2026/6/26
伊勢志摩の歴史:神宮と海女、真珠養殖が織りなす共存の物語

伊勢志摩の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
伊勢志摩の歴史は、天照大御神を祀る伊勢神宮の創建から始まる。豊かな海産物を朝廷に献上する「御食つ国」としての役割や、伝統的な海女漁、そして近代の真珠養殖が、この地の独自の文化と産業を形成してきた。
神の森と海の幸が育んだ古代
伊勢志摩の歴史は、遥か一万年以上前の旧石器・縄文時代にまで遡る。鳥羽市浦村の白浜遺跡からは約三千年前のアワビの貝殻や鹿角製のアワビ起こしが見つかっており、この頃から人々が海の恵みを生活の糧としていたことがうかがえる。 伊勢志摩が日本史の表舞台に登場するのは、皇室の祖神である天照大御神を祀る「伊勢神宮」がこの地に鎮座したことに始まる。元々、天照大御神は宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇の時代に疫病が流行した際、皇居外に祀られることになったという。その後、第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が、約90年かけて理想の鎮座地を求め、五十鈴川上流にたどり着いた。天照大御神がこの地を気に入り、「磯宮」を建てたのが内宮の起源とされる。さらに約500年後、第21代雄略天皇の夢のお告げにより、丹波国から食物を司る豊受大御神が招かれ、内宮の近くに外宮が創建されたのだ。
この神宮の成立は、伊勢志摩の土地に決定的な性格を与えた。神宮は国家の祭祀を司る聖域であり、当初は天皇のみが幣(みてぐら)を供え祈ることが許され、「私幣禁断」として貴族でさえ私的な参拝は禁じられていた。また、未婚の皇女が天皇に代わって奉仕する斎王制度は約660年間続き、伊勢の斎宮(さいくう)寮は百棟を超える大規模な官庁であったという。 律令制下では、現在の鳥羽市と志摩市にあたる地域に「志摩国」が置かれた。平地が少なく米の収穫量が乏しかった志摩国は、代わりに豊かな海産物を朝廷に献上する「御食つ国(みけつくに)」としての役割を担った。平城宮跡から出土した木簡には、志摩国からアワビや海松(みる)、ナマコ、海藻などが貢租されていた記録が残る。『万葉集』には、志摩の海女が小舟で沖へ漕ぎ出す様子が詠まれており、「御食つ国」が志摩の枕詞となるほど、海女漁は古くからこの地の象徴であった。
神域と海人たちの共存
伊勢神宮は、その創建以来、国家的な祭祀の中心であり続けた。天武天皇が定めた式年遷宮の制度は、持統天皇4年(690年)に第1回が執り行われて以降、20年ごとに社殿や調度品を新調し、神社の建築様式や祭祀文化を後世に伝える役割を果たしてきた。これは、大陸文化が流入する時代にあって、日本固有の伝統文化を継承する重要な仕組みであったと言える。神宮の広大な宮域林は、神域として伐採が禁じられたため、多様な動植物が生息する学術的にも貴重な天然林として保護されてきたのだ。
一方、志摩の海では、古来より海女(あま)たちが素潜り漁を続けてきた。縄文・弥生時代の貝塚からもアワビの貝殻や鹿の角を加工した道具が出土しており、その歴史の深さがうかがえる。海女漁は酸素ボンベなどを使用せず、自分の息だけでアワビやサザエ、ウニ、海藻などを獲る伝統的な漁法である。鳥羽市国崎町の海女が獲る「熨斗鮑(のしあわび)」は、伊勢神宮に古くから御神饌として献上されてきた。これは、神の聖域である神宮と、海の恵みを生業とする海人たちの暮らしが、歴史的に深く結びついていたことを示す好例だろう。海女たちは、小さなアワビは獲らない、潜る日数を制限するなど、資源を守りながら漁を続ける「持続可能な漁業」の知恵を代々受け継いできたのだ。
中世に入ると、伊勢神宮の広大な神領は多気郡、度会郡、飯野郡に及び、「神三郡」と呼ばれた。神宮の祭主は神領を治める上で権限を強めていく。また、神宮の御厨(みくりや)と呼ばれる荘園が各地に置かれ、そこからも神宮への税が納められた。志摩国では、鎌倉時代末には金沢氏が守護となり、室町時代には伊勢・志摩両国の守護を兼任した。戦国時代には、鳥羽を拠点とした九鬼水軍の総帥、九鬼嘉隆が織田信長に仕え、鉄甲船を用いて数々の戦功を挙げたことでも知られる。この頃、志摩国は現在の鳥羽市・志摩市に限定され、その領域が定まったとされる。
