2026/7/2
阪急塚口駅はどのようにして田園から近代住宅地へと姿を変えたのか

阪急の塚口の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
大正時代の鉄道開通を機に、阪急電鉄と塚口土地という二つの開発主体が、それぞれ思惑を交錯させながら塚口駅周辺の宅地開発を進めた経緯を辿る。
鉄道が拓いた田園
大正時代、現在の阪急塚口駅周辺は一面の田園地帯であった。1920年(大正9年)7月16日、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の神戸本線と伊丹線の開通と同時に、塚口駅が開設される。この駅の誕生が、それまでの農村風景を一変させる端緒となった。当初、阪急電鉄は伊丹を経由する路線を計画していたが、最終的には南寄りの直線的なルートに変更され、伊丹へのアクセスとして塚口駅を起点とする支線が敷設されたのである。
阪急電鉄の創業者である小林一三は、鉄道事業と沿線開発を一体的に進める「阪急モデル」を確立した人物として知られる。都心と郊外を結ぶ鉄道を敷設し、沿線に住宅地や行楽地、さらには百貨店などの商業施設を開発することで、鉄道の利用者を自ら創出するという戦略である。このモデルは、箕面有馬電気軌道(宝塚線の前身)で先行して実施され、宝塚歌劇団や宝塚新温泉といった娯楽施設と住宅地開発が連動して進められた。神戸線の開業においても、同様の思想が根底にあったと考えられる。
塚口駅の開業は、この広大な田園地帯に都市の動脈が通じたことを意味した。駅の北西区域では、阪急とは別の民間事業者である「塚口土地株式会社」が1919年(大正8年)11月に設立され、約7万3,000坪に及ぶ広大な土地で宅地開発に着手している。彼らは土地分譲、建売住宅販売、貸家経営などを展開し、整然とした並木道路と水路で区画された庭付き一戸建ての住宅地を出現させた。これは、それまで村落が点在していた塚口に、近代的な郊外住宅地が形成される最初の動きであった。
阪急電鉄自身も、塚口駅南側の大字森の区域に「塚口住宅地」として約2万4,000坪を開発し、1934年(昭和9年)から分譲を開始した。さらに1941年(昭和16年)から1946年(昭和21年)にかけては、塚口土地が開発した区域のさらに北西に「西塚口住宅地」約5万坪を開発・販売している。このように、塚口は鉄道の開通を契機として、複数の主体による計画的な宅地開発が進められ、大阪や神戸への通勤圏としての性格を強めていったのだ。駅開業前の一面田んぼだった風景は、わずか数十年で、緑豊かな住宅地へと姿を変えていったのである。
二つの開発主体の思惑
阪急塚口の街が形成される過程では、阪急電鉄と「塚口土地」という二つの主要な開発主体がそれぞれの思惑を持って動いていた。その関係性は、必ずしも単純なものではなかった。
阪急電鉄は、創業者である小林一三の先見性に基づき、鉄道事業の収益基盤を安定させるために沿線開発を積極的に進めていた。しかし塚口の場合、駅が開業する以前から、別の民間事業者である塚口土地がこの地に目をつけ、広大な土地を確保していたのである。塚口土地は1919年(大正8年)11月に山口銀行傘下の関西信託の系列会社として設立され、塚口駅の北西、大字塚口から東富松にかけての約7万3,000坪を開発地とした。彼らは、鉄道開通を見越して、先行して郊外型住宅地の分譲を進めることで、新たな居住需要に応えようとした。
一方、阪急電鉄は、塚口土地による開発が進む中で、駅の南側、大字森の区域に自社の「塚口住宅地」を1934年(昭和9年)から販売した。さらに、塚口土地の経営地の北西に位置する「西塚口住宅地」も1941年(昭和16年)から開発している。これは、阪急が自社の鉄道網の価値を最大化するため、競争を意識しつつも、自社でコントロール可能な地域に住宅地を供給しようとした動きと捉えることができるだろう。
