2026/6/3
四街道は街道が交差していた?栄えていたのはいつ?

四街道はやはり街道が交差していたのか?栄えていた?
キュリオす
「四街道」の地名の由来は四つの街道の交差点だが、江戸時代は原野だった。交通の要衝として栄えたのは、幕末の砲術練習所設置や明治以降の軍事施設、そして鉄道開業がきっかけだった。
「四街道」という地名の由来は、その名の通り四つの街道が交差していたことに求められる。現在の四街道十字路には、明治14年(1881年)に建てられた道標石塔が残されており、その四面にはそれぞれ「北 成田山道」「南 千葉町道」「東 登宇がね・馬渡道」「西 東京・船橋道」と刻まれているという。これらは、江戸方面から船橋を経て佐倉に至る「佐倉道(成田街道)」、千葉町(現在の千葉市)へ向かう道、東金や九十九里浜方面へ通じる「東金道(御成街道)」、そして成田山新勝寺への参詣道が、この地で交わっていたことを示している。
しかし、江戸時代初期のこの一帯は、下総台地の広大な原野「下志津原」や「六方野」と呼ばれる場所で、人影もまばらな土地だったと伝わる。 幕府によって整備された五街道のような主要幹線道路の宿場町として栄えたわけではない。 佐倉藩の領地であったこの原野は、鷹狩りの場として利用される程度で、交通の要衝としての本格的な発展は、江戸時代後期、特に幕末の動乱期を待つことになる。 佐倉藩がこの地に砲術練習所を設けたことが、後の四街道の性格を決定づける最初の転換点となる。
四街道の地が「交通の要衝」としての性格を強めるのは、むしろ明治時代以降のことだ。幕末に佐倉藩が下志津原に設置した砲術練習所は、明治維新後に陸軍に引き継がれ、明治19年(1886年)には「陸軍砲兵射的学校」が創立される。 その後、明治30年(1897年)には「陸軍射撃学校」と改称され、四街道駅の北側に移転。この軍事施設の存在が、広大な原野に「軍都」としての性格をもたらし、地域の発展を急速に促した。
決定的なのは、明治27年(1894年)に総武鉄道(現在のJR総武本線)の市川~佐倉間が開業し、同時に四街道駅が開設されたことだろう。 当初、鉄道敷設には農耕地への影響を懸念する住民の反対もあったが、線路は村の境界付近を通る形となり、駅も村はずれに建設された。 しかし、この鉄道の開通と軍事施設の集積が相まって、駅周辺は急速に開発が進んだ。駅開設当初は一面の松やクヌギ林で人家もほとんどなかったというが、軍施設の移転とともに雑木林は切り開かれ、戸口が増加していったのだ。 「四街道」という地名も、この「四つ角」という俗称が駅名に採用され、やがて町名、市名へと発展していった経緯がある。
江戸時代の街道における交通量は、公用旅行者の人馬継立状況などから部分的に把握できるが、東海道のような主要街道と比較すると、四街道周辺を通る街道の交通量はそこまで多くなかったと推測される。 例えば、江戸と房総を結ぶ主要な交通路としては佐倉街道が挙げられるが、これは道中奉行の管轄下にあったものの、五街道のような宿場としての発達は見られなかった。 さらに、江戸から房総へ向かう際には、佐倉道よりも舟で行徳に上陸する方が近道とされ、一般にはそちらが利用されることも多かった。
四街道の地が「交通の要衝」として発展したのは、道の交差そのものよりも、むしろその後の時代の要請に応じた結果と言える。広大な原野であったことが、幕末の砲術訓練場、明治以降の陸軍施設、そして鉄道駅の設置という、当時の国家的な要請を受け入れる素地となった。もしこの地が、すでに江戸時代に宿場町として栄えていたなら、その後の軍事拠点化や鉄道敷設は、用地買収や既存集落との摩擦により、より困難を伴ったかもしれない。つまり、江戸期に「栄えていなかった」ことが、近代以降の独自の発展を可能にしたという見方もできる。
