なぜ練馬大根や小松菜は江戸で生まれ、日本の食卓に根付いたのか?

皿の上に並ぶ「外来種」の系譜から
和食という言葉から私たちが連想する風景は、どこか時代を超越した普遍性を持っているように見える。煮物に添えられた大根、薬味のネギ、あるいは漬物のカブ。それらはあまりに日本の風景に馴染んでいるため、あたかもこの列島の土壌から太古より自然発生したかのような錯覚を抱かせる。だが、植物学的な視点からその顔ぶれを眺め直すと、事態は一変する。私たちが「日本の野菜」と信じて疑わないもののほとんどは、実は数千年から数百年の時間をかけて海を渡ってきた、旅人たちの末裔なのだ。
日本列島に自生していた「純粋な在来種」を数え上げれば、セリ、ミツバ、ウド、フキ、ミョウガ、ワサビといった、現代では主役というよりは香りを添える脇役に甘んじている山菜類にほぼ限定される。食卓の主軸をなす根菜や葉菜の多くは、かつて大陸や南方から、あるいは大航海時代の荒波を越えてこの地に辿り着いた。私たちは、長い年月をかけてそれらを「日本的なもの」へと作り替えてきたに過ぎない。
例えば、冬の食卓に欠かせない大根は地中海沿岸が原産であり、カブはアフガニスタンやヨーロッパを起源とする。それらがいつ、どのような経路でこの列島の土に根を下ろしたのか。そしてなぜ、これほどまでに多様な「地域の色」を帯びるに至ったのか。和食のアイデンティティを支える野菜の歴史を紐解くと、そこには単なる栽培の記録を超えた、日本人の移動と都市形成、そして「食」に対する異常なまでの執着が見えてくる。では、私たちが当たり前のように享受しているこの多様性は、一体どこで、どのようにして形作られたのだろうか。
縄文の瓢箪から飛鳥の菜園まで
日本における野菜栽培の端緒は、かつて信じられていた弥生時代の稲作伝来よりもはるかに古いことが、近年の考古学的調査によって明らかになっている。縄文時代の遺跡からは、ヒョウタンやユウガオ、マクワウリ、そしてアズキやダイズなどの種子が検出されている。当時のヒョウタンは食用というよりは容器としての実用性が重視されていたようだが、植物を管理し、種を保存するという「農」の営みは、土器の誕生とほぼ並行して始まっていた。
本格的な野菜の渡来が加速するのは、大陸との交流が活発化する弥生時代から古墳時代にかけてである。この時期、稲作技術とともに、大根、カブ、ネギ、ナス、ショウガ、ニンニクといった、現代の和食の基礎となる顔ぶれが続々と上陸した。特に大根やネギの歴史は古く、8世紀に編纂された『日本書紀』には、持統天皇がカブ(当時は「あをな」や「すずな」と呼ばれた)の栽培を奨励したという記述が残っている。奈良時代の平城京跡から出土した木簡には、ナスやキュウリを献上した記録があり、当時の貴族階級がこれらの「新顔」を珍重していた様子が窺える。
中世に入ると、仏教の普及による肉食の忌避が、野菜の地位を決定的に押し上げた。精進料理の発展は、単なる栄養補給の手段だった野菜を、調理技術と結びついた文化へと昇華させたのである。平安時代にはゴボウやラッキョウが薬用を兼ねて中国から伝わったが、ゴボウをこれほどまでに執拗に品種改良し、日常的に食用とする文化を築いたのは、世界でも日本だけと言われている。
しかし、この時期までの野菜は、あくまで限られた地域や階層の食べ物であった。種子は貴重であり、栽培技術も秘伝に近い。各地の土壌に適応し、私たちが知る「地方野菜」としての個性を獲得するには、もう一つの大きな社会変動を待つ必要があった。それは、戦国時代の終焉と、江戸という巨大な消費都市の誕生である。
参勤交代がもたらした種の「グローバリゼーション」
17世紀、徳川幕府が江戸に開かれると、この地は瞬く間に人口100万人を超える世界最大の都市へと膨れ上がった。この巨大な胃袋を満たすために、江戸周辺の農村は空前の野菜増産体制に入ることになる。ここで重要な役割を果たしたのが、皮肉にも大名を統制するための制度であった「参勤交代」である。
