2026/6/19
なぜ奈良・飛鳥坐神社には性器を模した石が点在するのか

奈良の飛鳥坐神社について詳しく教えてほしい。
キュリオす
奈良県明日香村の飛鳥坐神社は、生命の根源への畏敬と豊穣を祈る原始的な信仰が息づく場所です。陽石信仰や「おんだ祭」に見られる独特の祭祀は、古代から続く人々の願いを現代に伝えています。
飛鳥の里に立つ、生命のざわめき
奈良県明日香村の「飛鳥坐神社」は、その名を耳にする機会は多くないかもしれない。しかし、この神社が鎮座する鳥形山に足を踏み入れると、単なる古社ではない、ある種の原始的な活気が満ちていることに気づかされるだろう。石段を登り、境内に点在する奇妙な石造物や、毎年二月に行われる「おんだ祭」の報を聞けば、ここが古代の人々にとって、単なる神を祀る場以上の意味を持っていたことが想像できる。なぜこの飛鳥の地に、これほどまでに土俗的な信仰の形が残り、現代まで伝えられているのか。その問いは、日本の歴史の奥底に横たわる、もう一つの顔を垣間見せる。
国譲りの神と遷座の伝承
飛鳥坐神社の創建年代は不詳とされているが、その歴史は極めて古い。社伝によれば、『出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』には、大国主神が皇室の守護神として賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)の神霊を飛鳥の神奈備に祀ったと記されているという。現在の祭神は八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)を主祭神とし、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、大物主神、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の四柱を祀る。八重事代主神は大国主神の子であり、国譲りの神話において、父神の相談を受け、国を譲ることを進言した神として知られる。この事代主神が八百万の神々を率いてこの高市(飛鳥)の地に鎮まったとされるのだ。
平安時代初期の天長六年(829年)三月には、神託によって、もとは高市郡賀美郷の神奈備山にあった社が現在の鳥形山へと遷座されたと『日本紀略』に記録されている。この遷座以前の具体的な鎮座地については諸説あるものの、この地が古くから神聖視されてきたことは明らかである。また、飛鳥坐神社が鎮座する鳥形山は、天照大神が伊勢神宮に鎮座する以前に一時祀られた地「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」であったとする「元伊勢」伝承も存在する。この伝承は、飛鳥坐神社が単なる地方の社ではなく、古代の国家祭祀とも深く関わる重要な位置にあったことを示唆する。平安時代中頃に編纂された『延喜式神名帳』には「飛鳥坐神社四座」と記され、当時、月次祭、新嘗祭、相嘗祭の制に預かる名神大社として、朝廷からも重要な扱いを受けていたことがうかがえる。全国に二千八百六十一社あった大内社の中で、相嘗祭が朝廷より供奉される七十一座の一つに数えられていたことは、その格式の高さを物語るだろう。
陽石信仰と「おんだ祭」に込められたもの
飛鳥坐神社が「奇祭」として広く知られるようになった最大の理由は、毎年二月の第一日曜日に執り行われる「おんだ祭」にある。この祭は、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する田植え神事であり、その起源は定かではないものの、古来より伝わる伝統的な祭りである。祭のハイライトは、天狗と翁、牛が登場して田植えの所作を演じ、その後、天狗とお多福が夫婦和合の儀式をユーモラスに演じる「種つけ」という寸劇である。この寸劇で使われた紙は「福の紙」と呼ばれ、持ち帰って閨房で使用すると子宝に恵まれるという伝承がある。
このような露骨なまでに性器を模した信仰や祭事は、現代の感覚からすると異様に見えるかもしれない。しかし、その根底には、古代の人々が抱いた生命の根源に対する畏敬の念と、豊穣への切実な願いがある。境内の至る所に男性器を模した「陽石」や、女性器を模した「陰陽石」が点在しているのも、この信仰の表れである。これらは「むすひの神石」とも呼ばれ、縁結びや子宝にご利益があるとされる。陽石を磐座として山の神を迎えることで、暖かな春が訪れ、命が芽吹くことを祈る「陽石信仰」や、安産祈祷で授与される「産石」に守護神を迎え、子どもの成長を願う「産石信仰」など、この地では自然と人間の生命活動が密接に結びついた信仰が息づいてきたのだ。農耕社会において、子孫繁栄と五穀豊穣は不可分であり、これらを直截的に祈る形が、飛鳥坐神社の祭事や境内の造作に凝縮されている。
原始信仰と国家神道の狭間で
