2026/6/1
土浦の蓮根はいつから?霞ヶ浦の泥が育んだ歴史

土浦といえば蓮根が有名だ。いつから栽培されているのか?そもそも蓮根の歴史は?
キュリオす
茨城県土浦市は日本有数の蓮根産地。その歴史は古く、奈良・鎌倉時代に伝来した食用蓮根が、明治以降の品種改良と霞ヶ浦の恵まれた土壌により一大産地へと発展した経緯を辿る。
茨城県土浦市を訪れると、その風景の中に蓮田が溶け込んでいることに気づく。特に夏から秋にかけて、広大な水面に蓮の葉が広がり、淡いピンクや白の花が咲き誇る光景は、土浦の象徴ともいえる。しかし、この地が「蓮根の里」として知られるようになったのは、いつからなのだろうか。そして、そもそも蓮根という食材は、日本の食卓にいつ頃から並び始めたのか。一見すると当たり前のように存在する蓮根だが、その背景には、霞ヶ浦の地理的条件と、先人たちの試行錯誤の歴史が隠されている。
蓮は、その長い歴史を遡ると、インドや中国が原産地とする説が有力だ。古くは観賞用として、また仏教においては泥の中から清らかな花を咲かせる姿が尊ばれ、神聖な植物とされてきた。日本においても、弥生時代にはすでに大賀ハスや行田ハスといった自生種が存在していたという記録がある。しかし、これらは主に観賞用であり、地下茎が肥大した「蓮根」が食用として本格的に広まるのは、後の時代になる。
食用としての蓮根が日本に伝わったのは、奈良時代から鎌倉時代にかけて中国からもたらされたのが始まりとされている。特に鎌倉時代には道元、江戸時代には隠元といった僧侶が中国から蓮根を持ち帰ったという記録も残っている。当初の在来種は収穫量が少なく、栽培も容易ではなかったため、広く普及するまでには至らなかったようだ。それでも、『常陸国風土記』には、現在の茨城県にあたる地域で蓮根が食されていたことが記されており、古くからその存在は知られていたことがうかがえる。この記述は713年に編纂が始まり、717年に完成したとされるもので、当時の蓮根が食材や生薬として利用されていたことを示している。
本格的に食用蓮根の栽培が広まったのは、明治時代初期に中国から新たな品種が導入されて以降のことだ。この中国種は、在来種に比べて地下茎が浅く伸び、節間が短く太い特徴を持ち、掘り取りが容易で収量も多かったため、日本各地での栽培が拡大していく要因となった。現在市場に流通している蓮根の多くは、この明治時代以降に導入・改良された品種が元になっている。
茨城県土浦市が日本一の蓮根産地として知られるようになったのは、地理的条件と歴史的な転換が重なった結果である。その最大の理由は、日本で二番目に広い湖である霞ヶ浦の存在に他ならない。霞ヶ浦沿岸は、アシなどの野草が長年堆積してできた泥炭性埴土という肥沃な土壌に恵まれており、さらに冬でも降雪が少なく温暖な気候が蓮根栽培に適していたのだ。
土浦における蓮根の商業栽培は、明治時代末期に始まったとされている。霞ヶ浦周辺の土地は、もともと水はけが悪く、稲作には不向きな「湿田」が多かった。しかし、この稲作には適さない低湿地帯を逆手に取り、蓮根栽培に活路を見出したのが、当時の開拓者たちである。彼らの試行錯誤が、今日の日本一の産地の礎を築いたのだ。
特に転機となったのは、第二次世界大戦後の昭和20年代(1945年〜1955年頃)に販売目的の蓮根栽培が始まったこと、そして昭和45年(1970年)に国の減反政策に伴い、米に代わる転作作物として蓮根が本格的に導入されてからだ。これにより作付面積は急速に拡大した。さらに、昭和40年代後半(1975年〜1980年頃)にはポンプを用いた「水掘り」という収穫方法が導入されると、一戸当たりの作付面積が拡大し、一大産地へと発展していった。この水掘りは、強力な水圧で泥を吹き飛ばし、蓮根を傷つけずに収穫できるため、作業効率の向上と品質維持に大きく貢献した。
土浦市を含む霞ヶ浦流域は、現在、作付面積・出荷量ともに全国トップを誇り、全国の出荷量の約50%以上を茨城県産が占めている。東京市場においては、そのシェアは90%以上にもなるという。このような大規模な産地形成には、個々の農家によって培われた栽培技術の蓄積も寄与している。