地方から江戸にやってくる大名たちは、国元の食文化を維持するために、あるいは江戸の屋敷での自給自足のために、故郷から野菜の種を持ち込んだ。それらの種は江戸の武家屋敷の菜園に植えられ、やがて周辺の農家へと流出していく。例えば、尾張から持ち込まれた大根の種は、練馬の土壌と出会うことで、あの長く巨大な「練馬大根」へと進化した。また、摂津の農民が江戸に移住した際に持ち込んだ青菜は、江戸川沿いの小松川付近で定着し、徳川吉宗によって「小松菜」と命名されたという伝承を生んだ。
江戸という場所は、全国から集まった種が交雑し、選別され、再定義される巨大な実験場であった。当時の農民たちは、現代のバイオテクノロジーにも通じる驚くべき観察眼と熱意で、品種改良に励んだ。彼らが目指したのは、単なる収穫量の増大ではない。江戸っ子の「初物好き」に応えるための促成栽培や、都市生活の狭小な台所でも扱いやすい形状、そして何より、漬物にした際の保存性と食感である。
この時代の種子の流通を支えたのは、巣鴨付近に軒を連ねた「種屋」たちであった。彼らは街道を行き交う旅人に種を売り、それが再び地方へと持ち帰られることで、江戸で磨かれた品種が全国へと拡散していった。参勤交代という政治的仕組みが、結果として日本列島規模での遺伝資源の交換を促すインフラとして機能したのである。江戸時代の農書『農業全書』や、薩摩藩が編纂した博物図譜『成形図説』には、こうした試行錯誤の末に定着した多種多様な作物の姿が、克明に記録されている。
明治の開拓使と「西洋野菜」の衝突
江戸時代までに完成された日本の野菜体系は、明治維新とともに再び激震に見舞われる。新政府が推し進めた「文明開化」の波は、皿の上にも押し寄せた。肉食の解禁とともに、西洋料理に欠かせないキャベツ、タマネギ、アスパラガス、トマトといった「西洋野菜」の導入が国策として進められたのである。
1871年、北海道開拓使はアメリカから大量の種子と苗を輸入し、札幌や東京の官園で試作を開始した。当時の日本人にとって、これらの新顔は未知の怪物に近い存在であった。例えばトマトは、江戸時代にオランダ人によって持ち込まれた際は「唐柿」と呼ばれ、専ら観賞用の毒々しい果実として扱われていた。明治に入ってもその独特の青臭さと酸味は敬遠され、一般の食卓に上るまでには、ケチャップという加工品としての普及を待たねばならなかった。
この明治期の野菜導入を、16世紀にヨーロッパを襲った「コロンブスの交換」と比較してみると、興味深い構造が見えてくる。ジャガイモやトマトが南米からヨーロッパに伝わった際、それらが「悪魔の植物」として忌避され、定着するまでに100年以上の歳月を要したのと同様、日本の西洋野菜もまた、既存の味覚の壁に突き当たった。しかし、日本における定着のプロセスは、ヨーロッパのそれよりもはるかに計画的で強引であった。
政府は内藤新宿試験場(現在の新宿御苑)や三田育種場を拠点に、西洋野菜の栽培法を全国の府県に指示し、種を配布した。キャベツは当初、加熱調理して食べる「甘藍」として紹介されたが、日露戦争後に帰還した兵士たちが、洋食屋で提供された「千切りキャベツ」の味を広めたことで、ようやく大衆の支持を得た。タマネギは、北海道の気候が原産地の中央アジアに似ていたことから、札幌周辺で急速に産地化が進んだ。私たちが今日、カレーや肉じゃがの具材として当たり前のように使っている野菜の組み合わせは、実は明治政府による「食の近代化」という実験の結果、わずか150年ほど前に成立した極めて新しい風景なのである。
スーパーマーケットが求めた「均一」という正義
戦後、日本の野菜を巡る環境は、それまでの歴史上のどの転換点よりも劇的な変化を遂げた。その主役は、1950年代以降に急速に普及した「F1種(一代交配種)」と呼ばれるハイブリッド種である。
