2026/6/25
なぜ三重県は古代から平安時代にかけて「聖地」と「交通の要衝」になったのか

三重県の歴史について詳しく教えて欲しい。古代から平安時代まで。
キュリオす
三重県は古代から東西の文化が交錯する要衝であり、伊勢神宮の創祀や斎王制度の確立により、その重要性を深めていった。地理的条件と交通網の発達も、この地の発展を後押しした。
水辺に立つ、古の伊勢
伊勢湾の穏やかな水面を眺めていると、遠い時代の記憶が呼び覚まされるような感覚に囚われることがある。古代から東西の文化が交錯し、都と地方を結ぶ要衝であったこの地は、日本の歴史において特別な意味を持ってきた。なぜこの地が、神の坐す場所として、また交通の結節点として、その役割を深めていったのか。伊賀、伊勢、志摩、そして紀伊の一部からなる現在の三重県が、その姿を形作っていった古代から平安時代までを辿ることは、日本の原風景に触れることでもあるだろう。
神の巡行から斎宮の地へ
三重の地には、旧石器時代から人々の営みがあったことが、内垣内遺跡や立岡遺跡などの発掘調査から示されている。縄文時代には、粥見井尻遺跡で日本最古級の土偶が出土し、天白遺跡では円形に並べられた石の跡から祭祀が行われていたと推測されている。弥生時代には北部九州から稲作が伝わり、伊勢湾沿岸部で多くの集落が形成された。津市の納所遺跡は弥生時代から古墳時代にかけて継続的に営まれた大規模な集落であり、早期から農耕文化が定着していたことがうかがえる。
古墳時代に入ると、4世紀頃から前方後円墳や前方後方墳が各地に築造され始める。特に伊賀地方には、墳丘長188メートルを測る東海・北陸地方最大の御墓山古墳(みはかやまこふん)があり、ヤマト王権との密接な関係がうかがえる。伊勢湾岸の地域では、海を越えた交流が盛んであったことを示すように、県外からもたらされた翡翠や碧玉などの玉類が出土している。
そして、この地の歴史を決定づけたのは、伊勢神宮の創祀である。伝説によれば、約2000年前に垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る地を求めて各地を巡行し、最終的に伊勢の五十鈴川のほとりに内宮を創建したとされている。その後、雄略天皇の時代には豊受大御神(とようけおおみかみ)を祀る外宮が鎮座し、現在の神宮の形が整えられていった。神宮の創建年代には諸説あるが、天武天皇が式年遷宮の制度を定めたのが685年で、持統天皇4年(690年)に最初の式年遷宮が行われたことが記録に残る。この式年遷宮は、戦国時代の一時期を除いて約1300年間続けられ、日本の伝統文化を継承する重要な役割を担ってきた。
律令制の施行に伴い、伊勢国、伊賀国、志摩国が設置された。志摩国は当初、現在の鳥羽市や志摩市だけでなく、南伊勢町から尾鷲市にわたる広範な地域を含んでいたが、後に答志郡と英虞郡の二郡に再編された小国であった。また、天皇に代わって伊勢神宮の祭祀に奉仕する斎王(さいおう)の制度も飛鳥時代に確立された。初代斎王は大来皇女(おおくのひめみこ)とされ、以降、天皇の代替わりごとに皇族の未婚女性が選ばれ、都から伊勢へと派遣された。斎王が暮らした斎宮(さいくう)は、現在の明和町に位置し、百棟を超える大規模な官庁街を形成していたことが発掘調査から明らかになっている。斎王の群行は数百人規模の壮麗な行列であり、都から伊勢への道のりは5泊6日の長旅であったという.