蓮根の栽培は、日本各地で行われているが、その土地の気候や土壌、歴史的背景によって、栽培される品種や収穫方法、そして蓮根の持つ特性にも違いが見られる。例えば、石川県の「加賀れんこん」は、江戸時代に加賀藩五代藩主前田綱紀が持ち帰った蓮の苗が始まりとされ、藩政時代には城中で薬用として栽培されていたという歴史を持つ。泥が深く、掘り上げるのに労力を要する在来の「地ばす」が明治中頃まで栽培され、その後、新品種の導入や改良が進んで現在の「支那白花」という品種が主流となった。加賀れんこんは澱粉質が多く粘りが強いのが特徴で、金沢ではすりおろして「ハス蒸し」にするのが定番だ。
一方、山口県の「岩国れんこん」も、加賀れんこんと同じ「支那白花」を品種とするが、異なる地域で育まれることで独自のブランドを確立している。また、西日本、特に徳島県を中心に栽培される「備中(びっちゅう)種」は、明治初期に中国から導入された品種が起源とされ、節間が細長く、粉質の肉質で煮物に適している。
これらの産地と土浦の蓮根栽培を比較すると、共通するのは明治期以降の中国種導入による本格的な食用栽培の拡大と、それぞれの地域が持つ土壌や気候条件への適応である。しかし、その中でも土浦を含む霞ヶ浦周辺が日本一の産地となった背景には、霞ヶ浦という広大な淡水湖がもたらす「泥炭性埴土」という特異な土壌条件と、戦後の減反政策という社会的な要因が大きく作用している点が挙げられる。葛飾区の蓮根栽培が大正時代に始まったことが記録されているように、東京東郊でも蓮根栽培の歴史は明治時代初期に遡るが、葛飾区域で広く行われるようになったのは大正時代のことだとされている。当時は水はけの悪い水田で栽培され、病気に強い中国原産の蓮根に変わっていったという経緯がある。
土浦では、他の地域が特定の在来種や伝統的な栽培方法を維持してきたのに対し、霞ヶ浦の広大な低湿地という自然条件と、効率的な「水掘り」技術の導入、そして転作作物としての位置づけが、大規模な生産体制を確立する上で決定的な役割を果たしたと言えるだろう。
現在の土浦市を含む霞ヶ浦周辺地域は、作付面積約850ヘクタール(2019年実績)に及ぶ広大な蓮田が広がり、日本一の蓮根産地としての地位を確立している。JA水郷つくば土浦れんこんセンター利用部会には69名の部会員が所属し、そのうち10名がハウス栽培を行うなど、一年を通して安定供給を目指す取り組みも進められている。ハウス栽培の蓮根は露地栽培よりも早く収穫が始まり、6月上旬から7月上旬に出荷される。
蓮根の収穫は主に秋から冬にかけての寒い時期に行われるが、夏には蓮の花が咲き誇り、その美しい景観は多くの観光客やアマチュアカメラマンを惹きつけている。土浦市では、蓮根のさらなる知名度向上と消費拡大のため、様々な取り組みが展開されている。例えば、2023年にはキユーピー株式会社と「土浦市れんこんサラダ化プロジェクト推進協定」を締結し、蓮根のサラダレシピを共同開発している。また、蓮根焼酎「土浦恋婚」の商品企画や、「日本一のれんこんグランプリ」の開催など、地域を挙げたPR活動が活発だ。
かつては「泥の中の不浄なもの」として食されなかった時代もあった蓮根だが、現在では「先を見通す」縁起物として、正月のおせち料理には欠かせない食材となっている。土浦の菓子店では、蓮根を練り込んだどら焼きやサブレーといった加工品も開発され、土産物としても親しまれている。これらの商品は、蓮根が単なる食材としてだけでなく、地域の文化や観光資源としても深く根付いていることを示している。
土浦の蓮根栽培の歴史を紐解くと、「湿田」という、かつて稲作には不向きとされた土地が、蓮根という別の作物によって新たな価値を見出された経緯が見えてくる。通常の農業では不利とされる条件が、特定の作物にとっては最適な環境となり得るという、農業における適応と転換の具体例だ。
蓮根の栽培は、水と泥を必要とし、重労働を伴う。特に水掘りにおいては、農家は胸まであるゴム製の長靴を履き、冷たい水に浸かりながら、水圧ポンプで泥を飛ばし、手探りで蓮根を掘り出す。この手間暇かかる作業こそが、泥の中で育つ蓮根の品質を保ち、その風味を育む。
土浦の蓮根は、単に生産量日本一というだけでなく、その土地の気候、土壌、そして人々の労働が一体となって生み出された、霞ヶ浦という地域固有の風景の一部である。蓮根の穴が「先を見通す」縁起物とされるように、この地の蓮根は、不利な条件を逆手にとり、未来を切り開いてきた先人たちの知恵と努力の結晶を、今に伝えていると言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。