秋田の大曲の花火が日本の花火師たちの最高峰の聖地になったのはどのようにしてか

8月最後の夜、河川敷の暗闇で
秋田県大仙市の大曲地区。8月最終土曜日の夕刻、雄物川の河川敷には全国から数万人規模の観客が押し寄せる。秋田新幹線が到着するたびに大曲駅のホームは人で埋まり、駅から河川敷へと続く道は、引きも切らない人の波で満たされる。
一般的な花火大会であれば、すっかり日が暮れて夜空が真っ暗になった頃合いを見計らい、最初の打ち上げが始まるのが常である。だが、大曲の夏はまだ明るい17時10分に開幕の砲声が響く。夕陽が薄桃色に残る空に向かって打ち上げられるのは、「昼花火」と呼ばれる一群の花火だ。夜空を染める発光のかわりに、赤や黄、黒の鮮やかな色煙を曳いて空に流れる「煙龍」や、煙の輪が空中に描く幾何学模様が、静まり返った河川敷の上に広がる。観客は歓声をあげるというよりも、息をのんで空のキャンバスを見つめる。
日本全国で夏になると無数の花火大会が催される。打ち上げ発数の多さを競う大会もあれば、名物の巨大な玉で知られる大会もある。しかし、全国の職人たちに「どこで揚げるのが最も名誉か」と問えば、誰もが真っ先にこの秋田の小都市の名を挙げる。人口7万人ほどの地方都市・大曲が、なぜ日本の花火師たちが一生の情熱と技術を傾ける「最高峰の聖地」になりえたのだろうか。
単に歴史が古いからという理由だけでは説明がつかない。あるいは、広大な河川敷という立地条件だけでも足りない。そこには、観賞用の娯楽や祭りの余興として消費されがちだった花火を、職人の「作品」として評価し直すためのきわめて特殊な仕組みと歴史が横たわっているのではないか。
諏訪神社の余興から三河の技との衝突へ
大曲における花火の歩みをたどると、その根底には江戸時代からの地域構造と、二つの決定的な「技術的・制度的転換点」が存在したことがわかる。
江戸時代、大曲は仙北平野で収穫される米の集積地であり、雄物川と丸子川が合流する川港を中心に賑わっていた。物流の拠点には商人たちが集い、遊興の場や繁華街が自然と形成されたという。この地で早くから花火が親しまれていた証拠は、文献の中にも散見される。1800年代初期、江戸後期の旅の記録者である菅江真澄が記した地誌『月の出羽路』には、「大曲ノ郷眠流」と題された挿絵があり、丸子橋の向こうの川原で花火が打ち上げられている様子が描かれている。また、地元の諏訪神社に伝わる『大曲村年中行事絵巻物』(1868年頃の作とされる)にも、神社のお祭りの風景の中に花火の筒が描き込まれている。
しかし、現在につながる大会の直接の起源とされるのは、1910年(明治43年)8月26日から27日にかけて開催された「第一回奥羽六県煙火共進会」である。諏訪神社の祭礼の余興として企画されたこの催しは、東北6県から花火師を招いて腕を競わせるという、当時としてはきわめて斬新な競技会であった。
この第1回大会には、花火の先進地として知られていた三河国(現在の愛知県)の花火技師たちの参加や技術の持ち込みがあったとされる。三河で磨かれた高い火薬調合や発色技術を目の当たりにした東北の花火師たちは大きな衝撃を受け、競ってその技術を吸収しようとした。これが、大曲の花火が単なる地域の祭りを超えて、技術研鑽の場へと変化する最初のきっかけとなった。
1915年(大正4年)の第4回大会からは「全国煙火競技大会」へと名称が改められ、名実ともに全国規模の競技会へと舵を切った。太平洋戦争の激化に伴い一時的な中断を余儀なくされたものの、終戦の翌年である1946年(昭和21年)には早くも再開を果たしている。戦後の混乱期において、いち早く花火大会を復活させた背景には、この土地の人々が持つ花火への並々ならぬ執着があった。
