昭和の石油探鉱と大正の大震災がどのようにして秋田・強首温泉を生み出したのか?

蛇行する雄物川と黄色い湯の謎
秋田県大仙市、旧西仙北町の強首地区に立つと、視界の大部分を占めるのはどこまでも平坦な水田風景である。その脇を、出羽の山々から流れ出た雄物川が大きく蛇行しながら通り過ぎていく。この長閑な田園の只中に、周囲の風景からあきらかに浮き上がった圧巻の木造屋敷が現れる。千鳥破風や唐破風を複雑に組み合わせた重厚な屋根、磨き込まれた唐破風門、そして大正時代の面影を残す洋風の意匠が組み込まれた門構えである。
予備知識なしにこの地を訪れた者は、誰しもがここを数百年の歴史を持つ伝統的な湯治場だと思うだろう。山間の秘湯や歴史ある温泉街と同じような、いにしえの開湯伝説が残る土地であるかのような錯覚を覚えるのだ。
だが、この強首温泉が温泉地として産声を上げたのは、それほど昔のことではない。江戸時代でも明治時代でもなく、昭和39年(1964年)夏のことである。しかも、この地の地下から湧き出したのは、火山性の温泉ではなく、海水のように塩分が濃く、世界的にも珍しいヨウ素を大量に含んだ茶褐色の源泉であった。
なぜ、火山から遠く離れた平野部の田園地帯に、これほど濃厚な太古の海が湧き出したのか。そしてなぜ、その新興の湯が江戸時代からの歴史を持つ豪農の邸宅と結びつき、独自の温泉郷をつくりあげることになったのだろうか。
資源探鉱の掘削と庄屋の系譜
強首温泉の起源は、昭和30年代後半に行われた地下資源の探査にさかのぼる。当時、雄物川流域の台地にはかつて歩兵第17連隊の強首陸軍演習場が広がっており、戦後はその周辺で石油や天然ガスの埋蔵調査が進められていた。1964年(昭和39年)7月、当時日本一の石油産出量を誇っていた帝国石油が、この地で天然ガスのボーリング調査を実施した。
しかし、地下深くへ打ち込まれたドリルが掘り当てたのは、期待された大量のガスではなく、激しく吹き出す塩辛い温水であった。目的の資源発掘としては失敗であったが、湧き出た温水はきわめて質の高い温泉であることが判明する。同年12月、帝国石油から当時の西仙北町へ温泉の権利が譲渡され、公募によって「強首温泉」と命名された。1966年(昭和41年)5月には町営の保養施設である「平原荘」が建設され、田んぼの真ん中で新たな温泉利用が始まったのである。
この思いがけない地下からの恵みに、土地の歴史を背負った一族が即座に応じる。それが、強首地区で長年大地主として君臨してきた小山田家であった。
小山田家の歴史は古く、慶長7年(1602年)にさかのぼる。常陸国(現在の茨城県)から秋田へ移封となった出羽秋田藩主・佐竹義宣に従い、小山田家は秋田の地へと移住してきた。17世紀後半からは強首村の庄屋を務め、代々の当主は地域行政の中心的な役割を果たした。藩主が領内を巡視する際には御本陣として邸宅を提供するなど、秋田藩内でも屈指の格式を誇る豪農であった。
町営保養所ができたのと同じ1966年の12月、12代目当主であった小山田氏は、自らのお屋敷にこの新しく湧いた温泉を引き込む決断をする。地域の人々の健康増進と交流の場として屋敷を開放し、「ヘルスセンター」を開設したのだ。これが、後に「樅峰苑(しょうほうえん)」と呼ばれる温泉宿の始まりである。
小山田家が所有していたその邸宅自体にも、忘れがたい歴史の転換点が刻まれていた。屋敷が完成したのは大正6年(1917年)のことだが、そのわずか3年前の1914年(大正3年)、この地区を凄まじい大地震が襲っていた。「強首地震」と呼ばれる M 6.4 の直下型地震であり、強首村を中心に多数の家屋が倒壊する甚大な被害が出た。
惨状を目の当たりにした12代目当主は、家屋の再建にあたって「二度と地震で倒れない頑丈な屋敷をつくる」と誓う。そして地元の棟梁をわざわざ京都へ派遣し、当時の最新の社寺建築と耐震構造の技術を学ばせた。こうして3年の歳月をかけて建てられたのが、現在も残る木造の大建築であった。
昭和40年代に入ると、高度経済成長の波に乗って強首温泉は急速に拡大した。県営の老人福祉センター強首荘をはじめ、喜龍閣、亀楽館、三楽荘、強首ホテルといった民間旅館や保養施設が次々と建設され、1970年代初頭には10件もの温泉施設が立ち並ぶ温泉郷へと発展した。近くにある乙越沼(おつこしぬま)でのボート遊びや釣り、さらには敷地内に作られたボーリング場など、休日に人々が集うレジャー拠点として、かつての静かな農村風景は大きく塗り替えられていったのだ。
地下に眠る太古の海と大正の職人技
