江戸時代の農書に見る、飢饉を乗り越えるための植物栽培の試行錯誤とは?

泥にまみれた文字の熱量
古い書物、それも実用を旨とした農書や図譜を開くとき、そこには単なる知識の集積を超えた、ある種の気迫が漂っているのを感じる。江戸時代の農書として名高い『農業全書』や、薩摩藩が編纂した博物図譜『成形図説』もその例外ではない。これらは、現代の私たちが「趣味の園芸」や「植物図鑑」を眺めるような悠然とした眼差しで綴られたものではない。そこにあるのは、いかにして土から一粒でも多くの糧を引き出すか、いかにして飢えという根源的な恐怖をねじ伏せるかという、生存を賭けた試行錯誤の記録である。
たとえば、元禄10年(1697年)に刊行された『農業全書』は、日本で初めて活字として出版された体系的な農書だ。著者の宮崎安貞は、福岡藩の武士という身分を捨て、40年もの歳月を土と共に過ごした人物である。彼は中国の膨大な農書を読み解きながら、同時に自らの足で西国を歩き、老農たちの経験を吸い上げ、それを日本の風土に合わせて再構築した。一方、それから約100年後に薩摩藩主・島津重豪が編ませた『成形図説』は、極彩色の挿絵を伴う百科事典的な風格を備えている。
これら二つの書物を並べて眺めると、一つの疑問が浮かび上がる。なぜ、これほどまでに執拗に植物の生態が記録され、栽培の細部が書き残される必要があったのか。単なる情報の整理であれば、これほどの熱量は必要なかったはずだ。そこには、口伝や勘に頼っていた「経験」を、誰もが再現可能な「技術」へと昇華させようとする、当時の社会が切実に求めた転換点があったのではないだろうか。
だが、書かれた内容を精査していくと、現代の科学から見れば首を傾げたくなるような記述も混ざっている。種子の雌雄を陰陽説で判別しようとしたり、まじないに近い作法が真面目に論じられていたりもする。だとすれば、彼らが求めていた「正しさ」とは一体何だったのか。その試行錯誤の跡を辿ることは、江戸時代という社会がどのように自然と対峙し、どのような論理で自らの生命線を維持しようとしたのかを探る道筋になるだろう。
宮崎安貞が目指した土地相応の農法
『農業全書』の著者、宮崎安貞の生涯は、一冊の書物にすべてを捧げた男の物語として特異な光を放っている。安芸国(現在の広島県)の藩士の子として生まれた彼は、25歳で福岡藩に仕えるが、30歳を過ぎた頃に職を辞し、現在の福岡市西区周船寺のあたりで「村居」と呼ばれる隠遁生活に入った。それから没するまでの約40年間、彼は自ら鍬を握って荒地を開墾し、同時に近畿地方などの先進的な農業地帯を巡って、農法を徹底的に観察し続けたという。
彼が手本としたのは、明代の中国で徐光啓が編纂した『農政全書』であった。しかし、安貞はそれを単に翻訳したわけではない。中国の農法がそのまま日本の湿潤な気候や複雑な地形に適合しないことを、彼は自らの肌で知っていた。安貞が目指したのは、日本の「土地相応」の農法を確立することであった。1697年に刊行されたこの全11巻の著作には、稲、麦、菜種といった主要穀物から、綿、麻、藍といった工芸作物、さらには野菜や果樹、薬草に至るまで、約150種もの植物の栽培法が網羅されている。
この書物の登場は、当時の農村社会において革命的な意味を持っていた。それまで、農業技術は特定の家系や地域で秘伝のように守られ、あるいは長年の勘として身体化されているものだった。それを安貞は、「文字」という公共の財産へと解き放ったのだ。序文を寄せたのは、福岡藩の碩学であり『大和本草』の著者としても知られる貝原益軒である。益軒とその兄・楽軒の協力があったからこそ、この膨大な知見は整理され、出版という形で全国に流布することが可能となった。
安貞が没したのは、本書が刊行されたその月であったという。彼は自らの著作が世に広まり、飢饉に苦しむ農民たちの指針となる姿を見ることなくこの世を去った。しかし、『農業全書』が示した「集約的で多肥な農業」という方向性は、その後の江戸時代の人口増加を支える技術的基盤となった。安貞が40年間の沈黙の中で土に問い続けた成果は、紙の上に定着した瞬間に、一個人の経験を超えた国家的な資産へと変貌したのである。
島津重豪が求めた救荒の図譜
『農業全書』が民間の、あるいは一介 of 農学者の執念から生まれたものだとすれば、1804年に刊行が始まった『成形図説』は、権力者の野心と危機感が生んだ結晶といえる。この書物を発案したのは、薩摩藩の第8代藩主・島津重豪である。「蘭癖大名」として知られ、シーボルトとも交流を持った彼は、藩の近代化と殖産興業を推し進めるために、膨大な編纂事業を次々と立ち上げた。その中核にあったのが、農業百科事典としての『成形図説』であった。