伊丹線の存在も、塚口の発展において特筆すべき点である。当初、阪急神戸線は伊丹を通る計画であったが、より直線的なルート変更により塚口経由となったため、伊丹からの強い反発があったという。そこで、塚口から伊丹を結ぶ支線が敷設され、塚口駅がその起点となったのである。この伊丹線の存在は、塚口駅を神戸本線と支線の結節点という、単なる途中駅以上の役割を担わせることになった。伊丹方面からの利用客が塚口で神戸線に乗り換えることで、駅の乗降客数は増加し、駅勢圏の拡大にも寄与したと考えられる。
このように、塚口の初期の街づくりは、阪急電鉄の「阪急モデル」という大きな戦略と、塚口土地という先行する民間事業者の取り組み、そして伊丹線という鉄道計画上の調整が、複雑に絡み合いながら進められていった。それぞれの思惑が交錯する中で、現在の塚口の骨格が形成されていったのだ。
沿線開発の対比から
阪急塚口の発展を考察する際、他の鉄道沿線開発と比較することで、その特徴がより鮮明になる。日本の私鉄、特に阪急電鉄の沿線開発は、小林一三の提唱した「阪急モデル」を基盤としていた。これは、鉄道敷設と同時に、都心ターミナル、郊外の行楽地、そして沿線住宅地の「三点セット」を開発し、鉄道の利用者を能動的に生み出すという戦略である。このモデルは、多くの私鉄に影響を与えたとされる。
例えば、阪急宝塚線沿線では、梅田の百貨店(阪急百貨店)を都心ターミナルとし、宝塚歌劇団や遊園地を郊外行楽地、そして池田室町などの住宅地を開発することで、成功を収めた。一方、阪急神戸線は、大阪と神戸という二大都市間を結ぶ路線であり、開業当初から官営鉄道や阪神電鉄といった競合が存在した。このような背景の中で、塚口はどのような位置づけにあったのだろうか。
阪急神戸線沿線の駅の中でも、塚口は伊丹線との接続点という特異性を持つ。これは、都市と都市を結ぶ幹線鉄道の途中に、別の地域へのアクセスを担う支線が分岐するという構造であり、単なるベッドタウン駅以上の役割を付与されたと言えるだろう。阪急が自社で開発した武庫之荘住宅地が「清潔で快適な郊外ライフスタイルの提案」を前面に出したのに対し、塚口は既存の村落と、先行する民間事業者による開発、そして伊丹への接続という複合的な要素が重なり合って形成された。
対照的に、JR塚口駅(旧国鉄福知山線)の歴史は、阪急塚口駅とは異なる時間軸で進行した。JR塚口駅は、阪急塚口駅よりも早く1894年(明治27年)に開業しているが、当初は川辺馬車鉄道の待合所から摂津鉄道の駅へと変遷し、1907年(明治40年)には国有化された。しかし、電化や複線化が進み、大阪方面へのアクセスが向上したのは昭和後期になってからである。特に1981年(昭和56年)の電化を機に、新たな交通拠点としての性格を強めた。両駅は直線距離で約800メートル離れており、地元住民からは阪急塚口を「阪塚」、JR塚口を「JR塚口」と呼び分けることもあるという。
このような対比から見えてくるのは、阪急塚口が、鉄道会社主導の「理想的な郊外」という一面を持ちつつも、複数の開発主体と、鉄道網の戦略的な配置、そして既存の地域社会の文脈が交錯することで、独自の発展を遂げてきたという点である。単一のビジョンによって作られた街ではなく、多様な力が作用し合った結果、現在の複雑な街の姿が形成されたと言えるだろう。
変貌を続ける駅前
戦後の高度経済成長期を経て、阪急塚口駅前はさらなる変貌を遂げていく。特に1970年代後半から1980年代にかけて、駅周辺の再開発が活発化した。その象徴が、1978年(昭和53年)7月に開業した「塚口さんさんタウン」である。これは尼崎市における初の第一種市街地再開発事業として実施され、駅前広場の整備と、3棟からなる商業複合施設が建設された。当時は画期的な大規模開発であり、駅前で何でも揃う施設のパイオニア的存在であったとされる。駅と商業施設がペデストリアンデッキで結ばれ、利便性の高い商業拠点として多くの市民に親しまれてきた。
