩いの場として機能している。ただし、池の湧水は山水であるため、持ち帰って飲む場合は煮沸が必要であると注意書きされている。 「七不思議」のうち、すでに現存しないとされる「御藤の花」や「根上りの松」「松の箸」の伝承も、境内の案内板や資料を通じて知ることができ、かつての鹿島神宮の姿を想像させる手がかりとなる。
鹿島神宮の七不思議を紐解くと、それは単なる神秘的な現象の羅列ではないことに気づく。そこには、古代の人々がこの地の自然とどのように向き合い、理解し、信仰を育んできたかの記憶が刻まれている。要石が地震を鎮めるという伝承は、地震多発地帯である日本列島に生きる人々の切実な願いと、地下に広がる地質学的特徴との偶然の符合かもしれない。また、御手洗池の尽きない湧水は、豊かな地下水脈の存在を、そして末無川は、浸透性の高い土壌の特性を示唆している可能性もある。
これらの不思議は、現代の科学的知見によって一部が解明されたとしても、その本質的な価値が損なわれるわけではない。むしろ、科学が未発達だった時代に、人々が自然現象をどのように解釈し、神話や伝承として語り継いできたかという、人間の知的な営みの層を一層深く見せてくれる。鹿島神宮の七不思議は、この土地が持つ固有の自然条件と、そこに生きた人々の観念が交錯し、長い時間をかけて形作られた「土地の記憶」そのものなのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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