2026/6/19
奈良と大阪の境、亀の瀬で繰り返される地すべりの謎

奈良と大阪の境目にある亀の瀬について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
奈良盆地と大阪平野を結ぶ交通の要衝、亀の瀬。約4万年前から地すべりを繰り返し、交通網を寸断してきたこの地のメカニズムと、60年以上にわたる大規模な対策工事の歴史を辿る。
大和川が刻む、不穏な亀の瀬の谷
奈良盆地から大阪平野へと流れ出る大和川は、生駒山地と金剛山地に挟まれた狭い渓谷を抜けていく。その府県境付近、大阪府柏原市と奈良県三郷町にまたがる一帯が「亀の瀬」と呼ばれる場所だ。ここは古くから大和と河内を結ぶ交通の要衝であり、同時に、約4万年前から地すべりを繰り返してきた難所でもある。川岸に立つと、山肌が不自然に波打つような地形が目に入る。なぜこの場所は、かくも長きにわたり人々を苦しめ、そして現代においても多大な費用と労力をかけて守られ続けているのか。その疑問は、この地の地質と歴史、そして治水への執拗なまでの人々の取り組みに深く刻まれている。
畏れられた「恐の坂」から近代の崩落まで
亀の瀬の地すべりは、記録に残る以前の太古の時代から発生していたと考えられている。約4万年前、旧石器時代には既に地すべりが起きていたという見方もあるのだ。この地は古代から大和と難波宮を結ぶ重要な交通路であり、万葉集にも「手向けする 恐(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉り」と詠まれた「恐の坂」は、亀の瀬付近を指すものと考えられている。「懼」とは恐怖を意味し、地すべりの恐怖に基づく地名ではないかという指摘もある。旅人たちはこの危険な坂道で旅の安全を祈り、捧げものをしたという。
近代に入ると、この地の不安定性は交通インフラに大きな影響を及ぼし始める。明治36年(1903年)7月には大規模な地すべりが発生し、大和川が氾濫した。しかし、亀の瀬の地すべり対策の歴史において決定的な転換点となったのは、昭和6年(1931年)から翌昭和7年(1932年)にかけての出来事である。この時期、峠地区を中心に山塊が大規模に滑動し、その規模は長さ約1,100メートル、幅約1,000メートル、最大深さ約70メートル、推定移動土塊量1,500万立方メートルに及んだ。この地すべりにより、当時、大和川の右岸を走っていた旧国鉄関西本線の亀の瀬トンネルが崩壊し、不通となった。鉄道は11ヶ月間、約1キロメートルにわたって徒歩連絡を強いられ、仮駅が設けられる事態となったのだ。さらに、地すべりによって大和川の河床が最大で9メートルも隆起し、川が堰き止められた結果、上流の奈良盆地側にある王寺町藤井地区では住宅25戸が浸水する深刻な被害が発生した。
この大規模な地すべり災害は日本中で大きな話題となり、昭和7年1月から3月にかけては、多い日で1日2万人もの見物客が押し寄せたという。亀の瀬には紅白幕を巡らした野店カフェが出現し、「地すべり見学記念絵葉書」まで販売される見学ブームが起きたと当時の新聞は伝えている。こうした状況を受け、内務省による直轄工事が昭和7年3月から開始され、のべ35万人を動員して道路の復旧や河川の掘削・拡幅が行われた。鉄道の分断を解消するため、不安定な右岸側を避けて左岸に迂回する新ルートが決定され、明神山の山腹に3本のトンネルと2本の橋梁が建設される突貫工事が進められた。結果として、単線ではあったが同年12月31日には開通にこぎつけ、3年後には複線化が完了している。
しかし、地すべりの活動はこれで収束したわけではなかった。昭和42年(1967年)2月から7月にかけても、再び地すべりが発生し、水平方向に26メートル、川床が1メートル隆起するなどの被害が観測されている。この繰り返される自然の猛威に対し、本格的な国の直轄事業としての地すべり対策が開始されたのは、昭和37年(1962年)からであった。
地下水との飽くなき闘い:亀の瀬地すべりのメカニズム
亀の瀬で地すべりが繰り返される主要な原因は、その特異な地質構造と地下水の存在にある。この地域の地質は、花崗岩の基盤岩の上に、数百万年前の火山活動によって噴出した「ドロコロ火山岩」を含む二上層群という地層が積み重なって形成されている。特に問題となるのは、水を通しやすい礫層や火山灰層の上に、水を通しにくい粘土質層が存在するという構造である。