日本の歴史において「交通の要衝」と聞けば、多くの人はまず東海道や中山道といった五街道の宿場町を思い浮かべるだろう。箱根宿のような難所を控えた宿場は、参勤交代の大名行列や旅人で賑わい、本陣や旅籠が軒を連ね、それぞれの宿場が独自の文化を育んだ。 そこでは、街道の通行量に応じて人馬継立の負担が生じ、経済的な活性化と同時に地域社会への重荷も伴っていた。
一方、千葉県内にも佐倉宿のように城下町と宿場町を兼ね、佐倉藩の参勤交代路として機能した場所は存在した。 しかし、佐倉道自体が五街道に比べれば「脇往還」としての性格が強く、その交通量や宿場の規模は、江戸に近い主要街道に及ばなかった。 四街道は、この佐倉道の途中に位置するものの、佐倉宿のような明確な宿場機能を持たず、江戸期には「広漠たる原野」として認識されていた。
四街道の発展は、このような伝統的な街道交通の延長線上にはない。むしろ、明治以降の国家戦略、すなわち「軍事」と「鉄道」という新たな交通・産業基盤の導入によって、一躍その存在感を増した。これは、古くからの街道が都市の発展を牽引した事例とは異なり、近代的なインフラ整備と国家政策が、それまで未開発だった土地に新たな「要衝」としての役割を与えた、という点で対照的だ。道路の交差という地理的条件は変わらなくとも、その「要衝」としての意味合いは、時代とともに大きく変容したと言えるだろう。
現在の四街道市は、千葉市のベッドタウンとして発展を遂げ、人口約9万5千人が暮らす都市となっている。 JR四街道駅周辺にはマンションや住宅地が広がり、東京へのアクセスも良好である。 かつて広大な原野だった面影は薄れ、近郊農業地帯として梨や落花生の生産も盛んだ。
しかし、その歴史の痕跡が完全に消えたわけではない。四街道十字路に立つ道標石塔は、まさにその地名の由来を今に伝えるシンボルである。 また、かつて佐倉藩主が休憩に利用したと伝わる榎の古木(現在は二代目)も、この交差点の目印として存在し、四街道高校の校章にもエノキの葉がモチーフとして使われているという。 加えて、陸軍砲兵射的学校の跡地や記念碑など、軍都としての歴史を物語る場所も点在している。 四街道市歴史民俗資料室やふれあいセンター歴史民俗資料室では、江戸時代後期から昭和にかけての農具や生活民具、開拓に関する資料などが展示され、地域の変遷を知る手がかりとなる。
鉄道の開通から130年近くが経ち、四街道はもはや軍都ではなく、首都圏の郊外都市としての顔を持つ。だが、その地名を語る上で欠かせない「四つの街道」の記憶と、近代国家の要請によって形作られた軍事の歴史、そして鉄道がもたらした発展という多層的な過去が、この町の風景の奥には静かに息づいているのだ。
四街道という地名は、文字通り四つの街道が交差する場所を指す。この直截な命名は、一見すると江戸期の賑やかな宿場町を想像させるかもしれない。しかし、史実を辿れば、この地は江戸時代には「広大な原野」であり、交通の要衝としての「栄え」は、むしろ軍事拠点化と鉄道開通という近代の選択によってもたらされた。
この事実は、「街道の交差=繁栄」という通念を問い直すきっかけとなる。地理的な条件だけが、その地の運命を決定するわけではないのだ。四街道の場合、古くからの街道が交わっていたという地理的条件はあれど、その潜在能力が発揮されるのは、近代的な交通網と国家的な目的が結びついた時だった。
四街道の歴史は、土地の価値が時代や社会の要請によっていかに再定義されるかを示している。地名が持つ直接的な意味と、その土地が歩んできた道の間に生じるずれは、表面的な情報だけでは見えない、より複雑な歴史の層を浮き彫りにする。それは、ただ「街道が交差していた」という事実以上の、土地と人々の関わりの深さを物語っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。