2026/6/25
清里ブームはなぜ起きた?北杜市が「高原の原宿」と呼ばれた時代

北杜市はリゾート地みたいな感じだったのか?
キュリオす
北杜市、特に清里高原は、1970年代から80年代にかけて「高原の原宿」と呼ばれ、若者を中心に一大ブームを巻き起こした。その背景には、交通アクセスの向上、時代が求める文化との親和性、そして開拓の歴史が複合的に作用した。
八ヶ岳の裾野に広がる「リゾート」の輪郭
山梨県の北西部に位置する北杜市を訪れると、その広大な土地の表情は一様ではないことに気づく。南アルプスや八ヶ岳の雄大な山並みに抱かれ、清らかな水と長い日照時間に恵まれたこの地は、古くからの農村風景を残す一方で、洗練されたカフェや美術館、そして数多くの別荘や宿泊施設が点在する。この多様な姿に触れるたび、「北杜市は果たしてリゾート地と呼べるのだろうか」という問いが立ち上がる。もしそうであるならば、それはいつ、どのようにして形作られ、どのような意味合いを持つに至ったのか。その問いの答えは、この土地が辿ってきた独特の歴史と、そこに生きた人々の営みの中に隠されている。
開拓の苦難から清泉寮の光へ
北杜市の一部である清里高原は、かつて「念場ヶ原」と呼ばれる、八ヶ岳の南東麓に広がる厳しい荒野だった。標高1,200メートルを超える高地ゆえに水は冷たく、冬には最低気温がマイナス20度にまで下がることも珍しくなかったという。この地に人の暮らしが本格的に始まったのは、意外にも近代に入ってからである。
1938年(昭和13年)、東京の水源確保のために建設された小河内ダム(現在の奥多摩湖)によって故郷を水没させられた丹波山村や小菅村の人々が、この念場ヶ原開拓地へと移住を余儀なくされた。彼らは筆舌に尽くしがたい苦労を乗り越え、この寒冷な地で粟や蕎麦、大豆、ジャガイモなどの雑穀栽培を始めたが、その生活は極めて厳しかったとされる。
こうした開拓の苦境に光を当てたのが、アメリカ人宣教師ポール・ラッシュである。関東大震災後の日本再建に尽力するため来日した彼は、1938年、この清里の地に青少年育成のためのキャンプ施設「清泉寮」を建設した。 ラッシュは、単なる宗教活動に留まらず、高冷地での酪農技術の導入や、農村の自立を支援する「清里農村センター(KEEP協会)」の設立を通じて、地域の農業と生活の基盤づくりに貢献した。彼は自らの生活を顧みず開拓民を支援し、「清里開拓の父」と称されるようになる。 清泉寮は、その赤い三角屋根の建物が清里のシンボルとなり、ジャージー牛の牧場を中心に、地域の新たな産業と文化の核を形成していく。
鉄道の開通も、清里の発展に大きな影響を与えた。1935年(昭和10年)には小海線の清里・信濃川上間が開通し、小淵沢から小諸までの全線が開通したことで、この高原地帯は首都圏や佐久方面とのアクセスが格段に向上した。 これにより、物流が活発化し、人の往来が増えることで、清里は農村としての基盤を固めつつ、観光地としての萌芽を見せ始めたのである。
高原に咲いた「原宿」という夢
清里が「リゾート地」としてのイメージを確立したのは、戦後の高度経済成長期から、特に1970年代から1980年代にかけてのことであった。この時期、清里高原は女性ファッション誌『an・an』や『non-no』などで盛んに紹介され、若者を中心に「清里ブーム」と呼ばれる現象を巻き起こした。
ブームの背景には、いくつかの要因が重なっていた。まず、首都圏からの交通アクセスが改善されたことである。1976年(昭和51年)には中央自動車道の小淵沢インターチェンジの開通に先駆け、「八ヶ岳横断有料道路」(現在の八ヶ岳高原ライン)が開通し、八ヶ岳方面へのアクセスが飛躍的に向上した。 これにより、自家用車での来訪が容易になり、多くの観光客が清里へと押し寄せた。
次に、当時の若者文化との親和性があった。清泉寮が持つ牧歌的な風景や、八ヶ岳を背景にした異国情緒あふれる景観が「日本のスイス」と称され、都会にはない開放感や新鮮さが若者の心を捉えた。 清里駅前には「高原の原宿」とまで呼ばれる商店街が突如として形成され、メルヘンチックなデザインのペンションやタレントショップ、ファンシーグッズ店が次々とオープンした。 1975年には87万人だった観光客数は、1989年には約3倍の254万人に達し、ペンションの数は130棟以上にも膨れ上がったという。