強首温泉を特異な存在にしている最大の要素は、その源泉が持つ圧倒的な成分の濃さにある。泉質名は「含よう素ーナトリウムー塩化物強塩温泉」。分析書によると、水酸化イオンやナトリウムイオンをはじめとする溶存物質量は、1キログラム中に22.24グラムに及ぶ。これは温泉として認められる基準値の20倍以上に相当する極めて濃厚な数値である。
この温泉の正体は「化石海水」と呼ばれるものである。数百年前から数百万年前、この地がまだ海だった時代に海底の砂利や泥の層に閉じ込められた古の海水が、地熱によって加熱され、地下深くに加圧された状態で眠っていた。それが昭和のボーリングによって一気に地上へと噴出したのである。
風呂のフタを開けると、独特の薬品のような、あるいは磯のような濃密な香りが立ち上る。湯口から流れるお湯は黄土色から茶褐色に濁っており、舐めると海水そのままのような強い塩辛さと苦味が広がる。特筆すべきは、殺菌剤や工業用材料として重宝される「ヨウ素」が極めて高い濃度で含まれている点だ。ヨウ素を含む温泉は世界的に見てもきわめて珍しく、湯上がりの温もりと皮膚への浸透感は他の温泉地にない力強さを持っている。
樅峰苑では、もともと地域の共有源泉から引き湯を行っていたが、2008年(平成20年)に敷地内での自前ボーリングに成功した。地下深くまで掘り進めて得た自家源泉は、湧出温度49.8度、毎分200リットルという豊富な湯量を誇る。加水も加熱も行わず、そのまま湯船へと注ぎ込む「源泉100%完全放流式」の浴槽が維持されているのは、この地質的恵みゆえである。
そして、この古代の海水を受け止める建築構造もまた、他には見られない技巧に満ちている。大正6年に完成した小山田家住宅(樅峰苑)は、国の登録有形文化財に指定されているが、単に古いだけでなく、大正浪漫の美意識と耐震工法が見事に融合している。
玄関を抜けると、まず目に飛び込んでくるのは一階の廊下だ。長さ16.3メートルに及ぶこの廊下には、端から端まで一切の継ぎ目がない天然秋田杉の一枚板が使われている。節一つない木目が遥か奥まで滑らかに伸びており、磨き上げられた表面は黒光りしている。当時の庄屋が持っていた資力の凄まじさと、秋田杉という地場素材の質の高さが直観的に理解できるディテールである。
二階へ続く階段室に目を向けると、意匠の複雑さに驚かされる。手すりの曲線や欄干の透かし彫りには洋風のデザインが取り入れられている一方で、天井や柱の納まりには桃山風の重厚な和風意匠が混ざり合っている。明治から大正にかけての文明開化の空気が、東北の農村の木造建築の中で独自に咀嚼された証拠と言えるだろう。
さらに、二階にある40畳の大広間には巧妙なカラクリが施されている。普段は引き戸と取り外し可能な柱によって4つの独立した客間として仕切られているが、宴会や集会などの際には柱ごと抜き取ることができ、一瞬にして広大な大広間へと変貌する。京都で耐震構造を学んできた棟梁の手によるものだけに、柱を抜いても建物全体の強度を保てるよう、天井裏の太い梁と桁が複雑に組み合わされている。
地震の教訓から生まれた構造的強靭さと、佐竹公の本陣を務めた格調高い和風意匠、そしてハイカラな大正モダン。そこに昭和の探鉱がもたらした億年単位の化石海水が合流したことで、強首温泉という奇跡的な組み合わせが完成したのだ。
石油探鉱が生んだ温泉と豪農の開帳
自然の偶然と近代の技術開発が交差し、予期せぬ温泉街が生まれた事例は、日本各地に存在する。
たとえば新潟県の南魚沼や十日町に位置する松之山温泉や、庄内平野の各所に点在する温泉群もまた、太古の海水が閉じ込められた化石海水型の温泉として知られている。また、新潟県の新津油田周辺や北海道の十勝平野におけるモール温泉のように、石油や天然ガスの試掘目的で地下深くを掘削した結果、目的の化石燃料ではなく高温の塩水や有機物を含んだ温水が噴出し、それが地域の名湯へと転じたケースは少なくない。
近代日本のエネルギー需要を満たすために全国で進められた地質調査は、日本列島の地下に眠っていた非火山性の巨大な水脈を次々と掘り当てた。強首温泉もまた、そうした近代産業の副産物という大きな枠組みの中に位置づけられる。
一方で、歴史ある豪農の館が現代においてどのように維持・公開されているかを比較すると、強首の歩んだ道の異質さが浮き彫りになる。
新潟県新潟市にある「北方文化博物館」(旧伊藤家住宅)や、青森県金木町にある太宰治の生家「斜陽館」(旧津島家住宅)など、東日本には明治から大正期にかけて建設された巨大な豪農・地主の邸宅が今も残されている。しかし、これらの多くは「博物館」や「記念館」として保存され、来訪者は入場料を払って展示品や建築美を鑑賞する形態が主流である。建築物は保護されるべき文化財として固定され、当時の生活空間は凍結されていると言ってよい。
