2026/6/27
伊賀上野城、なぜ高虎の五層天守は未完に終わったのか

伊賀の上野城について詳しく知りたい。高虎築城のはずだ。
キュリオす
藤堂高虎が築いた伊賀上野城の高石垣は、約30メートルという驚異的な高さを誇る。しかし、計画された五層の天守は暴風雨で倒壊し、未完のままとなった。その背景には、時代の転換点と築城家の哲学があった。
高石垣が語る、未完の城の意志
伊賀上野城の堀端に立つと、まず目に飛び込むのは、垂直に近い角度でそそり立つ巨大な石垣である。その高さは約30メートルに及び、見上げる者の視線を圧倒する。この壮麗な石の壁こそが、この城の真髄であり、築城の名手と謳われた藤堂高虎の刻んだ意志の痕跡に他ならない。しかし、現在の天守は昭和の再建であり、高虎が構想した五層の天守は完成を見ることなく幻と消えた。なぜこの地に、これほどまでの堅固な石垣が築かれながら、その象徴である天守は未完に終わったのか。その問いは、戦国から江戸へと移りゆく時代の大きな転換点と、一人の武将の築城哲学を映し出す。
豊臣の備えから徳川の牙城へ
伊賀上野の地が城郭としての歴史を刻み始めるのは、豊臣秀吉の命を受けた筒井定次が天正13年(1585年)に築城に着手したことに始まる。この時の上野城は、伊賀一国と伊勢の一部を領する筒井氏の本拠として、三層の天守を備えていたという。定次による城は、豊臣政権下において、東からの脅威に備える役割を担っていたとされている。しかし、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下の実権を握ると、状況は一変する。慶長13年(1608年)、定次は失政を理由に改易され、その領地は没収された。背景には、豊臣秀頼が拠る大坂城に近い伊賀に、豊臣恩顧の大名が留まることを徳川家康が警戒したという見方がある。
代わって伊賀の領主となったのが、藤堂高虎である。高虎は、関ヶ原の戦いで徳川方として功績を挙げ、家康からの信任が厚かった。慶長13年(1608年)に伊予今治から伊賀・伊勢へ転封となり、22万石を与えられた高虎に、家康は新たな城の築城を命じたのだ。その目的は明確であった。大坂城に依然として残る豊臣勢力への備え、すなわち大坂攻めの前線基地としての役割を伊賀上野城に持たせることであった。家康自身、本能寺の変後の「伊賀越え」で九死に一生を得た経験があり、この地の軍事的重要性は深く認識していたとされる。
高虎は、筒井定次が築いた城郭を大規模に改修する。その計画は、従来の城域を約三倍に拡張し、豊臣方に対峙する西側に特に堅固な防御を施すものであった。伊賀上野城は、家康が求めた「戦う城」としての機能性を追求した、合理的で機能的な城郭へと生まれ変わることになる。
築城の妙手、高虎の設計
藤堂高虎による伊賀上野城の改修は、慶長16年(1611年)に本格的に始まった。高虎は、本丸を西に拡張し、その象徴として高さ約30メートルにも及ぶ壮大な高石垣を築き上げた。この石垣は、根石から天端まで29.7メートルという、当時の日本において大坂城と並ぶ屈指の高さを誇った。 特に西側へ向けて高く積まれたのは、大坂からの豊臣軍の侵攻を想定した防御上の要衝であったことを物語る。
高石垣の築造には、「打込はぎ」という石積み技法が用いられた。これは、自然の石をある程度加工して平らにし、隙間なく積み上げていく方法で、より頑丈で美しい石垣を築くことを可能にした。 ただ高く積むだけでなく、石垣の裏側に大量の裏込石を詰め込み、土圧を分散させるなど、高度な土木技術が駆使されていたことが窺える。
高虎はまた、五層の天守閣の建造も計画していた。 彼の築城術は、それまでの天守に主流だった「望楼型天守」に代わり、各階を積み重ねるように構成する「層塔型天守」を考案・発展させたことで知られる。層塔型天守は、構造的な安定性が高く、工期の短縮や合理的な内部空間の確保に優れており、高虎の機能性を重視する姿勢をよく表している。
しかし、高虎が構想した五層の天守は、完成を目前にした慶長17年(1612年)9月2日、当地を襲った大暴風雨によって倒壊してしまう。 この災害は、築城工事に大きな打撃を与え、多くの死傷者を出したと伝えられている。その後、天守が再建されることはなかった。大坂の陣で徳川方が勝利し、豊臣家が滅亡したことで、伊賀上野城の軍事的役割が大きく低下したためである。幕府はその後、諸大名に新たな城の築城や大規模な改修を禁じる「一国一城令」を発布したことも、再建されなかった一因とされる。
守りの思想と未完の要塞
伊賀上野城の築城に見られる藤堂高虎の思想は、同時代の他の著名な城郭と比較することで、その独自性がより明確になる。例えば、加藤清正が築いた熊本城や、徳川家康が天下普請で築かせた名古屋城などは、いずれも壮麗な天守と堅固な防御を兼ね備えていた。しかし、高虎の築城は「勝つ城」というよりも、「負けない城」、すなわち「不敗」の構造を徹底的に追求する点に特徴があったと言われる。
