2026/5/28
湯河原のきび餅、源頼朝の時代から続く物語

湯河原できび餅を食べた。美味しかった。詳しく知りたい。
キュリオす
湯河原で親しまれるきび餅の歴史を辿る。源頼朝の逸話に始まり、大正時代の菓子匠による改良、そして白玉粉と黍粉、きな粉の調和が生み出す独特の味わいまで、その魅力を紹介する。
旅先での出会いは、時に五感を介して記憶に深く刻まれるものだ。湯河原の温泉街を歩いていたとき、ふわりと漂ってきた甘く香ばしいきな粉の匂いに足を止めた。導かれるままに暖簾をくぐり、口にしたのが湯河原名物のきび餅だった。やわらかな餅ときな粉の絶妙な組み合わせは、単なる菓子というより、その土地の歴史や風土が凝縮されたかのように感じられた。なぜ湯河原で、これほどきび餅が親しまれてきたのだろうか。その素朴な味わいの奥に、どのような物語が隠されているのか、深く知りたいと思った。
きび餅の歴史を紐解くと、湯河原の地で800年以上前にまで遡る伝承に行き当たる。治承四年(1180年)、源頼朝は石橋山の合戦で大敗を喫し、土肥実平に導かれて数人の家来と共に湯河原の「しとどの窟(いわや)」に身を隠したという。その際、実平の奥方がひそかにきび餅を作って差し入れ、頼朝らの飢えをしのいだ、と伝えられているのだ。この逸話が、湯河原のきび餅の起源として語り継がれてきた。
しかし、現在の湯河原のきび餅が確立されたのは、もう少し後の時代である。大正時代に入り、湯河原の菓子匠たちがこの古くからの伝承に着想を得て、きび餅の研究改良を重ねた結果、現在の名物菓子としての形が整えられたという説もある。 特に、大正14年(1925年)創業の「ゑふや」や明治43年(1910年)創業の「小梅堂」といった老舗が、当時の製法を受け継ぎながら、湯河原のきび餅を代表する存在として名を馳せていく。 これらの店は、湯河原温泉を訪れる多くの文豪たちにも愛され、島崎藤村が小梅堂のきび餅を好んで食したという記録も残されている。
かつてのきび餅は、米や麦が十分に収穫できない山間部で、きびやあわといった雑穀を主食代わりに用いて作られた素朴な餅であった。 米が貴重だった時代には、年末年始の行事食としても重宝され、全国各地で雑穀を使った餅が作られてきた歴史がある。 湯河原のきび餅も、こうした雑穀食文化の延長線上にありながら、温泉地の土産物として独自の進化を遂げていったと言えるだろう。
湯河原のきび餅が持つ、あの独特のやわらかさと香ばしさは、どのようにして生まれるのだろうか。その製法には、いくつかの特徴が見られる。主な材料は、白玉粉と国産の黍(きび)粉、そして白ザラメである。 一般的な餅はもち米を主原料とするが、湯河原のきび餅は白玉粉を用いることで、もち米だけでは出せない繊細な口当たりを実現している。黍粉を混ぜ合わせることで、独特の風味と弾力、そして素朴な味わいが加わるのだ。
製造工程を見ると、まず原料を蒸し、その後に蜜を加えて攪拌する。 攪拌された餅は木枠にとって1〜2日ほど寝かせることで、味がなじみ、独特の柔らかな食感が生まれる。 そして、この寝かせた餅に、香ばしい挽きたてのきな粉をたっぷりとまぶしながら切り分けていく。 きな粉は、大豆を炒って粉にしたもので、消化が良く、大豆たんぱく質やイソフラボンなどを含み、栄養価も高い。 湯河原の老舗の中には、国産きな粉と甘みが際立つカナダ産きな粉を独自にブレンドして使用するところもあるという。 このきな粉が、きび餅の風味を決定づける重要な要素となっている。
湯河原のきび餅は、余計な添加物を加えず、シンプルな材料と伝統的な製法を守ることで、その素朴な味わいを保っている。 柔らかすぎず硬すぎない程よい歯ごたえは、手作りならではのコシのある食感とも評される。 この素材を活かしたシンプルな製法と、職人の手間暇をかけた工程が、湯河原のきび餅の品質を支えていると言えるだろう。