それまでの野菜は、農家が毎年自分の畑で育ちの良い個体から種を採り、翌年に繋ぐ「固定種」や「在来種」が主流であった。これらは地域の気候に最適化されている反面、形や大きさが不揃いで、収穫時期もバラバラになるという、流通上の弱点を持っていた。高度経済成長期、都市部への急激な人口流入が始まると、食料の安定供給と大量流通が至上命題となった。そこで求められたのは、トラックの荷台に積まれる段ボール箱にピタリと収まるサイズ、病気に強く、一斉に収穫できる効率性であった。
F1種は、異なる性質を持つ親を掛け合わせることで、1代目だけが両親の優れた形質を強く発揮する「雑種強勢」の原理を利用している。この技術により、野菜は驚くべき均一性を手に入れた。スーパーの棚に並ぶ、一点の曇りもないキュウリや、寸分違わぬ大きさの大根は、この効率化の結晶である。しかし、その代償として、江戸時代から各地で育まれてきた多様な地域野菜は、市場から急速に姿を消していった。
1970年代から80年代にかけて、全国の市場は「青首大根」一色に染まった。かつては練馬大根のような白首大根が主流だったが、青首は土から抜くのが容易で、甘みが強く、消費者の好みに合致したためである。現在、日本の市場に流通する野菜の9割以上がF1種と言われている。私たちは、季節や地域を問わず安価で美しい野菜を手に入れられるようになった代わりに、かつて各集落の裏山や畑で密かに守られてきた「苦味」や「えぐみ」、そして個性的すぎる「形状」を失うことになった。
選択の集積としての「日本野菜」
野菜の歴史を辿る旅は、結局のところ、日本人がその時々の社会の要請に合わせて、何を「良し」として選んできたかという選択の記録に他ならない。縄文人がヒョウタンに水を入れた日から、江戸の農民が練馬の土を耕した日、そして明治の官僚が西洋の種を配った日まで、この列島の野菜は常に「外からの力」を受け入れ、それを独自の形へと歪め、あるいは昇華させることで生き延びてきた。
私たちが「伝統野菜」と呼ぶものの多くも、実は江戸や明治という特定の時代における「当時の最新技術」の産物であった。それを「変わらない伝統」として神格化するのは、おそらく歴史を見誤ることになる。むしろ、絶え間なく変化し、外来のものを取り込み、自らの血肉としてきたその「適応のプロセス」こそが、日本の食文化の本質と言えるのではないか。
近年、F1種一辺倒の揺り戻しとして、各地で江戸東京野菜や京野菜の復活を目指す動きが盛んになっている。それは単なるノスタルジーではない。均一化された味覚に飽きた現代人が、かつての農民たちが執念深く選び抜いた「個性の記憶」を再び求めている証左だろう。
野菜の品種名や年号を並べ立てるだけでは見えてこないものがある。それは、土に埋もれた種の一粒一粒が、実は大陸の戦乱や、幕府の政策、あるいは都市の欲望と地続きであったという事実だ。今、目の前にある皿の上の大根が、かつてシルクロードを越え、江戸の種屋の手を経て、さらに昭和の品種改良の荒波を潜り抜けてきた旅人であることに思いを馳せるとき、和食という風景は、より多層的で、静かな熱を帯びたものとして立ち上がってくる。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 「江戸東京野菜」の企業家精神 – NPO法人 国際環境経済研究所|International Environment and Economy Instituteieei.or.jp
- 【伝統野菜について】伝統野菜の定義と日本の野菜の変遷 – 【日本伝統野菜推進協会】伝統野菜を後世に残すためのPR活動tradveggie.or.jp
- 日本人と食、農業の歴史|大林組の広報誌「季刊大林」obayashi.co.jp
- 江戸東京野菜のイノベーション | キヤノングローバル戦略研究所cigs.canon
- お知らせ詳細 | 奥村商事株式会社 | 肥料販売を礎に農業の多角的経営を支援します。okumurashoji.co.jp
- 野菜の種子のほとんどが海外で生産されるわけ ~タネの国内自給率を高めることはできるのか~tradveggie.or.jp