2026/6/23
韮崎の歴史は七里岩の断崖と河川の治水で紡がれた

韮崎市の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
韮崎市の歴史は、約20万年前に形成された七里岩の断崖と、釜無川・御勅使川の治水事業、そして甲州街道の宿場町としての役割によって形作られてきた。縄文時代から武田氏の興亡、江戸時代の交通の要衝、近代の鉄道開通まで、この地の自然条件と人々の営みが織りなす物語を辿る。
七里岩の裾野に刻まれた時間
山梨県北西部に位置する韮崎市に足を踏み入れると、まずその視界を圧倒するのは、西に連なる南アルプスの山々と、市の中央を南北に貫く巨大な台地「七里岩」の存在だろう。約20万年前の八ヶ岳の大崩壊によって生じた岩屑流が、釜無川と塩川の浸食作用によって削り取られ、比高40メートルから150メートルもの断崖となって約30キロメートルにわたって続くこの地形は、韮崎の風景そのものだ。 市名の「韮崎」も、この七里岩の先端がニラの葉のように尖っていることに由来するという説がある。この峻険な自然の造形は、単なる景観としてだけでなく、この地で暮らした人々の営みや歴史の舞台装置として、絶えずその姿を変えながら存在し続けてきた。人々はどのようにこの地形と向き合い、どのような痕跡を刻んできたのか。韮崎の歴史は、この壮大な七里岩と、その裾野を流れる河川、そしてそこに生きた人々の知恵と努力によって紡がれてきた物語である。
遥かなる縄文から甲斐源氏の胎動へ
韮崎の歴史は、七里岩が形成されるはるか以前、旧石器時代にまで遡る。市内の遺跡からは縄文時代中期の集落跡が多数確認されており、穂坂町三ツ沢遺跡や藤井町坂井遺跡などからは、約4,000年から5,000年前の縄文式・弥生式土器が出土している。特に女夫石遺跡では、巨大な岩を中心に配石遺構や土偶、石棒などが発見されており、当時の縄文人が自然とどのように向き合い、精神的な営みを育んでいたのかをうかがわせる。また、石之坪遺跡からは縄文時代中期の集落跡や、抽象的な文様が施された土器、美しい土偶が出土しており、当時の高度な文化を示すものとして注目される。弥生時代には東日本最古級の水田跡が検出され、農耕文化が展開していたことも明らかになっている。
古代、この地は律令制度のもとで巨麻郡に属し、官牧である穂坂牧などが存在したとされている。そして、中世へと時代が移ると、韮崎は甲斐源氏、ひいては戦国大名武田氏の発祥の地として歴史の表舞台に登場する。11世紀頃、常陸国から甲斐国に入府した源義清とその子清光が甲斐源氏の祖となり、清光の次男である信義がこの地で「武田」の姓を名乗ったことから、武田氏の歴史が始まったとされる。 神山町武田には武田信義の館跡が、そしてその背後には要害としての白山城跡が築かれた。信義が勧請したと伝わる武田八幡宮は、創建から1200年を超える歴史を持つ甲斐武田家の氏神として深く信仰され、後の武田信虎や信玄によって本殿が再興されるなど、武田氏の隆盛とともにその威容を誇った。願成寺もまた、武田信義の菩提寺とされ、信義が造立したとされる木造阿弥陀如来及び両脇侍像(国指定重要文化財)や、信義の墓塔と伝えられる五輪塔が残る古刹である。
戦国時代、武田氏が甲斐国を統一し、信玄の時代にはその最盛期を迎える。しかし、天正9年(1581年)、織田・徳川勢の侵攻に備え、武田勝頼は七里岩台地の突端に新府城を築き、甲府からの府中移転を試みる。この城は、断崖絶壁の地形を巧みに利用した要害であり、武田氏の最後の拠点として期待された。しかし、翌天正10年(1582年)に織田・徳川勢の甲斐侵攻が始まると、勝頼は新府城を放棄せざるを得なくなり、武田家は滅亡へと向かうこととなる。新府城跡は、武田氏の栄枯盛衰を物語る重要な史跡として、現在もその姿をとどめている。
甲州街道の要衝と水の記憶
江戸時代に入ると、韮崎は甲州街道の宿場町「韮崎宿」として発展する。甲府から数えて39番目の宿場であり、単なる甲州街道の中継点にとどまらない役割を担った。韮崎宿は、駿河(静岡)と信州諏訪(長野)を結ぶ駿信往還(西郡路)、そして信州佐久(長野)を結ぶ佐久往還が交差する、重要な交通の要衝であった。人や物資、情報、そして文化がこの地を行き交い、最先端の情報収集・発信基地としての機能も果たしていたと言われる。