また、清里の開拓の歴史そのものが、一種の物語性として受け入れられた側面もあるだろう。ポール・ラッシュが築いた清泉寮は、単なる宿泊施設ではなく、高冷地酪農や青少年育成という理念に基づいた場所であり、その背景が「単なる観光地ではない」という深みを与えた。 ジャージー牛乳を使ったソフトクリームは、当時の若者にとって清里を訪れた証しであり、一種のステータスシンボルでもあったという。 このように、自然の美しさ、交通の利便性、そして時代が求める文化的な要素が複雑に絡み合い、清里は一種の「夢のリゾート地」として急速にその姿を変えていったのである。
高原リゾートを形成する多様な条件
清里高原がリゾート地として発展した背景には、いくつかの地理的・社会的条件が複雑に絡み合っていた。まず、その地理的条件である。標高1,000メートルを超える高地に位置するため、夏でも平均気温が20度前後と涼しく、避暑地としての魅力が大きかった。 八ヶ岳の南東麓に広がる広大な裾野は、牧歌的な風景を生み出し、都会の喧騒から離れた開放感を提供した。遠くには富士山を望むこともでき、その景観は多くの人々を惹きつけたのである。
次に、交通の便の良さが挙げられる。中央自動車道と八ヶ岳横断有料道路の開通、そして小海線という高原鉄道の存在は、首都圏からのアクセスを容易にした。特にマイカー時代に入ると、手軽に訪れることができる高原リゾートとして、その優位性は高まった。
さらに、ポール・ラッシュに代表される開拓者たちの存在が、清里の独自性を形作った。彼らが築いた高冷地農業や酪農の基盤は、清泉寮に代表される牧場施設や、そこで提供される乳製品といった具体的な「観光資源」を生み出した。単なる自然景観だけでなく、そこで営まれる「暮らし」が観光の魅力の一部となったのである。 このように、清涼な気候、雄大な自然景観、良好な交通アクセス、そして独自の開拓史に裏打ちされた文化が複合的に作用し、清里高原は他の地域とは異なる個性を持つリゾート地へと成長していったのだ。
他の高原リゾートとの対比から見えてくるもの
日本における高原リゾートの歴史を紐解くと、清里高原が辿った道のりは、軽井沢や箱根、那須といった他の著名なリゾート地と共通する部分と、決定的に異なる部分がある。例えば、軽井沢は明治時代から外国人宣教師や外交官の避暑地として発展し、上流階級の別荘文化を形成してきた。 箱根もまた、江戸時代からの温泉地としての歴史を持ち、近代以降は鉄道や道路の整備とともに大衆的な観光地へと変貌を遂げた。那須も御用邸の存在や、広大な牧草地を生かしたリゾート開発が進んだ地域である。
これらのリゾート地に共通するのは、まず「交通の便の良さ」である。いずれも首都圏からのアクセスが比較的容易であり、鉄道や高速道路の整備が観光客の増加に直結してきた。また、「豊かな自然環境」も不可欠な要素である。山や湖、温泉など、都会にはない景観や体験が、リゾートとしての価値を高めてきた。
しかし、清里高原には、軽井沢のような「歴史ある上流階級の保養地」としての始まりとは異なる、より「開拓」という側面が色濃く残る。清里が本格的に注目され始めたのは、小河内ダム建設による移住者の受け入れという、厳しい現実からだった。 ポール・ラッシュの働きかけも、当初は農村の復興と青少年の育成という、より実用的な目的を帯びていた。 つまり、清里は最初から「リゾート」として計画されたわけではなく、厳しい環境の中で生きる人々の営みの中から、徐々に観光的な魅力が育まれていった点が特徴的だと言えるだろう。
また、1970年代から1980年代にかけての「清里ブーム」は、特定の若者文化と結びつき、「高原の原宿」と呼ばれるようなメルヘンチックな街並みが一時的に形成された。 これは、軽井沢が持つ洗練された別荘文化や、箱根の温泉旅館街とは一線を画す、ある種のポップで刹那的な魅力であった。バブル経済の崩壊とともにこのブームは急速に衰退したが、その痕跡は今も清里駅周辺の建物に見ることができる。 このように、清里は「開拓」という土台の上に、若者文化という一時的な花を咲かせ、そしてその後の変化を受け入れてきたという点で、他の高原リゾートとは異なる独自の歴史を刻んでいるのだ。
現代の北杜市に息づく高原の風景
1990年代のバブル崩壊とともに清里ブームは終焉を迎え、多くの店舗が閉鎖され、地価も大幅に下落した。 しかし、北杜市全体がリゾートとしての魅力を失ったわけではない。清里高原は今も、夏には避暑地として、冬にはサンメドウズ清里スキー場などでスキーリゾートとして機能している。 また、小淵沢地域には、かつてマイカルグループが開発し、後に星野リゾートが再生した「リゾナーレ小淵沢」のような大型リゾート施設があり、イタリア人建築家マリオ・ベリーニが設計した中世ヨーロッパの城塞都市を思わせる独特の街並みが、今も多くの観光客を惹きつけている。