そして第2の決定的な転換点が訪れたのは、1964年(昭和39年)のことである。この年、通商産業大臣賞(現在の経済産業大臣賞)の授与が認められたのと同時に、大会に「創造花火」という全く新しい競技部門が導入された。
それまでの花火競技といえば、職人がどれだけきれいな球体に光を散らせるかという「割物(わりもの)」の精度を競うのが主流であった。しかし創造花火では、従来の丸い形という既成概念を打ち破り、花火師自らがテーマを設定し、音楽や色彩、複雑な打ち上げタイミングを組み合わせた独自の構成を披露することが求められた。
この創造花火の導入を推し進め、「創造花火の父」と呼ばれるようになった佐藤勲は、集まった花火師たちに向けてこう語り続けたという。「私たちは花火の玉を買っているのではない。花火職人の才能を買っているのです」。
この思想のもとで、大曲の花火は単なる伝統工芸の発表会から、花火師の思想とデザインを全開にする「総合芸術の実験場」へと飛翔した。2000年(平成12年)には、最優秀賞として花火界最高峰の「内閣総理大臣賞」が授与されるようになり、全国の花火師にとって「大曲で勝つこと」が名実ともに日本一の称号と同義となったのである。
自らつくり自ら揚げる職人の土俵
大曲の花火が他の多くの大会と一線を画している理由は、徹底されたルールと、それを支える独特の評価システムにある。
最大の決定的な特徴は、「実際に花火玉を製作した花火師自身が、自らの手で現地で打ち上げを行う」という点である。一般の花火大会では、イベント主催者や専門業者が全国の製造業者から玉を購入し、代理で打ち上げを委託することが少なくない。しかし大曲では、企画・製造・打上に至るまでの一貫した主体性が花火師本人にある。職人は自らの名義でエントリーし、自ら工場で火薬を込め、当日は河川敷の筒場に立って火をつける。言い換えれば、演出家であり製作者である本人が、自らの責任で一球一球を夜空に放つのだ。
競技の構成自体も、花火師の総合的な技術力を多角的に測るように組まれている。夏の全国花火競技大会は、「昼花火の部」と「夜花火の部」の二部構成で進行する。
まず夕刻に行われる「昼花火の部」は、日本で唯一継続して開催されている珍しい競技である。光が見えない明るい空で、5号玉5発を使い、色煙の美しさやたなびく造形、着色された煙の層が作るラインのシャープさを競う。火薬の発光に頼れない分、煙の濃度や滞留時間を計算し尽くした高度な化学的調合と技術が試される。
陽が落ちてからの「夜花火の部」では、1業者につき3つの作品が立て続けに打ち上げられる。 1つ目が「10号・芯入割物」。10号玉(尺玉)は上空約330メートルまで打ち上がり、直径約300メートルもの大輪を咲かせる。芯入割物は、花火が開いたときに中心に同心円状のきれいな「芯」が幾重にも表れ、真円を描いて規則正しく光が消えていくことが求められる伝統技法の極致である。 2つ目が「10号・自由玉」。割物の技術を踏まえつつ、花火師が独自の意匠や新しい発色を試みる部門である。 そして3つ目が、2分30秒の制限時間内に自身のテーマ(玉名)を音楽とシンクロさせて表現する「創造花火」である。
この3作品をひとつのストーリーとして見せることで、伝統的な基本技術の正確さと、時代を切り拓く創造性の両面が厳密に審査される。
さらに、大曲の舞台装置としての環境も忘れてはならない。競技会場となる雄物川の河川敷は、対岸に低い出羽丘陵を背負っている。打ち上げられた花火の光は朗々と流れる雄物川の水面に反射して二重の視覚効果をもたらし、空中で炸裂する爆音は背後の山々に反響して腹に響く重低音となって観客席を揺らす。音響・色彩・視覚のすべてにおいて、作品の魅力を限界まで引き出す自然の音響ホールとして機能しているのだ。