宿場の特徴として、道に対して家屋がやや斜めに立ち並ぶ「鋸歯状」の町並みが散見される。これは間口税を安価に抑えるための工夫、あるいは冬に吹き荒れる八ヶ岳おろし(冷たく強い季節風)を避けるための生活の知恵であったなど、諸説ある。また、富士川水運の終点に近い物資の集散地でもあり、釜無川の水運からの荷揚げ地界隈は、馬で荷物を運ぶ「中馬」で賑わった。信州方面からは米や麦が、静岡方面からは塩や海産物などが運ばれ、交易が盛んに行われた。宝暦3年(1753年)には、徳川御三卿の一つである一ツ橋家が巨摩郡の中心地として一ツ橋陣屋を置いたことからも、この地の重要性がうかがえる。
しかし、この地の繁栄は、常に釜無川の存在と隣り合わせであった。甲府盆地の北西端に位置する韮崎は、釜無川や御勅使川といった急流河川の氾濫原に近く、古くから水害に悩まされてきた歴史を持つ。戦国時代の武田信玄は、この水害から領民を守るため、大規模な治水事業に取り組んだことで知られる。特に釜無川と御勅使川の合流地点では、両河川の激流が甲府盆地に流れ込むのを防ぐため、画期的な治水施設を整備した。
その代表的なものが「信玄堤」に代表される一連の治水施設群である。御勅使川の水を二分して水勢を弱める「将棋頭」と呼ばれる石堤や、釜無川の主流を高岩に衝突させて流れを制御する工夫など、当時の土木技術の粋を集めたものであった。これらの施設は、現代の治水技術にも通じる先見性を持ち、甲府盆地の安定した開発に大きく貢献した。信玄は、堤防の管理を住民に命じるとともに税を免除するなど、住民参加型の治水体制を築き、その重要性を領民に周知徹底したとされる。現在でも、出水期前に水防祭り「御幸さん」が毎年行われ、その伝統が引き継がれているという。
対比から浮かび上がる地域の個性
韮崎の歴史を語る上で、その地形と治水、そして交通の要衝としての役割は欠かせない。この三つの要素が絡み合い、この地独自の発展を促してきた。他の地域と比較することで、韮崎の個性はより鮮明になるだろう。
例えば、交通の要衝という点では、東海道の宿場町と比較できる。東海道の宿場は、京と江戸を結ぶ主要幹線として、幕府の統制下に置かれ、人馬の継ぎ立てや物資の輸送において画一的な役割を担うことが多かった。しかし、韮崎宿は甲州街道だけでなく、駿信往還や佐久往還といった地方道が交差する結節点であった点が異なる。これにより、単なる通過点ではなく、より広範な地域からの人や物の交流が生まれ、商業的な多様性が育まれたと考えられる。宿場の町割りに見られる「鋸歯状」の家並みも、画一的な東海道の宿場にはあまり見られない特徴であり、地域の気候や税制といった実生活に根差した工夫が色濃く反映されていると言えるだろう。
また、河川の治水という観点では、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域の治水事業と比較すると興味深い。木曽三川では、江戸時代を通じて大規模な「宝暦治水」など、幕府や藩による国家的な事業として堤防建設や川筋の付け替えが行われた。しかし、これはしばしば周辺地域の犠牲の上に成り立ち、大きな摩擦を生んだ歴史がある。これに対し、武田信玄による釜無川・御勅使川の治水は、戦国大名による領国経営の一環として行われたものの、住民の負担軽減や祭りを通じた意識の共有など、地域社会との協調を重視した側面が見られる。「将棋頭」に代表される自然地形を活かした工法は、現代の「流域治水」の思想にも通じるものがあり、単に強固な堤防を築くだけではない、地域全体の水系を多角的に捉える視点が早くから存在したことを示唆している。
さらに、武田氏の発祥地としての歴史は、他の戦国大名の本拠地と比較できる。例えば、織田信長の尾張、徳川家康の三河といった地域は、明確な経済基盤や地理的優位性を持って発展した。韮崎の場合、武田氏がこの地で生まれた背景には、源氏が甲斐国に入府し、その一族が分かれていく中で、七里岩と釜無川が織りなす要害の地が、新たな武士団の拠点として選ばれたという経緯がある。新府城が築かれた際も、七里岩の断崖を利用した要塞性が重視された。これは、平野部の城下町とは異なり、自然の要害を最大限に活用し、防御性を高めることで勢力を拡大していった武田氏の戦略と深く結びついていると言える。韮崎は、その地形が単なる背景ではなく、武田氏の勃興から滅亡に至るまで、常にその歴史の根幹を支える存在であったのだ。
