2026/6/2
水戸街道の宿場町・取手、利根川と交差した歴史

取手は水戸街道の宿場町だが、どういう歴史のある街なのか?詳しく知りたい。
キュリオす
水戸街道の宿場町として栄えた取手。その発展は、利根川の流路変更と水運、そして水戸徳川家の特殊な事情が深く関わっています。本陣や渡し船の遺産から、陸と水が交差した宿場町の歴史をたどります。
茨城県南部の取手市、常磐線の電車が利根川を渡ってすぐの場所に、かつて水戸街道の宿場町として栄えた一帯がある。利根川の雄大な流れを間近に感じながら、駅前から続く緩やかな坂道を上ると、かつての街道筋の痕跡が点在する。現代の都市風景の中に埋もれがちだが、この地には「取手」という地名が示す「砦」の記憶と、水戸街道という幹線道路、そして利根川という水路が交差する、独自の歴史が刻まれてきた。なぜこの地が宿場町として発展し、どのような役割を担ってきたのか。その問いは、利根川の流路変更や、江戸時代の交通政策、そして水戸徳川家の特殊な事情へと繋がっていく。
水戸街道は、江戸側の千住宿を起点とし、松戸宿を経て水戸藩の城下町である水戸へと至る、約116キロメートルの幹線道路である。江戸幕府によって五街道に準ずる「脇街道」の一つと位置づけられ、道中奉行の管轄下に置かれていた。本来、街道はその行き先の名称を冠したため、水戸側からは「江戸街道」とも呼ばれたという。
その原型は古く、805年には武蔵国から下総国府を経て常陸国府に向かう東海道の経路がより直線的に変更され、鎌倉時代にもこの道筋が利用されたとされる。 しかし、取手宿が水戸街道の正規の宿場町として指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期、すなわち1681年から1688年頃と、他の宿場町に比べてやや遅い。
江戸時代初期には、水戸街道は現在の取手を通らず、我孫子宿から利根川(当時は鬼怒川とも呼ばれた)の右岸を下流に向かい、布佐で渡河した後、龍ケ崎を経由して若柴宿付近で合流する経路をとっていた。 しかし、江戸時代初期の1680年代に、我孫子・若柴間の経路がより短距離となる道筋へ変更され、現在の取手・藤代を通るようになったのだ。 この経路変更によって、取手は水戸街道の重要な中継点として組み込まれることになった。
この街道は、慶長14年(1609年)に徳川頼房が水戸藩主となり徳川御三家が誕生して以来、水戸徳川家と江戸を直結する重要な役割を担った。 水戸徳川家は将軍の補佐役と目され、当主は江戸に常駐する「定府大名」であったため、参勤交代は行わなかった。 その代わりに、国元である水戸と江戸との間で緊密な連絡が必要とされ、藩士が頻繁に往来した。 このため、街道筋には水戸徳川家専用の施設が多数設けられ、宿場人足も「水戸様御用」を笠に着て横暴な振る舞いをすることもあったと伝えられている。
取手という地名は、戦国時代に大鹿太郎左衛門の「砦」があったことに由来すると言われている。 平安時代末の11世紀には伊勢神宮の相馬御厨として周辺が史料に現れ、13世紀には稲村、戸頭、高井、大鹿といった地名が相馬氏の領地として確認できる。 江戸時代初期には「大鹿取手村」と呼ばれていたが、水戸街道の整備とともに大鹿村と取手村に分かれ、取手村が宿場町として発展していくことになった。
取手が宿場町として発展した背景には、陸路である水戸街道と、水路である利根川水運の二つの要素が深く関わっている。取手宿は、利根川を南北に渡る水戸街道の北岸に位置し、川を渡る重要な渡し場を擁していた。 この地の利根川水運は古くから盛んであり、取手は物資の集積地としても機能した。
特に利根川の渡船場としての役割は大きく、対岸の江戸側にも青山宿という小規模な宿場町があったほどである。 江戸時代を通じて、利根川は物資輸送の大動脈であり、米などの年貢米は秋から冬にかけて江戸へ廻送された。 取手付近は利根川本流の中流から下流にかけて位置し、水が豊かで低平な地形が広がり、物資の移動が盛んだったことがうかがえる。 取手市史によれば、江戸初期の1666年には利根川の大洪水で大きな被害があり、街並みが川に並行する形に改められたという。
取手宿には、水戸徳川家をはじめとする大名や武士が宿泊・休憩に利用する「本陣」が設けられた。 取手宿の本陣を務めたのは染野家で、代々取手宿の名主を務める家柄であった。貞享4年(1687年)に水戸徳川家から本陣に指定されたと伝えられている。 現在残る旧取手宿本陣染野家住宅の主屋は、寛政6年(1794年)の取手の大火で焼失した後、翌寛政7年(1795年)に再建されたもので、水戸街道に残る最古・最大の本陣建築とされ、県の有形文化財にも指定されている。 寄棟造、茅葺の大型民家のつくりで、式台玄関の上部には重厚な入母屋破風が設けられ、その格式を今に伝えている。
本陣の内部は、水戸藩主が使用した一段高い上段の間や、当時の生活を偲ばせる茶の間などが残されている。 また、裏山には水戸藩第9代藩主徳川斉昭の歌碑があり、水戸徳川家との深いつながりを物語っている。 斉昭は天保11年(1840年)に取手宿本陣に宿泊し、利根川を渡る船の中で詠んだ和歌を本陣に残したという逸話も伝わる。
利根川と小貝川に面していた取手市域は、度重なる水害にも悩まされてきた。特に吉田や青柳などの低地では被害が大きく、今も残る「水屋」と呼ばれる高床式の建物が、当時の水との戦いを物語っている。 この水害対策のため、取手宿と藤代宿の間には、「本通り」の他に増水時の迂回路として「中通り」「水戸往還椚木廻り道」「大廻り道」といった複数の道が用意されていたという。 これは、水戸街道が単なる陸路ではなく、利根川の自然条件と常に隣り合わせにあったことを示している。