審査を行うのは、専門家や文化人で構成される審査員たちである。単に「綺麗だったか」という感覚的な印象ではなく、星(光る火薬の粒)の飛び方、色の変化の鮮やかさ、音楽との同期の度合い、そしてテーマ性が表現されているかが客観的な尺度で評価される。この厳しい評価制度が存在するからこそ、全国の職人たちはコストや手間を度外視してでも、最新の試みを大曲に持ち込んでくるのである。
慰霊の長岡、都市の隅田川、そして研鑽の大曲
日本各地で開催されている代表的な花火大会と比較してみると、大曲が持つ独自の位置づけがより鮮明に浮かび上がる。
たとえば、新潟県長岡市で毎年8月に開催される「長岡まつり大花火大会」を並べてみよう。信濃川の河川敷を舞台に広大なスケールで催される長岡の花火は、日本屈指の規模を誇る。しかし、その根底にあるのは1945年(昭和20年)8月1日の長岡空襲による戦災殉難者への慰霊と、復興への祈りである。名物の「正三尺玉」や、復興祈願花火「フェニックス」に代表されるように、長岡の花火は「観客の心をひとつにし、祈りと慰霊を捧げるための儀式」としての性格が極めて強い。そこには職人同士が順位や賞を争う「競技」の要素は含まれていない。
一方、東京都の「隅田川花火大会」は、江戸時代の享保18年(1733年)に始まった「両国の川開き」に起源を持つ都市型花火の代表例である。超高層ビルや高速道路が交錯する大都市のただ中で、夏の到来を告げる納涼行事として、あるいは巨大な集客イベントとして機能している。ここでは数十万から百万人の観客が「夏の風物詩を楽しむ」ことが主目的であり、観賞用のエンターテインメントとしての側面が前面的に打ち出されている。
これらに対して、大曲の花火は当初から「職人の技術を格付けし、交流させるための競技会」として組み立てられた。観客を楽しませることはもちろん重要であるが、それ以上に「花火師同士が互いの仕事を厳密に批評し合う学会やコンペティション」のような機能が本質にある。
同じく競技大会として歴史が深く、内閣総理大臣賞が授与される大会としては、茨城県土浦市で催される「土浦全国花火競技大会」がある。土浦もまた職人たちの登竜門として名高いが、秋(10月または11月)の開催であり、農業の収穫感謝や秋の行事としての色彩も帯びている。これに対して大曲は、夏の終わりの8月最終土曜日に配置されており、全国の花火師たちが1年間かけて仕込んできたその年の最高傑作をぶつけ合う「夏の最終決戦場」としての意味合いを帯びている。
また、昼花火競技を現在も継続して実施している点や、1960年代という早い段階で「創造花火」というジャンルを確立し、全国の花火の表現手法そのものを塗り替えてしまった歴史的影響力においても、大曲の存在感は際立っている。
長岡が「祈り」であり、隅田川が「都市の歓楽」であるとするならば、大曲は「技術と芸術の研鑽場」である。この明確な役割の違いが、大曲を他のどこにもない独特の空気感で満たしているのだ。
900メートルの光と静寂のなかの合図
100年以上の歴史を重ねてきた大曲の花火は、現在、単なる夏の1日のイベントに留まらない広がりを見せている。
2018年からは、夏の競技大会を中核としながらも、四季折々の魅力を提示する「四季の花火」という体制が整えられた。春には次代を担う若手花火師たちの挑戦の場である「新作花火」や国際交流を目的とした打ち上げが行われ、秋にはテーマ性を前面に出した前衛的・実験的な劇場型花火が披露される。季節ごとに異なる澄んだ空気のなかで、花火の新たな表現が試みられている。