高虎は、黒田官兵衛、加藤清正と並び「築城三名人」の一人に数えられるが、その築城哲学は、武力による勝利よりも防御による不敗を重視する『孫子』の兵法に通じるものがあったとされる。 伊賀上野城の約30メートルに及ぶ高石垣は、その思想を具現化したものであった。敵が容易に近づけない距離と、登攀を阻む圧倒的な高さは、攻め手にとって戦意を喪失させる効果を狙ったものだろう。他の城郭にも高石垣は存在するが、伊賀上野城のように特定の方面、すなわち大坂方面に向けてこれほどまでに集中的に防御力を高めた例は珍しい。
また、高虎が考案した層塔型天守も、合理的かつ効率的な築城術の一環であった。望楼型天守が装飾性を重視し、構造的な不安定さを抱えがちであったのに対し、層塔型は規格化された部材で積み上げていくため、工期を短縮し、少ないコストで堅固な天守を築くことが可能だった。 これは、天下普請と呼ばれる大規模な築城事業が各地で行われた時代において、実用性と効率性を兼ね備えた画期的な技術であったと言える。
伊賀上野城の天守が完成しなかったという事実は、高虎の築城が、単なる建築物としてではなく、当時の政治情勢に深く根ざした軍事戦略の一環であったことを示している。大坂の豊臣家が滅び、天下が安定に向かうと、その存在意義は薄れ、未完のまま工事は中止された。もし大坂の陣が長引いていれば、あるいは徳川と豊臣の対立がさらに激化していれば、伊賀上野城の五層天守は完成し、日本の城郭史に新たな姿を刻んでいたかもしれない。しかし、未完のまま残された高石垣は、かえってその戦略的な意図と、激動の時代における城の役割の変遷を雄弁に物語っている。
白鳳城と高石垣が織りなす現代
現在の伊賀上野城の天守は、昭和10年(1935年)に地元の代議士であった川崎克が私財を投じて再建した木造三層の「模擬天守」である。 その白く美しい姿から「白鳳城」の別名で親しまれているが、これは高虎が計画した五層の天守とは規模も構造も異なる。しかし、この模擬天守が、往時の城下町の風景に溶け込み、伊賀のシンボルとして定着しているのもまた事実である。天守内部には、藤堂家ゆかりの品々や、横山大観をはじめとする著名人の色紙が飾られ、最上階からは伊賀の城下町を一望できる。
この城の真の遺産は、その模擬天守ではなく、藤堂高虎が築いた約30メートルの高石垣そのものにある。 この石垣は、黒澤明監督の映画『影武者』のロケ地にもなるなど、その圧倒的な存在感は多くの人々を惹きつけてきた。 高石垣の足元に広がる内堀は、かつての堅牢な防御線を今に伝える。
伊賀上野の町は、城郭を中心として発展した城下町の面影を今も色濃く残している。武家屋敷や寺町通りなど、歴史的な景観が随所にみられる。 また、伊賀は「忍者の里」としても知られ、城の敷地内には伊賀流忍者博物館も併設されており、城と忍者という二つの歴史的要素が観光客を惹きつける。 多くの観光客が忍者体験を目当てに訪れる一方で、中高年層を中心に歴史探訪を目的とする人々も多いという。
高石垣と再建天守が織りなす伊賀上野城の姿は、歴史の断絶と継承、そして観光という現代的な役割を同時に担っている。高虎が築いた強固な防御施設は、時代が移り変わってもその存在感を失わず、現代においても伊賀の地を象徴する風景の一部となっているのだ。
高虎が遺した「不敗」の風景
伊賀上野城を巡る旅は、藤堂高虎という築城の天才が、いかにして時代の要請に応え、その技術と思想を結実させたかを探る旅でもある。高虎がこの地に築いたのは、単なる防御施設ではなかった。それは、徳川家康の天下統一を盤石にするための、強固な意志の表現であり、豊臣家という潜在的な脅威に対する明確な「不敗」の宣言でもあった。
しかし、その宣言の象徴たる五層の天守は、完成を待たずに暴風に倒れ、その後再建されることはなかった。この未完の歴史は、城郭が単なる建築物ではなく、当時の政治情勢や軍事戦略と密接に結びついていたことを示唆する。大坂の陣で豊臣家が滅び、天下が安定に向かうと、伊賀上野城の持つ軍事的意味合いは急速に薄れた。高虎が心血を注いだ防御の思想は、その目的が達成されたことで、ある意味でその役割を終えたのである。
現代の伊賀上野城は、往時の威容を伝える高石垣と、後世の願いによって再建された模擬天守が共存している。この対比こそが、この城の持つ奥行きではないか。目の前に広がる高石垣は、戦乱の世に生きた人々の切実な危機感と、それを乗り越えようとした築城家の執念を今に伝える。そして、その石垣の上に立つ白亜の天守は、平和な時代が訪れた後も、人々が歴史と美を求め続けた足跡を示す。伊賀上野城は、完成した姿ではなく、その歴史の過程と、残された遺構が語る物語によって、見る者に静かな問いを投げかけている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。