神宮と海の道が織りなす要衝
三重の地が古代から平安時代にかけて特別な発展を遂げた背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。まず地理的な条件が挙げられる。三重県は、伊勢湾や熊野灘に面した長い海岸線と、養老山地、鈴鹿山脈、布引山地、紀伊山地などの山々が連なる多様な地形を持つ。この地形は、古代の人々に豊かな自然資源を提供した。例えば、志摩半島では縄文時代から潜水漁が行われ、アワビなどの海産物が採取されていたことが白浜遺跡の出土品から示されている。
次に、その戦略的な位置が重要であった。三重は、都があった畿内と東日本を結ぶ「東海道」の出入り口に位置し、陸路と海路の両方において東西の交通・文化交流の中心地であった。奈良時代には、都から伊賀国を経て伊勢に入る「大和街道」が幹線道路として利用され、斎王の群行もこの道を通ったとされる。平安時代に入ると、886年に近江国から鈴鹿峠を越える「阿須波道」が官道としての東海道に定められ、斎王の群行路も変更された。この道の変更は、東国との交通の重要性が増したことを示している。
伊勢湾は古代から水上交通が盛んであり、伊勢神宮を中心として海上交通が発達した。志摩国は平地が少なく米の収穫量が少なかったため、伊勢国や尾張国の田が志摩国の口分田とされ、国衙や国分寺の費用もこれら他国が負担したという。その代わりに志摩国は、海産物を贄(にえ)として宮中へ貢ぐ「御食国(みけつくに)」の一つとして重要な役割を担ったと推定される。神宮への物資供給を背景に、伊勢湾の海上交通網は発達し、多くの人や物資が行き交った。
さらに、伊勢神宮の存在自体が、この地の発展を強く牽引した。伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威と深く結びついていた。神宮祭祀と宮中祭祀は一体性をもって行われ、斎王制度を通じて都と伊勢は常に緊密な関係を保っていた。神宮の広大な神領は多気郡、度会郡、飯野郡に及び、祭主は神領を治める上で強い権限を持っていた。このように、地理的な優位性、交通の要衝としての役割、そして何よりも伊勢神宮という強大な存在が、三重の古代から平安時代にかけての歴史を形作る上で不可欠な要素であった。
平安京の影と地方の力
古代から平安時代にかけて、日本の各地では律令制に基づく中央集権化が進められたが、その中で三重の地は、畿内に隣接しながらも独特の発展を遂げた。例えば、各国の地方行政を担う国府と、仏教による国家鎮護を目的とした国分寺が全国に建立されたが、伊勢国府は鈴鹿関に近い亀山市能褒野町から鈴鹿市広瀬町付近に置かれ、鈴鹿関の管理という軍事的な役割も担っていた。これは、東国への重要な出入り口である伊勢の地が、単なる地方行政区画以上の意味を持っていたことを示している。
他の律令国家の地方行政区画と比べると、伊勢国は中央との結びつきが非常に強かった点が特徴である。伊勢神宮の存在がその最たるもので、斎王制度は天皇の代替わりごとに皇女が伊勢に下向するという、他の国には見られない特別な制度であった。これは、伊勢が単なる地方ではなく、皇室の宗廟として国家の精神的支柱を担う聖地であったことを意味する。例えば、陸奥国や出羽国といった遠隔地では、中央からの支配が及びにくく、独自の文化や勢力が育まれやすかったのに対し、伊勢は常に中央の視線と関与のもとに置かれていたと言える。
一方で、志摩国のような小国は、その経済基盤が脆弱であった。平地が少なく稲作が困難だったため、伊勢国や尾張国からの経済的支援に依存していたことが記録に残されている。これは、律令制下における地方国の格付け(下国)と、その実態が必ずしも農業生産力だけで決まるものではなく、海産物などの特殊な貢納品や、海上交通の要衝としての役割といった多様な価値によって成立していたことを示唆する。陸路と海路、そして神宮という三つの要素が重なり合うことで、三重の地は他の地域とは異なる複合的な価値を持つことになった。