養殖真珠が拓いた新しい海
伊勢志摩の海が新たな歴史を刻むのは、近代に入ってからである。19世紀後半、天然真珠の乱獲により資源が枯渇の危機に瀕していた。この状況に危機感を抱いた鳥羽出身の商人、御木本幸吉は、真珠の養殖を志す。 1890年(明治23年)、御木本幸吉は東京大学の箕作佳吉教授と出会い、その支援のもと、伊勢志摩の地で真珠養殖の研究を始める。試行錯誤を繰り返し、1893年(明治26年)7月11日、鳥羽の相島(おじま)で半円真珠の養殖に成功した。さらに、箕作教授の弟子の西川藤吉が、貝殻を生成する細胞の一部を移植して真円真珠を作る養殖方法を発明し、世界で初めて真円真珠の養殖技術が確立されたのは伊勢志摩の地であった。御木本幸吉は真珠の養殖技術を確立するだけでなく、加工から販売までを一貫して手がけ、「ミキモト」ブランドを世界に広めていく。
この真珠養殖の成功は、伊勢志摩の経済と社会に大きな変革をもたらした。それまで漁業に依存していた地域に、新たな産業が生まれ、多くの雇用を生み出したのだ。養殖真珠は、天然真珠と比較して大きさや形、そして統一感において優位性があり、特にアール・デコ時代には首飾りの素材として高く評価された。 御木本幸吉は、真珠産業の発展に尽力する傍ら、故郷伊勢志摩の景観保護にも強い関心を持っていたという。彼は「日本中を公園にしたい」という願いを抱き、国立公園設置を目指して陳情活動も行った。この彼の願いは、戦後、伊勢志摩国立公園の指定として実現することになる。真珠養殖は、単なる産業革命に留まらず、地域の自然環境への意識を高め、後の観光開発にも影響を与えたと言えるだろう。
他地域との対比に見る伊勢志摩の独自性
伊勢志摩の歴史を他の地域と比較すると、その独自性がより鮮明になる。例えば、奈良の東大寺や京都の清水寺といった仏教寺院が、庶民の信仰を集め、門前町を形成していったのに対し、伊勢神宮は明治維新まで「私幣禁断」という原則を維持し、天皇や皇室のための聖域という性格が強かった。庶民の「お伊勢参り」が盛んになるのは江戸時代以降であり、それも御師(おし)と呼ばれる神職が全国に神札を配り、参拝客を誘致する独自のシステムによって支えられていた。このような神宮と地域社会の関係性は、他の宗教都市とは異なる発展を遂げた一因と言えるだろう。
また、海女文化においても伊勢志摩は特異な位置を占める。日本各地に海女の文化は存在するが、鳥羽市と志摩市には全国の海女の約半数にあたる500人以上が今も活動しており、その密度は他に類を見ない。これは、志摩半島の複雑なリアス式海岸が豊かな漁場を提供し、伊勢湾の海水と黒潮が混じり合うことで多様な海産物が育まれてきた地理的条件が大きい。さらに、伊勢神宮への御神饌(ごしんせん)としてアワビを献上する伝統が、海女の技術と文化を途絶えることなく継承させてきた背景にあると考えられる。他の地域では観光化や高齢化、資源減少によって海女の数が減少する中で、伊勢志摩では海女小屋体験などの取り組みを通じて文化の継承と観光を結びつけようとする動きも見られる。
近代の産業発展においても、伊勢志摩の真珠養殖は画期的な事例であった。例えば、九州の有田焼や信楽焼といった伝統工芸品が、古くからの技術と素材を基盤に発展したのに対し、真珠養殖は、天然資源の枯渇という危機を乗り越えるために、科学的な研究と技術革新によって生み出された新しい産業だった。これは、自然の恵みをただ享受するだけでなく、人間が能動的に自然と関わり、新たな価値を創造していくという点で、他の伝統産業とは一線を画す。御木本幸吉が「日本中を公園にしたい」と語ったように、単なる経済的利益に留まらない、地域の自然と文化を一体として捉える視点が、伊勢志摩の近代化を特徴づけているのだ。
現代に息づく神と海の風景