江戸時代の街道は、五街道が幕府直轄の主要幹線として整備された一方で、水戸街道のような「脇往還」や「脇街道」も存在した。水戸街道は日光街道の付属街道と位置付けられつつも、徳川御三家の一つである水戸藩の居城と江戸を結ぶ重要な道であり、五街道に次ぐ重要な街道と考えられていた。 その証拠に、水戸街道は水戸徳川家だけでなく、土浦藩、笠間藩、磐城平藩など、十数家、一説には23家もの大名が通行したと伝えられている。 この通行大名の数は、東海道、奥州街道、中山道に次ぐ規模であった。
五街道の宿場町が主に「参勤交代」の大名行列を支える役割が大きかったのに対し、水戸街道の宿場町、特に取手宿には異なる特性が見られる。水戸徳川家が江戸に常駐する「定府大名」であったため、藩主が国元へ下る機会は稀であった。 そのため、派手な大名行列よりも、江戸と水戸の間で頻繁に行き来する水戸藩士たちの通行を支える需要が高かったと考えられる。水戸街道の各宿場町には、水戸家ゆかりの寺社や伝説が多く残され、小金宿などには水戸家専用の宿舎もあったという。
また、水戸街道は百万都市・江戸への物資輸送路としても利用され、街道沿いの地域の発展に繋がり、水戸藩にも経済的な潤いをもたらした。 取手宿は、その中でも利根川水運の拠点という強みを持っていたため、単なる中継点以上の役割を担っていた。他の宿場町が陸路の交通に特化していたのに対し、取手は陸と水の結節点として、より多様な人や物の流れを支えていたのである。これは、利根川という大河がもたらす恩恵と、その治水という困難を同時に抱えながら発展していった、この地ならではの宿場町の姿と言えるだろう。
現代の取手市を歩くと、かつての宿場町の面影は、注意深く探さなければ見過ごしてしまうかもしれない。しかし、その歴史を語る重要な遺産は今も大切に保存されている。その筆頭が「旧取手宿本陣染野家住宅」である。JR取手駅から徒歩圏内に位置し、現在も週末には一般公開されている。 寛政7年(1795年)に再建された茅葺きの主屋は、当時の本陣の格式と規模を伝える貴重な存在であり、茨城県の有形文化財に指定されている。 敷地内には土蔵や表門も残り、江戸時代の街道の雰囲気をわずかながら感じさせる。
街道筋には、老舗の商家もその歴史を刻んでいる。例えば、明暦元年(1655年)創業という田中酒造店は、今も「君萬代」の銘柄で日本酒を醸造しており、人の手による洗米や和釜での蒸かしなど、昔ながらの製法を守り続けているという。 また、新六本店は寛政年間に酒造業や回船問屋を営み、後に奈良漬け製造業に転じた老舗である。 これらの店は、かつて物資の集積地であった取手宿の経済活動の記憶を伝える存在だ。
利根川の重要性は、現代にも形を変えて受け継がれている。「小堀の渡し」は、取手市営の渡し船として、利根川を挟んで市内中心部と小堀地区を結んでいる。 大正3年(1914年)に運航を開始し、平成26年(2014年)には運航開始100周年を迎えた。 かつては通勤・通学や住民の日常生活の足として利用されたが、現在は観光船としての役割が強く、利根川下流域に残る唯一の渡し船として、かつての水戸街道「取手の渡し」の風情を今に伝えている。
取手市は、東京のベッドタウンとして発展し、平成の大合併を経て人口10万人を超える都市となった。 常磐線の電化や地下鉄千代田線の開通など、首都圏へのアクセスが向上したことで、その性格は大きく変容した。 しかし、旧取手宿本陣や老舗の商家、そして「小堀の渡し」といった文化財や歴史遺産は、現代の取手市の中に、かつて陸と水が交差した宿場町の記憶を静かに留めている。
取手宿の歴史をたどると、一つの宿場町の成立と発展が、単なる街道の整備だけでなく、地理的な条件、政治的な背景、そして絶え間ない自然との対峙によって形作られてきたことが見えてくる。特に印象的なのは、利根川の流路変更が取手の運命を大きく変えた点である。もともと取手を通らなかった水戸街道が、1680年代の経路変更によってこの地を経由するようになり、さらに利根川の水運との結節点となったことで、取手宿は急速に発展した。 これは、街道という人為的な交通網が、自然の地形や水系とどのように相互作用し、都市の性格を決定づけていくかの好例と言える。
また、水戸徳川家が「定府大名」であったという特殊な事情が、水戸街道全体の性格、ひいては取手宿の役割にも影響を与えている。 他の五街道が将軍のお膝元と各地を結び、大名行列の通過が主であったのに対し、水戸街道は藩主の稀な通行よりも、江戸と水戸間の日常的な情報伝達や物資輸送の重要性が高かった。これにより、取手宿は単なる休憩地ではなく、利根川水運との連携を通じて、より実用的な物流拠点としての機能を強化していったと考えられる。
現代の取手市は、東京の近郊都市として発展を遂げ、かつての宿場町の賑わいは薄れている。しかし、「旧取手宿本陣染野家住宅」や「小堀の渡し」といった具体的な遺構や営みが、利根川のほとり、あるいは旧街道筋に今も息づいている。それらは、時代とともに変化する都市の姿の奥底に、陸路と水路、そして時の権力と人々の暮らしが複雑に絡み合った歴史の層が確かに存在することを、静かに示しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。