地すべりのメカニズムは、大きく分けて二つある。一つは、峠地区において「亀の瀬礫層」が地下水の浸透によって劣化・軟質化し不透水層となることで、その上に位置する「新期ドロコロ溶岩」との間にすべり面が形成されることだ。もう一つは、清水谷地区において「旧期ドロコロ溶岩」の下にある基底礫岩層や原川累層が火山活動の後作用で変質し、難透水層となることで滑り面が形成されるというものだ。これらのすべり面は地表から約30メートルから80メートルの深さに存在し、上部の粘土層が多量の地下水を含んで軟弱化することが地すべりの主要因とされている。
さらに、大和川が地すべり地の足元を浸食し続けることも、地すべりの発生を助長する要因となっている。地すべり土塊は、大和川に向かって平均12度程度の傾斜ですべり落ちやすい状態にある。そして、この亀の瀬地すべりの特徴的な点は、その脚部末端の一部が大和川の河床下を通り、左岸側に乗り上げる「隆起型」の地すべり形状をとることだ。これは全国的に見ても珍しい特徴であり、地すべりが発生すると大和川の河床が持ち上がり、川幅が狭くなることで河道閉塞を引き起こし、上流の奈良盆地の浸水、さらには閉塞土砂の決壊による下流の大阪平野への水害という甚大な被害を招く可能性があるのだ。想定される被害額は約6兆円にも上ると言われている。
この複雑な地すべりのメカニズムに対し、昭和37年(1962年)から国による直轄事業として本格的な対策工事が開始された。対策は主に「抑制工」と「抑止工」の二本柱で進められている。抑制工は、地すべり運動そのものを停止または緩和させる工事であり、具体的には土砂を取り除く排土工、そして地下水を抜き取る地下水排除工が中心である。地下水排除工では、地中の水を集めるための巨大な井戸である集水井(直径3.5メートル、長さ15〜40メートル)が39基設置され、集めた水を大和川へ流すための排水トンネル(直径2.1メートル、総延長約6.1キロメートル)が整備されている。また、集水ボーリング工によって地中の水を集めるための工夫もなされている。抑止工は、杭などを移動土に直接打ち込み、運動の一部または全部を止める工事だ。亀の瀬では、すべり力が大きくすべり面が深い箇所を抑止するために、直径3.5メートルから6.5メートル、長さ30メートルから96メートルにも及ぶ巨大な深礎工(鉄筋コンクリート坑)が560本設置されてきた。これらの対策工事は、平成23年(2011年)3月に主要な部分が完成し、地すべりの変動は鎮静化している。
「隆起型」地すべりの特異性と他の地すべり地との対比
亀の瀬地すべりは、その規模の大きさもさることながら、地すべりの末端部が大和川の河床を隆起させる「隆起型」である点が、他の地すべり地帯と一線を画している。これは全国的に見ても珍しい特徴とされ、地すべりが活発化した場合、大和川が堰き止められ、上流の奈良盆地が水没する危険性を内包している。
日本の地すべり地帯は、地形や地質、気象条件によって多様な様相を呈する。例えば、新潟県に多く見られる大規模地すべりでは、新第三紀中新世の泥岩や砂質泥岩といった軟弱な地質が、地下水や積雪期の融雪水の影響を受けて滑動する事例が多い。濁沢地すべり(新潟県長岡市)では、背斜軸や小断層といった構造的な弱部、多量の地下水、そして過去の地すべり地形の存在が複合的に作用し、大規模な滑動に至ったとされる。ここでも地下水排除工が主体となり、一部で杭打工が実施された。
また、2008年の岩手・宮城内陸地震で発生した荒砥沢地すべり(宮城県栗原市)は、日本最大級の地震地すべりとして知られている。ここでは、古い埋没カルデラ内に堆積した湖成層がすべり面の素因となり、広域的に均質な材料が分布する地質構造が大規模化の要因となったと考えられている。荒砥沢では、地すべり土砂量が東京ドーム54杯分にも及ぶ6700万立方メートルに達し、最大で80メートルの隆起が確認された。これらの地すべりもまた、地下水排除や土砂の除去、そして精密なモニタリングが不可欠な対策となっている。
亀の瀬の隆起型地すべりが特異なのは、単に斜面が崩れ落ちるだけでなく、川の流れを直接的に阻害し、広範囲にわたる水害のリスクを増大させる点にある。新潟や東北の事例に見られるように、多くの地すべり地では地下水排除が重要な対策となるが、亀の瀬の場合は、大和川という主要な河川の存在が、そのリスクと対策の複雑性を一層高めているのだ。大和川は奈良盆地の156本もの川を一手に集め、その水が亀の瀬の狭窄部で滞留することは、上流の奈良盆地を浸水させ、さらに下流の大阪平野への鉄砲水という連鎖的な災害を引き起こす可能性を常に抱えている。このため、亀の瀬では単なる地すべり対策に留まらず、大和川全体の治水計画と密接に連携した、より包括的な対策が求められ続けてきたのである。
60年の歳月と1000億円の投資:現代の亀の瀬