それに対し、強首温泉の小山田家住宅(樅峰苑)が選んだ道は異なっていた。館内を博物館として凍結するのではなく、昭和39年に噴出した新温泉を引き込むことで「現役の温泉旅館」へと脱皮させたのだ。
戦後の農地改革によって、全国の豪農や大地主は広大な所有地を失い、巨大な木造屋敷の維持管理に頭を悩ませることになった。多くの屋敷が解体されるか自治体に寄贈される中で、小山田家は「天然ガスの試掘失敗によってもたらされた温泉」という近代の偶然を素早く取り込み、自邸を地域住民や旅行者が泊まり込める保養の場へと転換した。
国指定の文化財でありながら、宿泊客は16.3メートルの一枚板の廊下を歩き、大正時代の職人技が光る客室で寝起きし、太古の海水に身を浸す。建築を鑑賞対象として囲い込むのではなく、温泉浴という日常的な身体体験の場として開放し続けること。これこそが、他地域の豪農屋敷の保存形態と決定的に異なる強首独自の生存戦略であった。
一軒宿となった輪中の地で
昭和40年代には10件の施設が立ち並び、賑わいを見せた強首温泉郷であったが、半世紀の時を経てその姿は大きく変化した。
自家用車の普及による旅行スタイルの変化、旅行客の目的地分散、施設の老朽化、そして後継者不足といった全国の温泉地が直面する課題は、この強首の地にも容赦なく押し寄せた。かつて町営保養所として賑わった平原荘や県営の強首荘をはじめ、多くの民間旅館が次々と暖簾を下ろしていった。
2025年現在、強首温泉郷において温泉宿泊施設として営業を続けているのは、小山田家の邸宅である「樅峰苑」わずか1軒のみとなっている。
かつて温泉郷の一角を占めていた老舗の「強首ホテル」は、時代の変化に合わせて大胆な方向転換を行った。温泉宿としての宿泊営業を停止した後、地元美容室などから譲り受けた大量のドレスを保管・展示し、来訪者が好きな衣装を着て自由に写真を撮影できる「ドレスリゾートこわくび」という体験型施設へと再生した。温泉街という枠組みが解体された後も、それぞれの事業者が模索を続けている姿がそこにある。
強首温泉郷の周辺を歩くと、この土地が持つもう一つの宿命に気づかされる。温泉郷を囲むように築かれた高い土手、すなわち「強首輪中堤(わじゅうてい)」である。
雄物川の激しい蛇行地点に位置する強首地区は、古来より度重なる水害に見舞われてきた。堤防には、過去の歴史的大洪水で水が到達した高さを示す青いラインが刻まれている。大正3年の強首地震のみならず、激流の氾濫という自然の脅威と隣り合わせで暮らしてきた土地なのだ。集落全体を土手で囲む「輪中」の構造は、この過酷な地理的条件のもとで人々が生き抜くために生み出した知恵であった。
樅峰苑の敷地内には、蔵を利用した資料館が併設されている。重厚な扉を開けて中へ入ると、秋田藩主佐竹公から拝領したという茶道具や持ち運び用の茶弁当箱、江戸時代から明治・大正期にかけての古文書や生活道具が静かに並べられている。
大正3年の大震災を乗り越えて建てられた耐震屋敷、度重なる雄物川の水害を食い止めてきた輪中の堤防、そして敷地内の蔵に眠る佐竹藩ゆかりの品々。それらはすべて、この地で庄屋として地域を守り抜いてきた人々の営みの記録である。
高台の露天風呂に身を沈めると、檜の浴槽の縁から茶褐色の湯が静かに溢れ出し、そのまま排水口へと流れていく。お湯をすくって口に含むと、強い塩分とヨウ素の風味が喉の奥に広がる。数百万年前の海が、今この瞬間も絶え間なく湧き出し続けているのだ。
化石海水と大正木造が交差する場所
初見の者が強首温泉に対して抱く「古くからの伝統的な湯治場」という印象は、現地を訪れ、その成り立ちを知るにつれて鮮やかに裏切られる。
そこにあったのは、何百年も変わらずに受け継がれてきた伝統の温泉街ではない。昭和39年に行われた近代的な石油・ガス探鉱という産業活動の失敗から偶然にもたらされた「化石海水」という資源。そして大正3年の大地震の惨事を教訓とし、京都で学んだ最新工法を組み込んで建てられた豪農の耐震屋敷。この2つの全く異なる時間軸と出来事が、戦後の社会変化の中で奇跡的に交差して誕生した場所であった。
一見すると古風な伝統文化に見える風景の裏側に、自然災害からの学び直しと、近代産業技術の副産物、そして戦後の社会構造変化への適応という、極めて合理的で力強い人間の営みが隠されている。
太古の海水であるヨウ素泉に浸かりながら、大正時代の職人が磨き上げた秋田杉の柱や梁を見上げる。雄物川の蛇行する輪中の地で、数百万年の地球の記憶と、百年前の建築技術、そして昭和の探鉱の歴史が、たった一軒となった湯宿の中で今も静かに呼吸を合わせている。
旅と食が好き。どこにでもいます。