第二次世界大戦後、伊勢志摩は新たな局面を迎える。1946年(昭和21年)11月、伊勢神宮とその宮域林、そして志摩地方のリアス式海岸を含む一帯が、戦後初の国立公園として「伊勢志摩国立公園」に指定された。これは、戦後の復興期において、伊勢神宮の保護と志摩の豊かな自然環境を守ろうとする人々の思いが結実したものであった。 明治維新以降、国家の宗教として位置づけられた伊勢神宮は、戦後に宗教法人となるという大きな変革を経験する。しかし、全国の奉賛会の支援によって、昭和28年、昭和48年、平成5年(1953年、1973年、1993年)と、古式に則った式年遷宮が続けられてきた。2033年には第63回式年遷宮が控えており、これに向けた観光客の増加も期待されている。
現代の伊勢志摩は、年間600万人を超える参拝客が訪れる伊勢神宮を中心に、真珠養殖、そして海女文化といった多様な魅力を擁する観光地となっている。英虞湾に浮かぶ賢島は、2016年にG7伊勢志摩サミットの会場となり、その風光明媚な景観が世界に発信された。 しかし、この豊かな歴史と文化を持つ地域も、現代的な課題に直面している。海女の高齢化や後継者不足、水産資源の減少は深刻な問題であり、海女文化のユネスコ世界無形文化遺産登録を目指す活動や、資源管理の取り組みが進められている。また、伊勢市では宿泊施設の不足や滞在時間の短さが課題とされており、高付加価値旅行者の誘致や広域観光連携による周遊促進が模索されている状況だ。伊勢志摩は、古くからの精神文化と、海が育んだ産業、そしてそれらを包み込む国立公園という稀有な価値を、現代においていかに継承し、発展させていくかという問いに直面している。
神域と人の営みが織りなす時間
伊勢志摩の歴史を辿ると、ある種の「共存」の姿が見えてくる。それは、神の聖域としての伊勢神宮が、人々の信仰と畏敬の念によってその自然環境を守り、同時に海人たちの生活を支える恵みをもたらしてきたことだ。神宮の森は禁伐によって守られ、海女たちは資源を獲りすぎない知恵を継承してきた。この二つの営みは、互いに独立しながらも、この土地の持続可能性を支える基盤となってきたと言えるだろう。
真珠養殖の歴史もまた、自然との新たな共存の形を示している。天然資源の枯渇という危機に対し、人間が科学と技術をもって介入し、新たな産業を創出した。これは、自然を一方的に消費するのではなく、その仕組みを理解し、手を加えることで持続的な恵みを生み出す試みであった。御木本幸吉が伊勢志摩の景観保護に心を砕いたのも、単なる事業家としての視点に留まらず、この土地の持つ本質的な価値を理解していたからではないだろうか。
伊勢志摩は、単に古い歴史を持つ場所というだけではない。太古から続く神への信仰、厳しい自然と向き合ってきた海人たちの知恵、そして近代に生まれた革新的な産業が、それぞれの時間を持ちながら、この土地の風景の中に重なり合って存在している。それらの要素が複雑に絡み合い、現代に至るまで途切れることなく続いてきた点が、この地の真骨頂なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 伊勢志摩の歴史、地域性|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベースmlit.go.jp
- 伊勢志摩の歴史、地域性(要約)|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベースmlit.go.jp
- 海女文化研究|鳥羽市立 海の博物館 TOBA SEA-FOLK MUSEUM ~漁村と海女文化を伝える~umihaku.com
- 伊勢神宮の始まり|伊勢の観光タクシーは、野呂タクシーへnoro-taxi.com
- 伊勢神宮のルーツを古事記からひも解く伊勢神宮入門 – 1 | Discover Japan | ディスカバー・ジャパンdiscoverjapan-web.com
- 伊勢の歴史を巡る旅 | 人生に、伊勢志摩を | 伊勢志摩観光ナビ - 伊勢志摩観光コンベンション機構公式サイトiseshima-kanko.jp
- 歴史を知ろうise-cci.or.jp
- 146 伊勢神宮と志摩国一宮 - 理系脳で紐解く日本の古代史shigesai.net