昭和37年(1962年)から始まった亀の瀬地すべり対策事業は、60年以上の歳月と約1000億円もの費用が投じられてきた国家事業である。現在、地すべり対策工事の主要な部分は平成23年(2011年)3月に完成し、地区内の土塊移動(変位量)はほとんどなくなり、変動は鎮静化しているとされる。しかし、対策事業はこれで終わりではない。定点観測や設備の維持管理のため、これからも事業は継続されていくのだ。
現代の亀の瀬は、この長きにわたる地すべりとの闘いの歴史を伝える場所となっている。大阪府柏原市にある「亀の瀬地すべり歴史資料室」は、その中心施設だ。令和6年(2024年)3月にはリニューアルオープンし、地すべりの歴史やメカニズム、対策工事の内容がパネルやジオラマで分かりやすく展示されている。
この資料室を拠点として、「亀の瀬地すべり対策インフラツーリズム」が展開されている。予約制のガイドツアーに参加すれば、普段は見ることのできない地すべり対策の地下施設、例えば「1号排水トンネル」の内部を見学できる。この排水トンネルは、地中の水を効率的に排出するために掘られたもので、総延長7.2キロメートルに及ぶ横方向の7本のトンネルのうち、最初に掘られたものであり、1969年(昭和44年)に完成した。トンネル内部では、硬い岩盤と粘土層の間の「すべり面」を実際に見られる場所も設けられており、地下水が常に流れている様子を体感できる。
さらに、このツアーの目玉の一つが「旧大阪鉄道亀瀬隧道(ずいどう)」、通称「幻のトンネル」の見学だ。明治25年(1892年)に完成したこのレンガ造りの鉄道トンネルは、昭和6年(1931年)から昭和7年(1932年)の大規模地すべりで崩壊し、埋没して失われたと考えられていた。しかし、地すべり対策工事のために排水トンネルを掘削していた平成20年(2008年)11月、約80年ぶりに偶然その一部が良好な状態で発見されたのだ。この「幻のトンネル」の約40メートル区間では、48台のプロジェクターを使ったプロジェクションマッピングが上映されており、当時の鉄道の様子や地すべりの歴史を視覚的に体験できる。
亀の瀬は2020年6月、「もうすべらせない!龍田古道の心臓部「亀の瀬」を越えてゆけ」というタイトルで日本遺産にも認定された。これは、単なる災害地ではなく、古代から現代に至るまで、人々が自然の脅威と向き合い、技術を結集して交通の要衝を守り続けてきた歴史が評価された結果である。周辺地域では、インフラツーリズムを核とした地域活性化の取り組みも進められており、地元住民や団体、企業を巻き込んだ観光振興が試みられている。
地すべりが示す、人間の介入と自然の自律
亀の瀬の地すべりが示すのは、人間の営みが自然の巨大な力といかに深く関わり、そして対峙し続けてきたかという事実である。この地で繰り返されてきた地すべり現象は、単なる災害ではなく、奈良と大阪を結ぶ交通の要衝としての重要性が、その不安定な地質構造と不可分であったことを物語っている。古代の旅人が「恐の坂」と呼んで畏れた場所が、近代以降の鉄道や道路の開通によってさらにその脆弱性を露呈し、結果として国家規模の長期的な対策事業へと発展していった。
特に亀の瀬の「隆起型」地すべりは、その被害の連鎖が単一の場所にとどまらず、大和川を介して奈良盆地の浸水、さらには大阪平野への水害という広範囲な影響を及ぼすという点で、他の多くの地すべり地帯とは異なる特異性を持つ。新潟や東北の事例が示すように、地すべり対策において地下水排除は普遍的な手法だが、亀の瀬では、その地質構造が大和川の流路と直接的に干渉するがゆえに、治水と地すべり対策が一体の課題として捉えられ、その複雑な対応が長きにわたって求められてきたのだ。
排水トンネルや深礎工といった大規模な土木技術の投入は、人間の知恵と技術が自然の脅威にどこまで対抗できるかという問いへの、一つの具体的な回答である。約60年にわたる対策工事と1000億円に及ぶ投資は、この地が持つ経済的・社会的な重要性、そして災害発生時の甚大な被害想定を裏付けるものであろう。そして、一度は失われたと思われた明治期の鉄道トンネルが、地すべり対策工事の過程で偶然発見され、現代のインフラツーリズムの核となっている事実は、過去の苦難が新たな価値として現代に接続される可能性を示している。亀の瀬は、地すべりの脅威が完全に去ったわけではないが、人間の飽くなき挑戦と、それによって培われた技術と歴史が凝縮された場所として、今もその存在感を放ち続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。