重豪がこの事業を命じた背景には、薩摩藩が抱えていた深刻な事情がある。火山灰土に覆われたシラス台地、頻発する台風、そして繰り返される飢饉。薩摩の地で生き延びるためには、他藩とは異なる特殊な生存戦略が必要だった。重豪は、本草学者の曾槃や国学者の白尾国柱らに命じ、農事、五穀、菜蔬(さいそ)、薬草、さらには鳥類までを含む全100巻という壮大な構想を練り上げた。実際に刊行されたのは30巻にとどまったが、その内容は驚くほど緻密で、かつ実用的である。
各植物には和名、漢名だけでなく、オランダ語名までが併記されており、情報の多層性が際立っている。これは単なる衒学趣味ではない。重豪にとって、植物は医療の源であり、交易の品であり、何より飢えを凌ぐための「富」そのものだった。特にサツマイモ(甘藷)の記述には力が入れられている。薩摩藩は琉球経由で導入されたこの作物を、単なる地方の特産品としてではなく、日本全体を救う救荒作物として位置づけようとしていた。
『成形図説』の挿絵は、当時の博物学の到達点を示す美しさを持っている。しかし、その美麗な図の裏側には、薩摩藩が各地に設置した「薬草園」での過酷な試行錯誤があった。吉野薬園、山川薬園、佐多薬園といった施設では、南方系の植物や朝鮮人参などの外来種をいかに定着させるかという実験が日々繰り返されていた。重豪は、図譜を作ることで、それらの実験結果を標準化し、統治の道具として磨き上げようとしたのだ。それは、自然を「愛でる対象」から「管理し、利用する対象」へと変えようとする、近代的で冷徹な理性の萌芽でもあった。
灰と種子に宿る生存の論理
具体的な栽培の記述に目を向けると、そこには現代の目から見ても驚くほど合理的な観察と、当時の世界観が複雑に絡み合った試行錯誤の跡が見て取れる。『農業全書』において、宮崎安貞が繰り返し強調したのは「肥料」の重要性であった。特に「灰」に対する彼の執着は凄まじい。彼は「灰がなければ、そばと大麦を播いてはならない」とまで断言している。
当時の農業において、灰は単なるカリウム源以上の意味を持っていた。安貞は、灰を麦の「肌肥」として用いることで、寒さを防ぎ、茎を強くして倒伏を防ぐ効果があることを経験的に見抜いていた。また、彼は「干鰯(ほしか)」などの購入肥料を効率的に使うための方法についても詳述している。これは、自給自足の小農経営から、市場経済と結びついた商品生産へと農業がシフトしつつあった時代の反映である。安貞は、農民が単に汗を流すだけでなく、投資と回収を計算する「経営者」であることを求めていたのだ。
一方で、種子の選び方に関しては、現代の科学とは異なる「江戸の論理」が支配している。『農業全書』やその後の農書には、種子を雌雄に区別し、より収穫の多い「雌」の種を選ぶべきだという記述が頻繁に登場する。たとえば稲の場合、穂がしなやかで節が低いものを雌とし、それを種にすることを勧めている。今日から見れば植物学的な根拠はないが、これは陰陽五行説を農業技術に適用しようとした試みであった。
しかし、この「誤り」を単なる迷信として切り捨てることはできない。重要なのは、彼らが「種子の質が収穫を左右する」という因果関係を明確に認識し、それを判別するための客観的な基準を作ろうとした事実そのものにある。たとえ基準が陰陽説であっても、それによって農民が漫然と種を蒔くのをやめ、より良い穂を選別する習慣を身につけたのであれば、それは立派な技術革新であった。
『成形図説』における試行錯誤もまた、極めて具体的である。サツマイモの栽培において、シラス台地特有の水はけの良さをどう活かすか、あるいは風害を避けるためにどのように土を盛るか。図譜に描かれた農具の形状や、畝の作り方の一本一本の線には、薩摩の厳しい自然環境を克服しようとした農民たちの知恵が凝縮されている。島津重豪が求めたのは、単なる植物のリストではなく、その土地の「負の条件」を「正の収穫」へと変換するためのマニュアルだったのである。
汎用性と在地性の対比
江戸時代の農学の展開を俯瞰すると、『農業全書』と『成形図説』は、それぞれ「汎用性」と「在地性」という異なるベクトルを代表していることがわかる。これに、幕末の農学者・大蔵永常の著作などを加えると、当時の知の地図がより鮮明に浮かび上がる。
『農業全書』は、その名の通り「全書」であることを目指した。宮崎安貞は筑前(福岡)を拠点としながらも、その記述は西日本を中心に、全国の農民が参照できる標準モデルを提示しようとしていた。これに対し、『成形図説』は徹底して薩摩という「固有の風土」に根ざしている。収録された植物の名称にオランダ語や琉球での呼称が混ざるのも、薩摩が独自の交易ルートを持ち、特異な気候条件下にあったからだ。
この対比は、当時の日本の「知の流通」のあり方を象徴している。『農業全書』がベストセラーとなり、明治時代に至るまで何度も版を重ねたのは、それが「小農経営」という全国共通のフレームワークを提供したからである。一方、薩摩藩の試みは、藩という一つの「国家」を富ませるための、極めて高度で閉鎖的なプロジェクトであった。