競技大会の合間に打ち上げられる名物「大会提供花火」も、大曲の技術的到達点を示すものとして知られる。地元の大曲花火協同組合に所属する若手からベテランまでの花火師たちが結集し、制作する超大型のワイドスターマインである。打ち上げ幅は実に約900メートルに及び、音楽に合わせて秒単位どころかフレーム単位で緻密にプログラミングされた光が、夜空一面を覆い尽くす。大曲が自ら生み出した創造花火の演出技術が、集団の力によって最大限に表現される瞬間である。
また、すべてのプログラムが終了した直後、会場には印象的な光景が現れる。明かりの消えた暗闇のなか、雄物川の対岸にある打ち上げ場に佇む花火師たちに向けて、観覧席の数十万人の観客が一斉にペンライトやスマートフォンのライトを振る「光のエール」と呼ばれる交歓である。対岸の花火師たちもまた、赤や緑のトーチの光を振り返して答える。
一方的に提供されるショーを鑑賞して終わりではなく、過酷な緊張感のなかで作品を打ち上げ終えた職人たちへの敬意を、観客が自らの光で伝える。この伝統は近年自然発生的に始まり、今や大曲の夜を締めくくる新しい風物詩として定着した。
街の側でも、花火文化を一時的な祭りに終わらせないための取り組みが進んでいる。2018年にはJR大曲駅のほど近くに「花火伝統文化継承資料館 はなび・アム」が開館した。館内では花火の歴史や火薬の調合構造、製造工程が詳細に展示されているほか、高精細スクリーンでの鑑賞体験や花火のデザイン体験などができるようになっており、年間を通じて花火文化に触れられる環境が作られている。
海外への発信も着実に実績を重ねており、1979年の西ドイツでの打ち上げを皮切りに、ヨーロッパやアジア各地で展示打ち上げを行ってきた。2024年には、世界的な権威とされるモントリオール国際花火競技大会に出品し、銅賞および特別賞を受賞した。秋田の小さな町で育まれた技術と評価軸が、世界の舞台でも通用する芸術性として認められた出来事であった。
火薬を芸術に変えた評価の構造
一瞬で炸裂し、数秒後には暗闇の中に消えてなくなる花火という存在に、なぜこれほどの情熱と制度が注ぎ込まれてきたのだろうか。
打ち上がってしまえば煙となって消える一過性の美学に対して、大曲の人々は「職人の名前」と「作品の評価」をしっかりと紐付ける仕組みを作り上げた。もしもこの大会が、単に「きれいな花火を並べて観客を喜ばせる」だけの納涼大会であったなら、技術の進化はある段階で頭打ちになっていたはずだ。
「自ら作り、自ら揚げる」という原則を譲らなかったこと。光のない昼の空に煙で描く「昼花火」の繊細さを捨てなかったこと。そして、丸い形という伝統の呪縛から職人を解き放ち、音楽やテーマ性を込める「創造花火」という自由を与えたこと。これらすべての選択は、観客の歓声に応えるためであると同時に、何より作り手である花火師たちの主体性とプライドを刺激し続けるための制度設計であった。
職人は評価される舞台があるからこそ、徹夜で火薬を練り、新しい発色技術を研究し、コンマ数秒の打ち上げタイミングに命をかける。そして観客の側もまた、そうした職人の緊張感と意図を読み取ろうと、静けさの中で夜空を見上げる鑑賞者へと育っていった。
人口7万人の地方都市に100年以上かけて築かれたものは、巨大な打ち上げ筒や広い河川敷という設備だけではない。職人を正当に評価し、その挑戦を心待ちにする厳格な評価のシステムそのものが、この地に残された最も大きな遺産なのだと言える。
暗闇の中に広がる光の輪を見上げるとき、私たちが目にしているのは一瞬の火薬の燃焼だけではない。それを「作品」として成り立たせようとした一人の職人の名誉と、それを支え続けてきた土地の冷徹なまでの眼差しなのである。
旅と食が好き。どこにでもいます。