現代の北杜市における「リゾート」は、特定のブームに依存するのではなく、その多様な地域資源を生かした多角的な展開を見せている。八ヶ岳南麓に広がるコテージ群は、貸別荘として利用され、長期滞在型の休暇を提供する。 豊かな自然環境を生かした登山やトレッキング、サイクリングといったアウトドアアクティビティも盛んである。 また、清泉寮に代表される牧場では、酪農体験や地元の新鮮な乳製品を楽しむことができ、清里開拓の歴史に触れる機会も提供されている。
北杜市は、2004年(平成16年)に7町村が合併して誕生し、2006年(平成18年)には小淵沢町を編入して現在の市域となった。 その後、市は地域全体の観光振興を目指し、「八ヶ岳観光圏」として長野県富士見町、原村と連携し、広域での長期滞在型観光を推進している。 近年では、インバウンド誘致にも力を入れており、タイやベトナム、台湾をターゲット国として、多角的な情報発信や旅行商品の造成に取り組んでいる状況だ。 2027年には会員制リゾートホテル「サンクチュアリコート八ヶ岳」の開業も予定されており、新たなリゾートの形が模索され続けている。 かつての「高原の原宿」のような熱狂はないものの、北杜市は、より持続可能な形で、自然と文化、そして人々の暮らしが共存する高原リゾートとしての姿を築きつつあるのだ。
「リゾート」という言葉が内包する多層性
北杜市が「リゾート地」であったかという問いに対し、その答えは単純な「はい」や「いいえ」では括れない。そこには、時代とともに変化する「リゾート」という言葉の多層性が凝縮されていると言えるだろう。
清里高原の歴史を振り返れば、当初は小河内ダム建設による移住者たちが開拓した厳しい農村であり、リゾートとは程遠い土地であった。しかし、ポール・ラッシュという一人の人物がもたらした酪農と青少年育成の理念、そして清泉寮という拠点が、後に観光地としての土台を築いた。 その後訪れた1970年代から80年代の「清里ブーム」は、若者文化と結びついた刹那的な熱狂であり、「高原の原宿」というキャッチフレーズに象徴されるように、特定の時代精神を色濃く反映したリゾートの姿であった。
このブームが去った後、北杜市は、特定の流行に左右されない、より本質的な魅力へと回帰しようとしているように見える。八ヶ岳の雄大な自然環境、清らかな水、長い日照時間といった地理的優位性は変わらない。 そして、開拓の歴史や、ポール・ラッシュが残した遺産は、単なる観光スポットではなく、この土地の精神的な深みとして、今もなお息づいている。
現代の北杜市が目指すのは、自然体験型観光や長期滞在、そして地域全体での連携を通じた、持続可能なリゾートのあり方だろう。 それは、かつての「メルヘンチックな街並み」や「タレントショップ」といった表層的な魅力だけでなく、この土地が持つ本来の豊かさ、すなわち自然と共生する暮らしや、地域に根ざした文化そのものを「リゾート」として提供しようとする試みである。北杜市は、単なる避暑地やスキーリゾートといった機能的な側面だけでなく、その土地が持つ歴史や文化、そして人々の営みまでもを内包する、多義的な「リゾート」の可能性を今も探り続けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 清里の歴史。二人の偉大な人物の物語をご紹介します。 | NPO法人清里観光振興会kiyosato.gr.jp
- 清里タイムライン | 八ヶ岳清里資料館/八ヶ岳清里アーカイブkiyosato3545.com
- 清里高原yamanashi.mytabi.net
- natsu.gsshurakumachinami.natsu.gs
- バブル期には原宿並に若者でごった返した「清里高原」が寂れてシャッター街になっている件! | 知の冒険chinobouken.com
- 高原の歴史を知る一日 | AT情報研(株式会社エイ・ティ情報研)at-j.co.jp
- 山梨・清里|開拓のシンボルといえる清泉寮について、宿泊・レストラン情報・ソフトクリーム・限定グッズなど一挙にご紹介 | るるぶ+plus.rurubu.jp
- 清泉寮 - 清里高原 ソフトクリーム・体験プログラム・お食事・ご宿泊 清里高原の観光施設 - 北杜市 山梨県seisenryo.jp