きび餅という名は全国各地に存在するが、その実態は地域によって異なる。例えば、湯河原のきび餅が求肥系のやわらかな餅菓子であるのに対し、岡山県の「きびだんご」は、もち米に砂糖や水飴を混ぜて練った求肥餅であり、黍は風味付けに使われる程度で主原料ではないことが多い。 岡山では、江戸時代末期に吉備津神社の黍団子に着想を得て菓子職人が改良を重ね、明治時代に鉄道開通とともに全国に知られるようになったという経緯がある。 また、桃太郎の物語と結びつけられたのは、昭和に入ってからの地域振興の一環である。
一方、山梨県や岩手県花巻市などでも「きび餅」が郷土料理として伝承されている。 これらの地域のきび餅は、もち米に黍を混ぜて蒸し、餅つき機で搗いて作る、より素朴な雑穀餅の性格が強い。 かつて米の収穫が困難だった山間部で、黍や粟、栃の実といった雑穀が主食の一部として利用されてきた歴史を色濃く残す。 京都府でもきび餅、あわ餅、とち餅が郷土料理として伝承されており、年末年始に食べられる習慣があるという。
これらの比較から見えてくるのは、同じ「きび餅」という名称でも、その成り立ちや製法、そして果たしてきた役割が、地域の歴史や文化、食料事情によって大きく異なるという点だ。湯河原のきび餅が、古くからの伝承を背景に、温泉地の土産物として洗練された餅菓子へと発展したのに対し、岡山県のきびだんごは、求肥菓子としての独自性を確立し、物語性を付加することで全国的な銘菓となった。また、山梨や岩手などのきび餅は、雑穀を日常食として利用してきた地域の暮らしぶりを色濃く反映している。それぞれの土地のきび餅は、その地の風土と人々の知恵が凝縮された結果であり、一概に比較できるものではない。
現在の湯河原の温泉街には、きび餅を扱う老舗が複数軒軒を連ねている。大正時代から続く「ゑふや本店」や、明治時代創業の「小梅堂」などがその代表格だ。 これらの店舗では、伝統の製法を守りながら、日々きび餅を作り続けている。湯河原を訪れる観光客にとって、きび餅は温泉まんじゅうと並ぶ定番の土産物であり、神奈川県指定銘菓や「かながわの名産100選」にも選ばれている。 旅館によっては、宿泊客の出迎えの茶菓子としてきび餅が出されることもあり、湯河原の「おもてなし」の一部として定着している。
近年は、健康志向の高まりから雑穀の栄養価が再評価され、きび餅のような伝統的な雑穀菓子にも再び注目が集まっている。 しかし、雑穀の栽培は米に比べて収穫量が少なく、生産者の高齢化も進んでいるため、昔に比べて原料の入手が難しくなっているという現実もある。 そのため、一部では粟の代わりに黍を使うといった工夫も見られる。 湯河原のきび餅は、こうした現代的な課題に直面しながらも、地域に根ざした菓子としてその味を守り続けているのだ。温泉街の散策中に店頭で試食を提供したり、オンライン販売に力を入れたりするなど、伝統と現代の需要をつなぐ努力も続けられている。
湯河原のきび餅を巡る旅で浮かび上がったのは、菓子が単なる甘味ではなく、土地の記憶を内包するものであるという事実だった。源頼朝の逸話が物語るように、きび餅は非常時の食料として、あるいは日々の暮らしを支える雑穀として、この地の歴史と深く結びついてきた。それが大正時代に菓子匠たちの手によって洗練され、温泉地の名物菓子として定着する。
岡山県のきびだんごが桃太郎という普遍的な物語と結びつき、全国的な知名度を得たのに対し、湯河原のきび餅は、よりローカルな「しとどの窟」の伝承や、文人たちが愛した湯河原の温泉文化に寄り添いながら、その存在感を確立してきたと言える。それは、派手さはないものの、湯河原という土地の持つ歴史や風情を静かに伝える役割を担っている。一口食べれば、やわらかな餅ときな粉の香ばしさが広がり、その背景にある幾重もの物語に思いを馳せることになるだろう。## 湯河原、きな粉の香りに誘われて
