隣り合う妻籠宿とはなぜこれほど風景が違うのか、三留野宿が辿ってきた近代化の歩みとはどのようなものだったのか?

坂道の先に消えた宿場町
JR中央本線の南木曽駅に降り立つと、駅前には木曽ヒノキの貯木場が広がり、遠く木曽川には巨大な木造吊橋のトラスが架かっている。観光案内所の看板が指し示すのは、全国に先駆けて町並み保存に取り組んだ妻籠宿だ。訪れる旅行者の多くはバスやタクシーに乗り込み、そのまま妻籠へと直行していく。だが、南木曽駅のすぐ北側、線路をくぐり坂道を少し上がった場所にも、かつて中山道六十九次の一翼を担った宿場が存在する。木曽十一宿の四十一番目、三留野宿である。
三留野の旧街道へ足を踏み入れると、妻籠のような統一された江戸の町並みは広がっていない。民家の間に宿場時代の出桁造りや塗屋造の建物が点在し、路傍には小川のような水路が澄んだ音を立てて流れている。観光地特有の喧騒はなく、郵便配達のバイクや散歩する住民の姿が時折通り過ぎるだけの静かな集落だ。
なぜ、同じ南木曽町の中にあり、隣り合う宿場でありながら、妻籠と三留野の風景はこれほどまでに異なるのか。単に観光地化されたかどうかの違いなのだろうか。それとも、この町が辿ってきた時間の重なりそのものが、隣宿とは全く違う筋道を辿っていたからなのだろうか。
猛火と山津波が削り取った町
三留野という地名の起源は中世に遡る。かつて木曽谷一帯を治めていた木曽氏の一族である妻籠氏がこの地に居館を構え、その館が「御殿(みどの)」と呼ばれていたことから転じたと伝えられている。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉方に付いた木曽氏の武将・山村良勝が妻籠城に拠り、徳川家康方の軍勢を阻んだ激戦地でもあった。慶長6年(1601年)に徳川幕府によって中山道の宿駅が定められると、三留野も正式な宿場町として整備された。当初は幕府直轄領だったが、元和元年(1615年)以降は尾張藩領となり、木曽代官山村氏の支配下で街道の要衝としての役割を担うことになる。
しかし、宿場町としての三留野の歴史は、激しい災害との戦いの歴史でもあった。特に火災の被害は甚大で、万治元年(1658年)から宝永元年(1704年)までのわずか50年ほどの間に、宿の全域を焼き尽くすような大火が4度も発生している。
木曽谷の宿場町の多くは、江戸時代を通じて人口が増加し、町並みの長さも拡張されていった。たとえば近隣の宿場では、元禄期から幕末にかけて宿の長さが倍近くに伸びた例も珍しくない。ところが、三留野宿の規模を記録した史料を見ると、元禄5年(1692年)に「2町40間余」あった宿の長さが、天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』では「2町15間(約245メートル)」へと逆に縮小している。家数は77軒、宿内人口は594人に留まっていた。短期間に繰り返された猛火によって町が疲弊し、宿場の物理的な規模そのものが縮んでしまったためだと考えられている。
さらに三留野を脅かしたのは火事だけではなかった。三留野の集落背後には標高1500メートル級の急峻な山々が木曽川の縁まで迫っており、大雨のたびに山腹が崩落して土石流が押し寄せた。地元の人々はこれを「蛇抜け(じゃぬけ)」と呼んだ。山が裂け、巨大な大蛇が暴れ狂いながら谷を駆け下りてくるように見えることから付いた名である。土石流は集落を分断し、田畑や家屋を押し流した。
宿場町としての決定的な転換点は、明治14年(1881年)7月10日に起きた大火である。この火災で本陣をはじめとする家屋74軒、土蔵8軒が灰燼に帰した。江戸時代以来の主要な宿場建築は、この一夜でほぼすべて失われてしまったのである。現在、街道沿いに残る切妻造りや塗屋造りの町家が、いずれも明治中期以降に再建されたものである理由はここにある。三留野は、江戸の遺構が自然に残った町ではなく、火と土砂によって何度も更地にされ、そのたびに人々が生活を立ち上げ直してきた町であった。