現代に息づく歴史の痕跡と新たな息吹
明治時代に入ると、韮崎の歴史は新たな局面を迎える。明治36年(1903年)に中央本線が開通し、韮崎駅が開業する。鉄道ルートの選定には、七里岩台地を走る現在のルートと、釜無川右岸を走るルートの二案があったという。最終的に、水害に弱い河川越えの橋が多い釜無川右岸ルートではなく、七里岩台地を通るルートが選ばれた背景には、安全性や建設コスト、そして地形的な制約が考慮された結果であろう。鉄道の開通は、それまでの甲州街道や富士川水運に代わる新たな物流・交通の大動脈となり、韮崎の産業構造や人々の生活に大きな変化をもたらした。かつて宿場町を賑わせた中馬稼ぎの姿は消え、鉄道が新たな経済活動の中心となったのだ。
戦後、1954年(昭和29年)10月10日には、韮崎町と周辺の10ヶ村が合併し、現在の韮崎市が誕生した。人口32,264人、戸数6,031戸から始まった新しい市は、高度経済成長期を経て、御勅使川工業団地の造成など工業化も進められた。1982年(昭和57年)には中央自動車道韮崎インターチェンジが開設され、再び陸上交通の要衝としての地位を確立する。
現代の韮崎市には、過去の歴史が様々な形で息づいている。武田八幡宮や願成寺、新府城跡といった武田氏ゆかりの史跡は、国の重要文化財や史跡として手厚く保護され、多くの歴史愛好家が訪れる。韮崎市民俗資料館では、旧石器時代から近世までの考古資料や、明治から昭和にかけての生活道具が体系的に展示され、地域の歴史を学ぶことができる。また、屋外には実際に使われていた水車や、韮崎宿の豪商の蔵座敷が移設展示されており、往時の暮らしぶりを偲ばせる。
一方で、韮崎は「サッカーのまち」としても知られる。全国高等学校サッカー選手権大会で5回の準優勝を誇る山梨県立韮崎高等学校や、ヴァンフォーレ甲府の主要ホームタウンであることなど、現代の地域文化としてスポーツが深く根付いている。また、ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士の出身地でもあり、韮崎大村美術館や博士の生家である螢雪寮(国登録有形文化財)は、文化・芸術の拠点として機能している。 甲州街道沿いの韮崎宿の町並みには、今も鋸歯状の古い家屋が残り、その間口の狭さゆえに新しい事業に取り組む若者たちが集まり、かつての商業的な活気が新たな形で生まれつつあるという。これは、歴史が単なる過去の遺物ではなく、現代の暮らしの中で再解釈され、新たな価値を生み出す源となり得ることを示している。
七里岩が語りかける土地の条件
韮崎市の歴史を辿る中で見えてくるのは、この土地が持つ特異な地理的条件が、人々の営みに深く影響を与え続けてきたという事実だ。七里岩という圧倒的な自然の造形は、縄文時代から人々を惹きつけ、集落形成の舞台となり、中世には武田氏の要害としての城が築かれる基盤となった。同時に、釜無川と御勅使川という二つの急流河川は、豊かな水資源をもたらすと同時に、常に水害の脅威を突きつけた。この厳しさがあったからこそ、武田信玄に代表される大規模な治水事業が生まれ、土地を安定させ、人々の生活を守るための知恵と技術が培われたのだ。
韮崎の歴史は、決して平坦な道のりではなかった。しかし、その厳しさの中にこそ、この地域の人々が自然と共生し、時には克服しようと試みてきた痕跡が深く刻まれている。甲州街道の宿場町として、あるいは鉄道の要衝として、常に人や物の交流の結節点であり続けたのは、七里岩が甲府盆地の北西の入り口を形成し、信州方面への自然な門戸となっていた地理的条件に他ならない。
現代の韮崎に立つとき、七里岩の断崖を改めて見上げれば、そこに刻まれた地層の襞の一つ一つが、太古の八ヶ岳の噴火から、縄文人の営み、甲斐源氏の胎動、武田氏の興亡、そして江戸時代の宿場の賑わい、近代の鉄道開通、現代の産業発展に至るまで、この地で紡がれてきた時間の重層性を静かに物語っているように感じる。それは単なる過去の出来事の羅列ではなく、土地の条件が人々の選択と努力を誘発し、形作ってきた、途切れることのない連続性である。この土地の歴史は、自然の厳しさと恵みの間で、人々がいかにたくましく生き抜いてきたかを示す、具体的な証左として今もそこに存在しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。