旅先での出会いは、時に五感を介して記憶に深く刻まれるものだ。湯河原の温泉街を歩いていたとき、ふわりと漂ってきた甘く香ばしいきな粉の匂いに足を止めた。導かれるままに暖簾をくぐり、口にしたのが湯河原名物のきび餅だった。やわらかな餅ときな粉の絶妙な組み合わせは、単なる菓子というより、その土地の歴史や風土が凝縮されたかのように感じられた。なぜ湯河原で、これほどきび餅が親しまれてきたのだろうか。その素朴な味わいの奥に、どのような物語が隠されているのか、深く知りたいと思った。
きび餅の歴史を紐解くと、湯河原の地で800年以上前にまで遡る伝承に行き当たる。治承四年(1180年)、源頼朝は石橋山の合戦で大敗を喫し、土肥実平に導かれて数人の家来と共に湯河原の「しとどの窟(いわや)」に身を隠したという。その際、実平の奥方がひそかにきび餅を作って差し入れ、頼朝らの飢えをしのいだ、と伝えられているのだ。この逸話が、湯河原のきび餅の起源として語り継がれてきた。
しかし、現在の湯河原のきび餅が確立されたのは、もう少し後の時代である。大正時代に入り、湯河原の菓子匠たちがこの古くからの伝承に着想を得て、きび餅の研究改良を重ねた結果、現在の名物菓子としての形が整えられたという説もある。 特に、大正14年(1925年)創業の「ゑふや」や明治43年(1910年)創業の「小梅堂」といった老舗が、当時の製法を受け継ぎながら、湯河原のきび餅を代表する存在として名を馳せていく。 これらの店は、湯河原温泉を訪れる多くの文豪たちにも愛され、島崎藤村が小梅堂のきび餅を好んで食したという記録も残されている。
かつてのきび餅は、米や麦が十分に収穫できない山間部で、きびやあわといった雑穀を主食代わりに用いて作られた素朴な餅であった。 米が貴重だった時代には、年末年始の行事食としても重宝され、全国各地で雑穀を使った餅が作られてきた歴史がある。 湯河原のきび餅も、こうした雑穀食文化の延長線上にありながら、温泉地の土産物として独自の進化を遂げていったと言えるだろう。
湯河原のきび餅が持つ、あの独特のやわらかさと香ばしさは、どのようにして生まれるのだろうか。その製法には、いくつかの特徴が見られる。主な材料は、白玉粉と国産の黍(きび)粉、そして白ザラメである。 一般的な餅はもち米を主原料とするが、湯河原のきび餅は白玉粉を用いることで、もち米だけでは出せない繊細な口当たりを実現している。黍粉を混ぜ合わせることで、独特の風味と弾力、そして素朴な味わいが加わるのだ。
製造工程を見ると、まず原料を蒸し、その後に蜜を加えて攪拌する。 攪拌された餅は木枠にとって1〜2日ほど寝かせることで、味がなじみ、独特の柔らかな食感が生まれる。 そして、この寝かせた餅に、香ばしい挽き立てのきな粉をたっぷりとまぶしながら切り分けていく。 きな粉は、大豆を炒って粉にしたもので、消化が良く、大豆たんぱく質やイソフラボンなどを含み、栄養価も高い。 湯河原の老舗の中には、国産きな粉と甘みが際立つカナダ産きな粉を独自にブレンドして使用するところもあるという。 このきな粉が、きび餅の風味を決定づける重要な要素となっている。
湯河原のきび餅は、余計な添加物を加えず、シンプルな材料と伝統的な製法を守ることで、その素朴な味わいを保っている。 柔らかすぎず硬すぎない程よい歯ごたえは、手作りならではのコシのある食感とも評される。 この素材を活かしたシンプルな製法と、職人の手間暇をかけた工程が、湯河原のきび餅の品質を支えていると言えるだろう。