三つの家が回した宿場の機構
町がどれほど被災しても、中山道の宿駅としての機能を維持しなければならない。その重責を担っていたのが、三留野宿を率いた三つの有力な家柄であった。
本陣を務めたのは鮎沢家である。参勤交代の大名や公家、幕府の要人が宿泊する格式高い屋敷を構え、宿場の顔となっていた。幕末の文久元年(1861年)、14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮が中山道を下向した際、宿泊地となったのがこの三留野宿の本陣であった。和宮一行の総数は数万人規模に及んだとされ、宿内だけでは到底収まりきらなかったため、宿の裏手に38棟もの仮小屋が急造されたという記録が残る。明治13年(1880年)の明治天皇巡幸の際にも本陣が行在所となり、天皇の飲料水として山側の井戸からわざわざ木管で水を引いた。この鮎沢本陣も明治14年の火災で失われ、敷地はのちに国の出張所や森林組合の事務所へと転用されたが、庭の一角にあった「しだれ梅」の古木だけは焼け残り、今も春になると淡い花を咲かせている。
本陣の斜め向かいに位置し、大名行列の補佐や高官の宿泊を担う脇本陣、そして名主(庄屋)を代々務めたのが宮川家である。三留野村の行政を取りまとめ、度重なる災害からの復興を主導した。現在も街道沿いには宮川家の屋敷が構えられ、脇本陣跡の案内板が往時の位置関係を示している。
そして三つ目が、問屋役として人馬の継立や荷物の配送を手配した勝野家である。木曽路は峻険な峠や深い谷が連続するため、平野部の街道に比べて馬や人足の消耗が激しい。定められた人馬を常に待機させ、遅滞なく次の野尻宿や妻籠宿へと引き継ぐ問屋の業務は、宿場の兵站を支える心臓部であった。
天保14年の記録によれば、三留野宿には本陣1軒、脇本陣1軒のほかに旅籠が32軒(大7軒、中19軒、小6軒)存在していた。木曽谷の山間部では平地が極めて乏しく、農業だけでは集落の人口を養うことができなかったため、住民の多くは旅籠や茶屋の営業、あるいは尾張藩が厳重に管理する木曽山林での杣仕事や木工加工によって生計を立てていた。
文化の面でも独自の足跡が残されている。江戸時代の学者・園原旧富はこの地に私塾を開き、尾張、美濃、信濃の各地から集まった門人を指導した。宿場内にある等覚寺には、諸国を巡歴した僧・円空が彫り残した弁才天像や韋駄天像、天神像が伝えられている。三留野は単なる山間の通過点ではなく、東西の往来を通じて知識や造形文化が淀みなく流れ込む場所でもあった。
保存された江戸、更新された町
木曽路十一宿を歩くと、宿場町ごとの残され方の違いに気付かされる。典型的な比較対象となるのが、隣宿の妻籠宿や、鳥居峠の北に位置する奈良井宿である。
妻籠宿は昭和40年代、高度経済成長期の開発の波に危機感を抱いた住民たちが「売らない・貸さない・壊さない」という三原則を打ち立て、全国で初めて町並み保存事業を成功させた場所である。江戸時代の街道景観が奇跡的な密度で残り、昭和51年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。奈良井宿もまた、約1キロメートルにわたって千本格子の町家が整然と連なり、木曽漆器の産地としての歴史とともに景観を維持している。
これら二つの宿場が「江戸時代の空間を保存し、凍結することで価値を生み出した町」であるとすれば、三留野宿は「近代の要請に応じて自らの姿を更新し続けた町」といえる。
違いを生んだ第一の要因は、先述した明治の大火である。妻籠が幕末から明治にかけての町並みをほぼそのまま保ち得たのに対し、三留野は明治14年に主要部を焼失した。再建された町家は、江戸期の低い天井や繊細な格子ではなく、出桁を太く張り出し、防火のために土壁を厚く塗り込めた頑丈な明治の建築様式へと切り替わった。