飛鳥坐神社に見られる陽石信仰や夫婦和合の儀式は、現代の神社信仰の中では異例に映るかもしれない。一般的に日本の神社は、伊勢神宮に代表されるように皇室の祖先神を祀る国家神道の流れや、出雲大社のような広範な地域に影響力を持つ大社、あるいは地域の氏神を祀る形態が多い。しかし、飛鳥坐神社は、その歴史の古さからくる多層的な性格を持つ。
例えば、出雲大社もまた大国主神を祀り、縁結びの神として知られるが、飛鳥坐神社のように具体的な性器を模した石が境内を埋め尽くすことはない。その信仰はより象徴的であり、抽象的な概念として「縁」が語られる。また、全国各地に存在する「道祖神」や「塞の神」の中には、男女和合や子孫繁栄を象徴する石像が見られることもあるが、それらは集落の境界や路傍にひっそりと祀られることが多く、飛鳥坐神社のように社殿を中心とした境内に堂々と配置される例は珍しい。
この対比から見えてくるのは、飛鳥坐神社が、古代のより原始的な自然信仰や生殖器崇拝を、国家形成期の中央集権的な神道体系が確立されていく中で、ある種の形で内包し、存続させてきた歴史である。飛鳥の地は、日本の国家形成の中心地でありながら、同時に土着の信仰が強く根付いていた場所でもあった。国家神道の形が整えられていく過程で、多くの土俗的な要素は整理・統合されるか、あるいは辺縁へと追いやられていった。しかし、飛鳥坐神社は、その中心部ともいえる飛鳥神奈備という神聖な土地において、あえてその原始的な形態を色濃く残し続けたのである。これは、この地の信仰が持つ根源的な力が、時の権力をも凌駕するほど強固であったか、あるいは、国家の根幹を支える「生」と「豊穣」という普遍的な願いを体現する存在として、その特異性が許容されてきた結果とも考えられる。
古代の記憶を伝える、現代の飛鳥
現在、飛鳥坐神社は奈良県明日香村の歴史的な風景の中に、静かにしかし確かな存在感を持って鎮座している。観光客は、飛鳥寺や石舞台古墳といった主要な史跡と合わせて、この神社を訪れることが多い。境内は自由な拝観が可能であり、参道脇や本殿の周囲には、大小様々な陽石や陰陽石が点在している様子を間近に見ることができる。これらは、訪れる人々に、古代の人々が抱いた生命への率直な祈りを伝える。
神社は創始以来、飛鳥家が代々宮司を務めており、現在の宮司は八十七代目に当たるという。これは、千二百年以上にわたり、この地と信仰が途切れることなく受け継がれてきた証しである。近年では、2001年に丹生川上神社上社(大滝ダムに水没したため遷座)の本殿が移築され、飛鳥坐神社の本殿として使用されている。これは、異なる神社の歴史がこの飛鳥の地に集約されるという、現代における新たな歴史の積み重ねともいえる。
毎年2月に行われる「おんだ祭」は、今も多くの参拝客で賑わう。特に、天狗やお多福が夫婦和合の儀式を演じる際には、笑い声が境内に響き渡り、五穀豊穣と子孫繁栄への願いが、現代の世においても変わらず人々の心に宿っていることを示している。祭の前後には、天狗や翁が竹棒で参拝者のお尻を叩いて回る厄払いの神事も行われ、叩かれた人々は笑顔を見せる。この光景は、古来の信仰が形を変えながらも、現代の生活の中に息づいている証拠だろう。
飛鳥の神奈備が問いかけるもの
飛鳥坐神社を巡る旅は、単に古い社を訪れる以上の体験をもたらす。そこには、日本の歴史が教科書の中で語る「飛鳥時代」の華やかさとは異なる、土着の、そして根源的な生命への信仰の姿がある。陽石や「おんだ祭」に見られる直截な表現は、現代社会においてともすれば忘れられがちな「生み出す力」「育む力」への純粋な希求を、改めて私たちに突きつける。
この神社が、古代日本の中心地でありながら、このような原始的な信仰形態を色濃く残し続けた事実は、国家という枠組みが形成される以前から存在した、人々の暮らしと信仰の深い結びつきを物語る。それは、権力や政治が移ろいゆく中でも、五穀豊穣と子孫繁栄という、生命の営みの根幹をなす願いだけは、決して揺らぐことのない普遍的な価値として、この地で護られてきたことの表れだろう。飛鳥坐神社は、古代の記憶を現代に伝えながら、私たち自身の足元にある「生」の営みについて、静かに問いかけ続けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 飛鳥坐神社nara.mytabi.net
- 飛鳥坐神社jinja-net.jp
- 飛鳥坐神社 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 導きの神様を祀り、遍(あまね)く人々の幸せを願う|飛鳥坐神社|宮司/飛鳥 弘文 氏|特別講話47|特別講話|祈りの回廊 [奈良県 秘宝・秘仏特別開帳]inori.nara-kankou.or.jp
- 飛鳥坐神社とは|飛鳥坐神社公式ホームページasukaniimasujinja.jp
- 飛鳥坐神社 - 公益財団法人 古都飛鳥保存財団|日本人の心の故郷『飛鳥』asukabito.or.jp
- 飛鳥坐神社 | 明日香村観光サイト あすか時間asukamura.com
- 飛鳥坐神社genbu.net