社殿を建て替える代わりに、なぜ諏訪の氏子たちは巨木の「四隅」を立て直すのか

社殿の四隅に立つ巨大な棒
諏訪大社本宮の拝殿前に立つと、真っ先に目に入るのは建物の豪華さではなく、その四隅に垂直に突き刺さった巨木である。皮を剥ぎ、先端を三角錐に削り落としたモミの丸太が、社殿を囲むようにそびえている。高さは17メートル近く、太さは大人が両手を回しても届かない。この丸太は「御柱(おんばしら)」と呼ばれる。
諏訪湖を挟んで南北に位置する諏訪大社は、上社(本宮・前宮)と下社(秋宮・春宮)の四つの宮社からなる。それぞれの境内に4本ずつ、計16本の巨木が建てられている。この16本の柱を数えで7年に一度、寅年と申年に山から曳き出し、境内に建て替える神事を「式年造営御柱大祭」、通称・御柱祭と呼ぶ。
一般に神社の「式年造営」といえば、伊勢神宮のように社殿そのものを真新しく建て替える建築儀礼を連想する。諏訪大社でも宝殿の造り替えと御霊代の遷座は行われるが、人々の関心と莫大なエネルギーが注ぎ込まれるのは、社殿そのものではなく、その外囲に立つ16本の丸太の曳行と建立だ。
急坂から巨木を落とす「木落し」や、雪解けの濁流を渡る「川越し」など、危険を伴う力強い曳行ばかりが喧伝される。車輪もコロも使わず、何千人もの人力だけで十数トンの丸太を20キロメートル以上も引きずってくる。なぜ諏訪の人々は、社殿の造営以上に、その周りに立つ「4本の柱」を立て替えることに、これほどの情熱を注ぎ続けてきたのだろうか。
桓武の時代から届く記録
御柱祭がいつ始まったのか、正確な起源は定かではない。古代の自然信仰や巨木信仰に根ざすという説もあるが、文字資料として明確に登場するのは平安時代初期のことだ。
1356年(正平11年)に編纂された『諏訪大明神画詞』には、「寅・申の干支に当社造営あり、一国の貢税、永代の課役、桓武の御宇に始まれり」との記述がある。804年(延暦23年)、桓武天皇の時代には、信濃国全体の国家的な義務(一国役)として諏訪社の造営が行われていたとされる。背景には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東征の折に諏訪社へ戦勝を祈願し、その神徳に応えるために朝廷が信濃国全体に造営を負担させたという伝承も残る。
鎌倉時代に入ると、諏訪社は東国屈指の軍神として武士たちの厚い崇敬を集めた。『吾妻鏡』の文治2年(1186年)の条には、源頼朝が諏訪社の「御狩」と「拝殿修造」を先例通り執り行わせた記録がある。さらに1249年(建長元年)の文書によれば、当時は二月に当国中に御符を配って費用を集め、四月に御柱を曳き、御殿の修造は安曇・筑摩の両郡が負担して3万5000人の人夫を動員したと記されている。すでにこの時代、社殿の造営と御柱の曳行は、分担された体系的なシステムとして機能していた。
戦国時代には武田信玄が諏訪信仰を深く崇拝し、祭典が盛大に行われるよう様々な手配を行った。そして江戸時代に入ると、信濃一国による負担から、諏訪藩の領民=地元氏子を中心とする現在の奉仕体制へと移行していく。
明治時代以降、行政区画の変遷にともなって担当地区の再編が行われた。1879年(明治12年)の諏訪郡発足を経て、1902年(明治35年)には氏子数の急増に対応するため、下社担当だった4つの村(中洲・湖南・四賀・豊田)が上社担当へと移管された。この再編により、上社と下社の役割分担や慣習の違いが明確な形で現在に受け継がれることとなった。
現在の担当地区は、上社が茅野市、諏訪市の一部、富士見町、原村の氏子(約11万人)で構成される。対する下社は、岡谷市、下諏訪町、諏訪市上諏訪地区の氏子(約8万6000人)が担う。
面白いのは、上社と下社で御柱の決定方法や曳行のしきたりが大きく異なる点だ。上社では、御柱年の2月15日に上社本宮で「抽籤式(ちゅうせんしき)」を行い、くじ引きによってどの地区が16本のうちどの柱(本宮一〜四、前宮一〜四)を担当するかを決める。そのため氏子たちは、正月から抽籤式の日まで毎朝神社に祈願に通う。
