2026/5/29
天竜川はなぜ「暴れ川」と呼ばれた?地形・地質・治水の歴史を辿る

天竜川の治水の歴史について知りたい。暴れ川だったとか。
キュリオす
長野県を源流とする天竜川は、急峻な地形と脆弱な地質のため「暴れ天竜」と呼ばれてきた。江戸時代からの付け替え工事や近代的な治水事業、そして戦後のダム建設を経て、その性格は大きく変化。本記事では、天竜川の治水と水の記憶を辿る。
長野県の諏訪湖に源を発し、愛知県と静岡県を貫いて遠州灘へと注ぐ天竜川。その全長約213キロメートルの流れは、かつて「暴れ天竜」と称され、幾度となく流域に甚大な被害をもたらしてきた。多くの人々にとって、その名は治水との絶え間ない闘いの歴史と同義である。しかし、なぜこの川はそれほどまでに「暴れる」必要があったのか。地形の条件、地質、気候、そして人間の営みが、どのようにこの川の性格を形作ってきたのか。その問いを抱えて川辺に立つと、ただ荒々しいだけではない、複雑な水の記憶が地面の下に眠っているように感じられる。
天竜川が「暴れ川」としての性格を強く持つようになった背景には、日本の地形的な特徴と気候が深く関わっている。川の源流である諏訪湖は標高約759メートルに位置し、そこから遠州灘の河口まで、わずか200キロメートル余りで一気に標高差を下る。この急峻な勾配が、まず水の勢いを増幅させる要因となった。特に、フォッサマグナと呼ばれる地質的な大断層帯の西縁を流れるため、流域の地質は非常に脆い。花崗岩が風化してできた真砂土が広範に分布しており、一度大雨が降ると大量の土砂が容易に流出する。
歴史的に見ても、天竜川は数多くの洪水を記録してきた。江戸時代には、流域の広範囲で度々堤防が決壊し、農地や家屋が流される被害が頻発したという。特に江戸幕府が成立して以降、徳川家康が天竜川の治水に関心を示したことが知られている。家康は、豊臣秀吉の治水事業で名を馳せた中村一氏に命じ、天竜川の付け替え工事に着手させた。これは、現在の浜松市天竜区二俣付近で蛇行していた流路を直線化し、遠州灘への排水を促す大規模なもので、天正年間(1573-1592年)から慶長年間(1596-1615年)にかけて行われたとされる。しかし、この初期の治水事業も、川の持つ根本的な暴威を完全に抑え込むには至らなかった。
明治時代に入ると、政府は近代的な治水技術の導入を始める。天竜川においては、オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケが招かれ、1880年代に現地調査を行った。彼は、日本の河川が持つ急流と大量の土砂流出という特性を理解し、単なる堤防建設だけでなく、砂防工事の重要性を説いた。しかし、彼の提言する大規模な工事は、当時の日本の財政状況では容易に実施できるものではなかった。それでも、彼の思想は後の日本の治水事業に大きな影響を与え、天竜川においても部分的にその考え方が取り入れられていく。
大正時代から昭和初期にかけては、さらに治水への取り組みが強化された。1911年(明治44年)には河川法が制定され、天竜川も「直轄河川」に指定される。これ以降、国による一貫した治水計画が立てられるようになり、高水敷の確保や堤防の強化、そして新たな砂防施設の建設が進められた。しかし、それでもなお、1934年(昭和9年)の室戸台風や1953年(昭和28年)の台風13号など、戦中・戦後にかけてもたびたび大規模な洪水が発生し、流域の人々は常に水害の脅威に晒され続けた。
天竜川が他の河川と一線を画すほどの「暴れ川」としての性格を持つに至ったのには、主に三つの要因が複合的に絡み合っている。一つは、先述した急峻な河床勾配である。源流から河口までの標高差が大きく、かつ距離が短いため、降った雨は短時間で集まり、猛烈な勢いで流れ下る。これは、日本の多くの河川に共通する特徴ではあるが、天竜川の場合は特に顕著だ。
二つ目は、流域の地質的な脆弱性である。天竜川の流域は、中央構造線と糸魚川-静岡構造線という二つの巨大な断層帯に挟まれる位置にある。特に上流域には、もろい花崗岩が広範囲に分布し、これが風化してできた真砂土が厚く堆積している。この真砂土は保水力が低く、一度大雨が降ると土砂崩れや地すべりを引き起こしやすく、大量の土砂が川に流入する。この土砂が河床を上昇させ、さらに流れを不安定にさせる悪循環を生み出してきた。
そして三つ目は、気候変動と降雨パターンである。天竜川の流域は、太平洋側の気候区に属し、夏から秋にかけて台風や前線の影響を受けやすい。これらの気象現象は、短時間に集中的な豪雨をもたらすことが多く、土砂流出と急激な増水を同時に引き起こす。特に、山間部で大量の雨が降ると、土砂が堆積した急勾配の河川を鉄砲水のように流れ下り、下流域に到達する頃には膨大な水量と土砂を含んだ濁流となる。これらの自然条件が重なり合うことで、天竜川は単なる大河ではなく、予測不能な「暴れ川」としての顔を持つことになったのだ。