しかし、その「さんさんタウン」も、築後40年を超え、施設の老朽化や時代の変化に対応する必要が生じた。2022年(令和4年)には、塚口さんさんタウン3番館の跡地に、野村不動産による再開発事業として、地上16階建ての複合施設が誕生した。低層階には商業施設「SOCOLA塚口クロス」が、高層階には分譲マンション「プラウド阪急塚口駅前」が入居し、駅前に新たなランドマークを築いている。スーパーマーケットや専門店が入居し、駅前広場も再整備されることで、居心地が良く、歩きたくなる空間づくりが進められている。
一方、JR塚口駅周辺も、近年大規模な再開発が行われている。特に森永製菓の工場跡地(約8.4ヘクタール)を活用した「ZUTTOCITY(ズットシティ)」の開発は注目に値する。2016年(平成28年)にまちびらきが行われたこのエリアには、総戸数1,200戸を超える大規模マンション群や一戸建て住宅、駅ビル「VIERRA塚口」、商業施設「ミリオンタウン塚口」、そして広大な緑地が整備された。ZUTTOCITYはスマートシティとしての特徴も持ち、街全体のエネルギー消費量が「見える化」され、節電協力に応じてポイントが付与される仕組みが導入されている。
これらの再開発は、阪急塚口とJR塚口という二つの駅が、それぞれの立地と歴史的背景に基づきながら、現代的な都市機能と居住環境を追求している姿を示している。特に阪急塚口駅周辺の再開発は、既存の商業核を更新し、より魅力的で持続可能な街づくりを目指す動きと言えるだろう。
交錯する時間軸
阪急塚口の歴史をたどると、一つの結論に収斂するのではなく、多様な時間軸が交錯する様が見えてくる。大正初期の田園地帯に鉄道が敷かれ、異なる開発主体が住宅地を形成していった経緯、そして戦後から現代に至る大規模な再開発の連続。これらは、塚口が常に変化し続けてきた街であることを示している。
阪急電鉄による沿線開発は、しばしば「理想の郊外」というイメージを伴うが、塚口の場合は、先行する民間事業者「塚口土地」の存在や、伊丹線という支線の起点としての機能が、その発展の軌跡に複雑な影を落としていた。単に鉄道会社が描いた青写真通りに進んだのではなく、複数のアクターの思惑と、既存の地理的・社会的条件が相互作用しながら、街の姿を形作っていったのである。
現代の塚口駅前に立つと、再開発によって誕生した高層の複合施設「SOCOLA塚口クロス」が目を引く。しかしその足元には、1978年(昭和53年)に開業した「塚口さんさんタウン」の、どこか懐かしい昭和の空気がまだ残っている。これは、単なる新旧の対比ではなく、街が時間を重ねる中で、過去の層が完全に消え去ることなく、新しい要素と共存している証左だろう。JR塚口駅周辺の「ZUTTOCITY」もまた、かつて工場地帯であった記憶の上に、新たなスマートシティという未来を描き出している。
塚口の歴史は、特定の誰かの意図だけで作られたものではない。鉄道というインフラがもたらした可能性、それを見出した複数の開発者の事業、そしてそこに暮らしを営んできた人々の営みが、幾層にも重なり合って現在の風景を織りなしている。街を歩くとき、現代の機能性の中に、ふと顔を出す過去の痕跡に目を向けることは、この地の多層的な時間を読み解く手がかりとなるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 塚口駅(阪急電鉄) - apediaarchives.city.amagasaki.hyogo.jp
- Web版 図説尼崎の歴史-近代編archives.city.amagasaki.hyogo.jp
- 2:鉄道の整備 ~ 塚口・尼崎 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産smtrc.jp
- fiacs.jp
- 阪急電車神戸線開通100周年の歴史 〜本山地域を含めた沿線への影響〜 | まちづくりBlogameblo.jp
- nii.ac.jpnarapu.repo.nii.ac.jp
- 次世代の沿線価値③ 沿線開発の歴史と変遷|松岡一久note.com
- 塚口 - apediaarchives.city.amagasaki.hyogo.jp