一方の下社では、地区と担当する柱(秋宮一〜四、春宮一〜四)の関係があらかじめ固定されており、抽籤は行われない。山出しと里曳きで担当する地区が組み替わる複雑な伝統を守り続けている。同じ諏訪大社の神事でありながら、上社と下社で異なるルールが並存している事実は、この祭りが単一の権力によって統一されたものではなく、各地の共同体の慣習を呑み込みながら重層的に形成されてきたことを物語っている。
二つの山と十六本の樅
御柱祭は、山から木を伐り出す工程から始まる。上社と下社では、使用する木材もその準備工程も異なる。
上社の御柱は、八ヶ岳山麓の御小屋山(茅野市玉川の諏訪大社境内地・社有林)から伐り出される。御柱年の前年あるいは当年の3月に、代々山を管理してきた「山作衆(やまづくり)」の手によって朱塗りの神斧が入れられる。伐採直後のモミの大木は水分を多く含み、1本あたりの重さは10トンから15トンにおよぶ。一番大きい「本宮一之御柱」は、15トンを超えることもある。
上社の御柱の最大の特徴は、丸太の前後に「めどてこ(針孔梃子)」と呼ばれるV字型の巨大な角のような梃子棒を取り付けることだ。このめどてこを左右に揺らすことで底面の接地抵抗を減らし、重い丸太を前に進める。めどてこには数十人の若者が乗り、華やかに「おんべ」を振りながら曳行の指揮を執る。
これに対し、下社の御柱は霧ヶ峰高原に続く東俣国有林から伐り出される。下社では御柱年の1年前にはすでに伐採を済ませ、「棚木場(たなこば)」と呼ばれる場所に安置して1年間乾燥させる。そのため、上社の柱に比べると重量はやや軽く、6トンから8トンほどになる。下社の御柱にはめどてこは取り付けられず、太い一本の丸太を直接曳きずっていく。
祭りは大きく分けて、4月に行われる「山出し」と、5月に行われる「里曳き」の二段階で進行する。
山出しのクライマックスが「木落し」だ。上社の木落しは、傾斜約30度、距離約80メートルの坂で行われる。めどてこに大勢の氏子を乗せたまま急坂を駆け下りるため、柱が横転すれば重大な事故につながる絶叫の瞬間である。木落しを終えた上社の御柱は、さらに雪解け水で冷え切った宮川(川幅約40メートル)を渡る「川越し」へと向かう。
下社の木落しはさらに苛烈で、木落し坂の最大斜度は約35度、距離は約100メートルに及ぶ。追い掛け綱が斧で断ち切られると、巨木は土煙をあげて斜面を滑り落ちる。
里曳きでは、街中をゆっくりと曳行し、それぞれの神社(本宮・前宮・秋宮・春宮)の境内へと引き付けられる。ここで御柱の先端を三角錐の形に削り落とす「冠落し」の儀式が行われる。これは御神木としての威厳を整える意味を持つ。
そして最終工程が「建御柱(たてみはしら)」である。柱にワイヤーを掛け、「車地(くるまじ)」と呼ばれる木製の巻き揚げ装置を使って、人力で垂直に立ち上げていく。柱が持ち上がるにつれて、柱の上に跨がった氏子たちが天に向かっておんべを振り上げる。四隅に柱が立ち上がり、根元が深く埋め戻されて、ようやく一連の神事は完結する。
ここで冒頭の問いに戻る。なぜ社殿そのものではなく、四隅に立てる丸太にこれほどの労力を払うのか。
重要な事実は、宝殿の建て替えと御霊代の遷座は、神職たちの手によって密やかに行われるという点だ。下社では里曳きの前夜、上社では里曳き翌月の6月15日に、厳かな暗闇の中で宝殿遷座祭が執り行われる。
つまり、建築としての社殿の更新は神職の領域であり、氏子たちの役割は「神聖な領域の四隅を確定し直すこと」にある。神社という空間は、社殿という建物だけで完成するのではない。その四隅に巨木を建て、境内という結界を定期的に張り直すことで初めて、そこが神の鎮座する聖域として再定義される。氏子たちが命がけで曳いてくる16本の柱は、神殿を建てるための資材ではなく、領域を区切る移動可能な「標識」なのだ。