第二の要因は、交通インフラの近代化への接続である。明治44年(1911年)、中央本線が全通した際、現在の南木曽駅は「三留野駅」として開業した。妻籠宿が鉄道ルートから外れ、山あいに取り残されたことで結果的に古い町並みが保存されたのとは対照的に、三留野は木曽谷南部の鉄道物流の結節点となった。木曽川の舟運や森林鉄道から運ばれる木材が集積され、伊那街道を経由して飯田方面へ物資を送り出す中継基地として、駅周辺には新たな市街地や商店街が急速に形成されていった。
同じ木曽谷にありながら、妻籠が「街道の遺産」として時間を止める道を選び、三留野は「近代の物流拠点」として姿を変える道を選んだ。三留野宿に江戸の統一的な景観が見当たらないのは、歴史を失ったからではなく、明治から大正にかけての産業の最前線に立っていた結果なのである。
発電の轟音と木造吊橋の陰で
南木曽駅の西側、木曽川の対岸を見上げると、巨大な近代建築と吊橋が視界に飛び込んでくる。大正時代、「電力王」と呼ばれた実業家・福沢桃介が率いる大同電力によって建設された読書(よみかき)発電所と、工事資材運搬のために大正11年(1922年)に架橋された木造吊橋「桃介橋(ももすけばし)」である。
読書という独特の地名は、明治7年(1874年)に与川(よがわ)、三留野(みどの)、柿其(かきぞれ)の3村が合併した際、それぞれの頭文字を組み合わせて名付けられた。この読書村を流れる木曽川の急流に目をつけた桃介は、水力発電による近代産業の基盤づくりを進めた。全長247メートルに及ぶ桃介橋は、木造トラス補強を施した吊橋として当時日本屈指の規模を誇り、現在は国の重要文化財に指定されている。
街道の宿場町として栄えた三留野は、大正期に入ると日本の近代化を支えるエネルギー基地へと重ね塗りされた。宿場時代の水路や細い坂道のすぐ足元で、木曽川の水が巨大な水車を回し、発生した電力が中京や関西の工業地帯へと送られていったのである。
だが、鉄道と水力発電がもたらした活況も、昭和後期から平成にかけて次第に落ち着きを見せる。木材需要の減少とともに駅前の賑わいは静まり、旧中山道沿いの三留野宿も静かな住宅街へと戻っていった。
現在の三留野宿を歩くと、集落の随所に水害対策の砂防設備や「蛇抜け」の記憶を伝える遺構が見られる。昭和28年の集中豪雨による蛇抜けの犠牲者を悼む「悲しめる乙女の像」や、谷筋に架けられた「蛇抜橋」である。古い民家の軒先には生活のための薪が積まれ、水路からは絶え間なく水音が響いている。過疎化や建物の老朽化という山間地共通の課題を抱えつつも、ここには観光用の演出ではない、明治・大正・昭和を生き抜いてきた生活の輪郭がそのまま残されている。
重層する時間を歩く
三留野宿という空間を捉えるとき、単に「江戸の町並みが失われた宿場」と見なすのは一面的な見方に過ぎない。
日本の街道を歩く際、私たちは無意識のうちに「江戸時代の宿場景観がそのまま残っていること」を期待しがちだ。しかし、街道の宿場町が明治以降どうなったかという歴史を振り返れば、火災に遭い、鉄道の開通によって駅前へと重心を移し、あるいは地域の産業基盤として形を変えていく姿こそが、むしろ普遍的な歩みであった。
三留野宿の魅力は、ひとつの時代で切り取られた箱庭ではなく、重なり合った複数の歴史が地層のように露出している点にある。中世木曽氏の館跡に端を発し、江戸の中山道として人馬を送り出し、明治の大火を乗り越えて塗屋造りの家並みを再建し、大正には鉄道と水力発電の拠点として近代化を牽引した。
本陣跡の敷地に立つと、明治14年の大火を生き延びた枝垂梅の枝が、南木曽町森林組合の建物の脇に静かに伸びている。その数十メートル先には、蛇抜けの土石流を警戒する治山設備があり、崖下からは木曽川の奔流と中央本線の列車が軋む音がかすかに届く。火と水に削られながら、時代の要請に合わせて何度も骨格を組み替えてきた宿場町の確かな厚みが、坂道の傾斜のなかに刻まれている。
旅と食が好き。どこにでもいます。