天竜川の治水が抱えてきた困難は、日本の他の主要河川が経験してきた治水の歴史と比較することで、その特異性がより明確になる。例えば、日本三大暴れ川の一つに数えられる利根川や筑後川は、広大な平野部を流れるため、古くから流路の付け替えや分水、遊水地の活用といった「水の流れを制御する」治水が中心であった。これらの川では、水をいかに平野部から安全に海へ導くか、あるいは水害時にはどこに水を一時的に貯留するかという視点が重要だった。
しかし、天竜川の場合は、急峻な山間部から一気に流れ下るため、単に「水を制御する」だけでは不十分だった。むしろ、大量の土砂が流れ出すことを防ぎ、河床の安定を図る「砂の制御」が治水の要諦となる。デ・レーケが砂防工事の重要性を説いたのもこのためであり、実際に天竜川水系では、上流域に数多くの砂防ダムや渓流保全工が建設されてきた。これは、利根川や筑後川が比較的緩やかな勾配を持つ平野部での治水が中心であったのとは対照的である。天竜川の治水は、山と川、そして土砂の複合的な問題として捉えられてきたのだ。
また、天竜川の治水は、利水、特に水力発電との結びつきが非常に強い点も特徴的である。戦後、日本の高度経済成長を支える電力需要に応えるため、天竜川水系には佐久間ダム、平岡ダム、秋葉ダムといった大規模な多目的ダムが次々と建設された。これらのダムは、治水機能と同時に、水力発電による電力供給という重要な役割を担ってきた。他の暴れ川においても利水は行われるが、天竜川のように、急峻な地形がそのまま大規模な発電ポテンシャルとなり、それが治水と一体的に計画されたケースは、その規模と密度において類を見ない。治水と利水が密接に結びつき、山間部に巨大な構造物が連なる景観は、天竜川ならではの治水の姿と言えるだろう。
現代において、天竜川はかつてのような「暴れ天竜」の姿を大きく変えている。その背景には、戦後から高度経済成長期にかけて集中的に建設された大規模なダム群の存在がある。特に、1956年(昭和31年)に完成した佐久間ダムは、堤高155メートルを誇る当時日本最大級のダムであり、その治水・利水・発電能力は、天竜川の性格を決定的に変えた。佐久間ダムを筆頭に、上流から平岡ダム、泰阜ダム、秋葉ダム、船明ダムといった複数のダムが連なることで、天竜川の水量は厳重に管理され、土砂の流出も抑制されている。
これらのダムは、洪水のピークカットを行い、下流域の洪水被害を大幅に軽減する役割を果たしている。また、ダム湖に土砂が堆積することで、河床の安定化にも寄与してきた。かつては、台風が来るたびに濁流と土砂が押し寄せた下流域も、今では比較的穏やかな流れを保っていることが多い。しかし、その一方で、ダムによる水の管理は、川本来の自然な流れや土砂の供給を変化させ、河口部の砂浜の浸食といった新たな課題も生み出している。
現在の天竜川流域では、ダムによる治水と並行して、引き続き上流域での砂防工事や、堤防の強化、河道掘削といったきめ細やかな対策が続けられている。特に、地球温暖化による異常気象が常態化する中で、過去の治水計画では想定しなかったような集中豪雨が発生することも考慮に入れ、既存の施設を最大限に活用しつつ、さらなる防災対策が模索されている。かつての「暴れ天竜」を知る世代は減りつつあるが、その記憶は、河川管理者や流域住民の間に、災害への備えとして静かに受け継がれている。
天竜川の治水の歴史をたどると、「暴れ川」という通念が、いかに人間の営みと自然環境の相互作用によって形成されてきたかが浮かび上がる。かつては手のつけようのない自然の猛威と捉えられたその姿も、現代においては、幾重にも張り巡らされたダムや砂防施設によって、そのエネルギーが制御され、利用される対象へと変化した。しかし、この「制御」は、決して完全なものではない。むしろ、自然の力を借りながら、その暴威をいかに緩和し、共存していくかという、終わりのない問いを突きつけ続けている。
天竜川の治水は、単に堤防を築き、ダムを建設する技術的な問題に留まらない。そこには、脆弱な地質、急峻な地形、そして予測不能な気象条件という、この土地固有の物理的な制約があった。そして、その制約の中で、人々がどのようにして生活の基盤を築き、守ってきたのかという、人間と自然の間の長い対話の記録が刻まれている。現代の天竜川の穏やかな流れは、過去の膨大な労力と犠牲の上に成り立っていることを示唆している。そして、その静けさの奥には、今もなお、いつ暴威を振るうかもしれない水の潜在的な力が息づいているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。