遷宮する伊勢と結界を貼り直す諏訪
日本の神社建築における「式年造営」を考えるとき、最も対比的な存在が伊勢神宮の「式年遷宮」だろう。
伊勢神宮では20年に一度、隣接する敷地(米餅代地)に社殿をはじめとするすべての建造物を寸分たがわず新築し、神体を新社殿へと移す。建築技術の継承と、永遠の若返り(常若の思想)を目的としたこのシステムは、木造建築そのものを完全な形で再現し続けることに主眼が置かれている。また出雲大社などでも、数十年ごとに本殿の大規模な改修や屋根の吹き替えを行う「平成の大遷座」のような神事が行われてきた。
これらに対し、諏訪大社の御柱祭はまったく異なるアプローチをとる。諏訪でも宝殿の造り替えは行われるが、社殿全体を新築するわけではない。伊勢が「建築物の完璧な複製」によって聖性を維持するのに対し、諏訪は「四隅の柱を打ち直す」ことによって境内の聖性を更新する。
建築史や宗教人類学の視点から見れば、建物を丸ごと新築するには莫大な費用と資材、そして洗練された大工技術が必要となる。古代から中世にかけて、地方の神社が中央の伊勢ほど巨大な財力を持ち得なかった時代、領域の四隅に神木を打ち立てる行為は、最も効率的かつ強固に聖域を再定義する手法だったと考えられる。
丸太を山から引きずり下ろし、四隅に立てるという行為は、建築というよりも「杭を打つ」行為に近い。集落や神聖な空間の境界に杭を打ち、悪霊の侵入を防ぎ、土地の神を鎮める手法は、東アジアやシベリアの精霊信仰にも通じる極めて原始的な結界の形式だ。
実際、諏訪大社の影響下にある長野県内外の諏訪神社(いわゆる「小宮」)でも、大社の御柱祭が行われた同年や翌年に、規模に応じた御柱祭(小宮祭)が行われている。たとえば信濃国二之宮とされる小野神社(塩尻市・辰野町)の御柱祭は、諏訪大社の翌年(卯年と酉年)に行われ、豪華な衣装で知られる。人を見たけりゃ諏訪御柱、綺羅を見たけりゃ小野御柱と並び称されるように、地域ごとに独自の発展を遂げてきた。
伊勢が社殿という固定された建造物の完璧さを追求したとすれば、諏訪は柱を運ぶという動的なプロセスそのものに聖性を宿らせた。境内に建つ柱は、単に立てられた結果物ではなく、数千人の氏子が汗を流し、息を合わせ、山から里へと引きずってきたという記憶の集積体なのである。
めどてこを繰る街の日常
現代の諏訪地方において、御柱祭は単なる歴史的行事の枠を遥かに超えた生活の軸線である。
諏訪市、岡谷市、茅野市、下諏訪町、富士見町、原村の6市町村からなる諏訪圏域では、御柱の年になるとあらゆる経済や学校行事が祭り中心に回転する。山出しや里曳きの期間中、地元の小中学校は休みになり、企業も業務を休止して社員を曳行へと送り出す。地元ケーブルテレビのLCVは朝から夜まで祭りの模様を生中継し、街の居酒屋や家庭では「どの柱を曳くか」「今年のめどてこは誰が乗るか」が唯一最大の会話となる。
しかし、その圧倒的な熱狂の裏には、現代社会ならではの摩擦と課題も常に横たわっている。
第一の課題は安全確保と危険の管理だ。巨木を人力で曳き落とす木落しや建御柱は、古くから怪我や死亡事故と隣り合わせだった。1980年、1986年、1992年、2010年、2016年の御柱祭でも、建御柱からの落下や木落しでの巻き込まれ事故により死者が出ている。危険を回避するためのルールづくりやワイヤーの補強、事故防止のための体制整備が毎回議論されるが、安全基準の徹底と伝統のあり方の間で、常に難しい判断を迫られる。
第二の課題は、世界情勢や感染症といった外乱への対応である。2022年(令和4年)に行われた御柱祭では、新型コロナウイルス感染症の影響により、氏子による山出しの曳行が断念された。1200年以上の歴史の中で初めて、山出しの行程においてトレーラーで御柱を運搬するという異例の措置がとられた。木落し坂での曳き落としも中止となり、宮川の川越しもポンプによる放水のお清めに代えられた。