さらに時代を下ると、大蔵永常の『広益国産考』のような、より商業主義に特化した農書が登場する。永常は、米作一辺倒ではなく、その土地に合った「国産(特産品)」を育てることで農民が潤う道を説いた。安貞が「飢えからの脱却」を説き、重豪が「国家としての自立」を目指したのに対し、永常は「富の創出」を説いたのである。
これら一連の農書に共通するのは、それ以前の本草学が持っていた「分類と命名」の学問から、実利を追求する「農学」へのパラダイムシフトだ。貝原益軒の『大和本草』は植物を体系的に分類したが、安貞や重豪はその植物をいかに「増やすか」「加工するか」という動的なプロセスを重視した。この「プロセスへの関心」こそが、江戸時代の技術水準を押し上げ、現代の日本の農業や博物学の基礎を形作ったのである。
現代に引き継がれる土地相応の知恵
今日、私たちが『農業全書』や『成形図説』の原本を目にする機会は限られているが、それらが現代に遺した影響は、意外なほど身近な場所に息づいている。たとえば、鹿児島県立図書館や国立公文書館に保存されている『成形図説』の極彩色の版画は、単なる美術品としてではなく、当時の植生や農作業の様子を伝える一級の歴史資料として今なお研究の対象となっている。
また、薩摩藩がかつて薬草を育て、試行錯誤を繰り返した吉野薬園などの跡地は、現在は小学校や住宅地へと姿を変えているが、その段々畑の遺構や、当時導入された植物の末裔が今もその土地の風景の一部として残っている。島津重豪が夢見た「薬種の国産化」という野心は、現代の漢方薬栽培や、地域特有の在来種の保存活動へと、形を変えて引き継がれているといえる。
宮崎安貞が説いた「土地相応」という考え方も、現代の有機農業や自然栽培の文脈で再評価されている。化学肥料や農薬に頼りすぎる現代農業への反省から、江戸時代の「循環型」の知恵を学び直そうとする動きは根強い。安貞が推奨した灰肥や、丁寧な中耕・除草といった労働集約的な手法は、現代においては贅沢な「手仕事」として、むしろ付加価値の高い農産物を産むためのヒントとなっている。
しかし、これらの書物を手放しで礼賛するだけでは、当時の人々の苦闘を読み違えることになるだろう。『成形図説』が未完に終わった背景には、藩の財政難や度重なる火災、そして政争があった。宮崎安貞が40年も村居を続けなければならなかったのも、当時の社会において農学という新しい知が、いかに理解されにくいものであったかを物語っている。
彼らの試行錯誤は、決してスマートな成功物語ではない。泥にまみれ、失敗を重ね、それでもなお文字を綴り続けた、泥臭い執念の集積である。その「重さ」こそが、私たちがこれらの書物を開くときに感じる気圧の正体なのだ。
記録された生存の意志
江戸時代の植物に関する記録を辿っていくと、最後に行き着くのは「文字への信頼」という一点である。宮崎安貞も島津重豪も、自らの経験や権力を、ただその場限りのものとして終わらせることを潔しとしなかった。彼らはそれを記述し、図譜に留めることで、時間の経過や個人の死によって失われない「知」へと定着させようとした。
『農業全書』の末尾には、安貞の死後に貝原楽軒が書き加えた付録がある。そこには、安貞がいかに私財を投じて新田を拓き、地域の発展に尽くしたかが淡々と記されている。安貞にとって、農書を書くことと、実際に土を耕すことは、分かちがたく結びついた一つの行為であった。彼は言葉によって土を耕し、土によって言葉を検証したのである。
一方、『成形図説』の序文において、重豪は「民の必要物を統治者にわきまえさせる」ことの重要性を説いている。支配者が領内の植物一株一株の正体を知ることは、民の命を預かる者としての最低限の義務である、という強い自負がそこにはある。
これら二つの書物が描いたのは、植物の美しさではなく、植物を介した人間と自然の「契約」の形であった。いかにして自然の摂理に従い、同時にそれを人間の意志で制御するか。その危うい均衡点を探るために、彼らは灰の成分を観察し、種子の形を吟味し、異国の言葉を調べ上げた。
現代の私たちがスーパーマーケットに並ぶ均質な野菜を手に取るとき、その背後にある江戸時代の凄まじいまでの試行錯誤を思い出すことは稀だ。しかし、私たちが今、飢えを忘れて植物を眺めていられるのは、かつて「土地相応」の理を求めて、生涯を土と紙に捧げた人々がいたからに他ならない。書物のページをめくる指に伝わる、かつての紙の手触りと、そこに刻まれた緻密な線の集積。それは、江戸という時代が文字によって残した、生存への執念そのものである。
宮崎安貞が40年を費やして拓いた周船寺の田んぼには、今も季節が巡れば稲穂が頭を垂れる。島津重豪が命じて描かせたサツマイモの図譜は、今も鹿児島の地で育つ品種の遠い記憶を繋ぎ止めている。書物は残った。そして、その知恵によって支えられた命の連鎖もまた、途切れることなく現代へと続いている。
旅と食が好き。どこにでもいます。