平安時代中期以降、中央の支配が緩み始めると、各地で武士団が台頭するが、伊勢においても豪族が力を持ち始める。しかし、伊勢神宮の権威は依然として絶大であり、その神領をめぐる争いはあっても、神宮そのものの存在が否定されることはなかった。むしろ、神宮の祭主や禰宜といった神職が地域社会において権限を強めていった側面もある。これは、中央の政治的な変動が直接的に地方の支配構造を変えるのではなく、その土地固有の強力な制度や文化が、変化の中で独自の適応を見せた例と言えるだろう。
今に息づく古代の面影
古代から平安時代にかけての三重の歴史は、現代の風景の中にも色濃く残されている。伊勢神宮は、現在も日本の精神的な中心地の一つとして、多くの人々からの崇敬を集めている。20年ごとに行われる式年遷宮は、古代から続く伝統を現代に伝える稀有な行事であり、その度に社殿が新しく建て替えられることで、建築技術や祭祀の様式が継承されている。
斎宮跡は、明和町に広がる国史跡であり、かつて斎王が暮らした宮殿と役所の跡地として発掘調査が進められている。現在では「斎宮歴史博物館」や「いつきのみや歴史体験館」が整備され、平安時代の斎王の暮らしや文化を体験できる場となっている。これらの施設では、斎王の群行を再現した「斎王まつり」も開催され、古代の華やかな文化が現代に蘇る。斎宮の歴史は、平安時代の文学作品である『伊勢物語』や『源氏物語』にも登場し、当時の宮廷文化との深いつながりを示している.
また、古代の幹線道路であった東海道のルートは、現代の国道1号線と重なる部分も多く、その面影をたどることができる。鈴鹿市には伊勢国府跡が確認され、地方行政の中心地であった往時を偲ばせる。各地に点在する古墳群も、古代の有力者たちの存在を今に伝え、地域ごとの多様な文化圏を物語っている。例えば、嬉野町には前方後方墳が集中して存在しており、この地域の独特な古墳文化が注目されている。
伊勢湾の海上交通も、形を変えながら現代に続いている。古代から伊勢湾は、東国と畿内を結ぶ海上交通の要路であり、その役割は現代の物流や観光においても重要である。海産物を宮中に貢納した「御食国」としての伝統は、現代の豊かな海の幸として地域経済を支え、伊勢エビやアワビといった特産品は、今も多くの人々を魅了する。このように、三重の地は、古代からの歴史的な蓄積を現代の生活や文化の中に息づかせながら、その姿を保ち続けているのである。
伊勢の地が問いかけるもの
古代から平安時代にかけての三重の歴史を辿ると、この地が単なる地方の一角ではなかったことが見えてくる。ヤマト王権の拡大とともにその影響下に置かれながらも、伊勢神宮という強大な宗教的権威を擁し、都と密接な関係を築いてきた。これは、他の多くの地方が中央からの支配を受け入れる形で発展していったのとは異なる、ある種の「中心」としての側面を持っていたと言えるだろう。
伊勢の地は、中央の政治的・宗教的な要請に応える形で発展した一方で、その地理的な条件が、陸路と海路の東西交流を活発にし、多様な文化や物資が集まる結節点としての役割を担わせた。志摩国が海産物を贄として貢納することで、稲作に不向きな土地でも国家的な役割を果たし得たことは、古代社会における地域の価値が、単一の生産力だけでなく、その土地固有の資源や役割によって多角的に評価されていたことを示している。
斎王制度と式年遷宮は、皇室と神宮、そして伊勢の地が持つ不変性と継承の象徴である。天皇が代替わりするごとに皇女が伊勢に下向し、20年ごとに社殿が新しく造り替えられるという営みは、一時的な権力や経済的な合理性だけでは測れない、より根源的な価値観がこの地を支えてきたことを物語る。それは、変化の激しい時代においても、変わらぬものを守り伝えようとする意志が、地域の歴史を深く刻んできた証左でもある。
三重の古代から平安時代までの歩みは、日本の歴史が、中央と地方、陸と海、そして政治と宗教という複数の軸が交錯する中で紡がれてきたことを改めて認識させる。そして、その交錯点において、伊勢の地が果たした役割の重さを、現代の私たちは、神宮の森の静けさや、斎宮跡に残る遺構の中に、静かに見出すことができるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。