人力で引きずってこそ御柱だという強い美学を持つ地元において、車輛を使う苦渋の選択は大きな葛藤を生んだ。それでも氏子たちは里曳きや建御柱の段階で感染対策を講じつつ人力の曳行を再開し、伝統の糸を繋ぎ止めた。
さらに、御柱となるモミの大木の調達も容易ではない。上社の御柱を切り出してきた御小屋山では、伊勢湾台風などの影響や樹木の枯渇により、1992年から別の山からの調達を余儀なくされていた。しかし2022年の祭りでは、30年ぶりに本来の御小屋山から8本の御用材を伐採することに成功した。森を育てるのに150年以上の時間を要する以上、自然環境の維持と神事の継続は表裏一体の課題である。
2028年(令和10年、申年)に予定される次回の御柱祭に向けて、諏訪の人々は本来の形での全工程人力曳行の復活を目指し、静かに準備を進めている。
四本の柱が指し示してきたもの
諏訪大社の境内に戻り、改めて社殿の四隅に佇む御柱を見上げてみる。
木落しで削られた傷痕が残り、先端は冠落しによって鋭い三角錐に整えられている。その丸太は、建築の骨組みでもなければ、屋根を支える柱でもない。ただそこに垂直に立っているだけだ。
伊勢神宮のように建物を新しく造り替えることで永続性を保つ文化がある一方で、諏訪の人々は建物を囲む四つの点=結界を更新することに情熱を注いできた。社殿という静止した建築物に神が宿るのではなく、奥山から切り出した大木を、人々が息を合わせ、危険を冒しながら里へ引きずり下ろし、垂直に立て直すという「行為のプロセス」の中にこそ、神聖な空間が立ち現れると考えたのではないか。
7年に一度、境内の四隅に新しい柱が建つとき、諏訪の町は自分たちの住む土地が再び聖域として区切られたことを実感する。柱そのものは7年が過ぎれば古くなり、また次の柱へと引き継がれていく。残されるのは建築物という物ではなく、千年にわたって同じように綱を引き、同じように坂を落とし、同じように四隅に柱を立ててきたという共同体の記憶と振る舞いそのものである。
夕暮れどき、諏訪大社本宮の境内を歩くと、拝殿の奥にひっそりと立つ「本宮三之御柱」や「本宮四之御柱」が木立の間に見え隠れする。その幹には、何千人の手が触れ、摩擦で磨かれた肌が鈍く光っている。社殿を静かに囲む4本の丸太は、次の寅年と申年が来るまで、そこに境界が存在することを無言で示し続けている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 式年造営御柱大祭 - 信濃國一之宮 諏訪大社suwataisha.or.jp
- 御柱祭 - 諏訪市公式ホームページcity.suwa.lg.jp
- 諏訪大社の御柱祭 - 信州の伝承文化 - 信州の文化財 - 八十二文化財団82bunka.or.jp
- 御柱祭 | 下諏訪の観光・旅行情報【おいでなしてしもすわ】shimosuwaonsen.jp
- 御柱祭 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 2028年 御柱祭 観覧席チケット販売・予約情報 | トラビスジャパンtravice.jp
- 御柱祭(式年造営御柱大祭) | 諏訪観光連盟suwa-tourism.jp
- 御柱祭 ONBASHIRA in SUWA | 7年に一度、遥か昔からこの諏訪の地で寅と申の年に執り行われる神事「式年造営御柱大祭」。宝殿の造り替え、そして御柱を選び、山から曳き、境内に建てる一連の神事は通称「御柱祭」と呼ばれ、諏訪大社(すわたいしゃ)の中でも最大にして最も重要な神事とされています。1200年以上も連綿と受け継がれ、諏訪6市町村の氏子たちが奉仕する御柱祭は、諏訪の誇り高き伝統文化でonbashira.jp