きび餅という名は全国各地に存在するが、その実態は地域によって異なる。例えば、湯河原のきび餅が求肥系のやわらかな餅菓子であるのに対し、岡山県の「きびだんご」は、もち米に砂糖や水飴を混ぜて練った求肥餅であり、黍は風味付けに使われる程度で主原料ではないことが多い。 岡山では、江戸時代末期に吉備津神社の黍団子に着想を得て菓子職人が改良を重ね、明治時代に鉄道開通とともに全国に知られるようになったという経緯がある。 また、桃太郎の物語と結びつけられたのは、昭和に入ってからの地域振興の一環である。
一方、山梨県や岩手県花巻市などでも「きび餅」が郷土料理として伝承されている。 これらの地域のきび餅は、もち米に黍を混ぜて蒸し、餅つき機で搗いて作る、より素朴な雑穀餅の性格が強い。 かつて米の収穫が困難だった山間部で、黍や粟、栃の実といった雑穀が主食の一部として利用されてきた歴史を色濃く残す。 京都府でもきび餅、あわ餅、とち餅が郷土料理として伝承されており、年末年始に食べられる習慣があるという。
これらの比較から見えてくるのは、同じ「きび餅」という名称でも、その成り立ちや製法、そして果たしてきた役割が、地域の歴史や文化、食料事情によって大きく異なるという点だ。湯河原のきび餅が、古くからの伝承を背景に、温泉地の土産物として洗練された餅菓子へと発展したのに対し、岡山県のきびだんごは、求肥菓子としての独自性を確立し、物語性を付加することで全国的な銘菓となった。また、山梨や岩手などのきび餅は、雑穀を日常食として利用してきた地域の暮らしぶりを色濃く反映している。それぞれの土地のきび餅は、その地の風土と人々の知恵が凝縮された結果であり、一概に比較できるものではない。
現在の湯河原の温泉街には、きび餅を扱う老舗が複数軒軒を連ねている。大正時代から続く「ゑふや本店」や、明治時代創業の「小梅堂」などがその代表格だ。 これらの店舗では、伝統の製法を守りながら、日々きび餅を作り続けている。湯河原を訪れる観光客にとって、きび餅は温泉まんじゅうと並ぶ定番の土産物であり、神奈川県指定銘菓や「かながわの名産100選」にも選ばれている。 旅館によっては、宿泊客の出迎えの茶菓子としてきび餅が出されることもあり、湯河原の「おもてなし」の一部として定着している。
近年は、健康志向の高まりから雑穀の栄養価が再評価され、きび餅のような伝統的な雑穀菓子にも再び注目が集まっている。 しかし、雑穀の栽培は米に比べて収穫量が少なく、生産者の高齢化も進んでいるため、昔に比べて原料の入手が難しくなっているという現実もある。 そのため、一部では粟の代わりに黍を使うといった工夫も見られる。 湯河原のきび餅は、こうした現代的な課題に直面しながらも、地域に根ざした菓子としてその味を守り続けているのだ。温泉街の散策中に店頭で試食を提供したり、オンライン販売に力を入れたりするなど、伝統と現代の需要をつなぐ努力も続けられている。
湯河原のきび餅を巡る旅で浮かび上がったのは、菓子が単なる甘味ではなく、土地の記憶を内包するものであるという事実だった。源頼朝の逸話が物語るように、きび餅は非常時の食料として、あるいは日々の暮らしを支える雑穀として、この地の歴史と深く結びついてきた。それが大正時代に菓子匠たちの手によって洗練され、温泉地の名物菓子として定着する。
岡山県のきびだんごが桃太郎という普遍的な物語と結びつき、全国的な知名度を得たのに対し、湯河原のきび餅は、よりローカルな「しとどの窟」の伝承や、文人たちが愛した湯河原の温泉文化に寄り添いながら、その存在感を確立してきたと言える。それは、派手さはないものの、湯河原という土地の持つ歴史や風情を静かに伝える役割を担っている。一口食べれば、やわらかな餅ときな粉の香ばしさが広がり、その背景にある幾重もの物語に思いを馳せることになるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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