諏訪大社がひとつの神社でありながら、湖を挟んで四つの社に分かれているのはどのようにしてなのか?

湖を挟んで鎮座する四つの社
諏訪湖を囲むように車を走らせると、参拝の順序に迷うことになる。諏訪大社というひとつの神社を訪ねるつもりで現地に入っても、案内板に示される場所はひとつではない。湖の南側に上社の「本宮」と「前宮」があり、北側には下社の「春宮」と「秋宮」がある。それぞれが数キロメートル離れた独立した境内を持ち、社務所があり、独自の社叢を抱えている。
ひとつの大社に複数の宮が属する例は全国にあるが、諏訪の四社は一般的な「本宮と奥社」「本社と摂社」という主従関係で割り切ることができない。本宮と前宮、春宮と秋宮のいずれにもそれぞれの祭祀があり、どれかひとつを訪ねただけで諏訪大社を参拝したと言い切るには、どこか収まりの悪さが残る。
本殿を持たず、背後の山や神木を拝するという古代の祭祀形態を色濃く残しながら、境内だけは四つに分かれて今に続いている。なぜ諏訪の神は、湖を挟んだ四箇所の社に分かれて祀られるようになったのだろうか。
狩猟の山と農耕の湖畔が交わった道
諏訪信仰の起源を探ろうとすると、日本神話の記述と現地の伝承との間に生じる奇妙なズレに突き当たる。『古事記』の国譲り神話において、建御名方神(タケミナカタノカミ)は出雲で建御雷神(タケミカヅチノカミ)に敗れ、科野国の州羽(諏訪)の海まで逃れてこの地から出ないと誓った神とされる。しかし、諏訪の地に残る古文書や社伝が語る風景は、中央の神話とはまるで異なる手触りを持っている。
諏訪の在地伝承によれば、外から鉄の武器を携えて入ってきた建御名方神を迎え撃ったのは、この地に先住していた洩矢神(モリヤノカミ)であった。洩矢神は藤蔓の武器を持って戦ったが敗れ、諏訪の地を建御名方神に譲ったと伝えられる。この伝承は、縄文以来の狩猟採集や自然信仰を色濃く保っていた諏訪盆地の先住勢力と、金属器や農耕技術を携えて進出してきた外来勢力との接触と融和を象徴していると考えられている。
重要なのは、先住の神が完全に排除されなかった点にある。諏訪神社上社において、最高位の神職である「大祝(おおほうり)」は建御名方神の後裔とされる諏訪氏(神氏)が務めたが、実際の祭祀の全権を握り、秘儀を司る「神長官(じんちょうかん)」の地位には、敗れた側の洩矢神の末裔である守矢氏が代々就いた。神の生きた依代として不可侵の権威を持つ大祝と、土地の精霊である「ミシャグジ」を降ろし神事を執行する神長官という二重の神職構造が、古代から中世を通じて維持されたのである。
平安時代初期、弘仁5年(814年)の記録にはすでに諏訪の神への奉幣が記されており、延長5年(927年)に編纂された『延喜式』神名帳には、信濃国諏訪郡に「南方刀美神社 二座」と記載されている。この「二座」が現在の上社と下社に相当する。すでに平安時代の中期には、湖の南と北で別個の祭祀拠点が存在していたことがわかる。
下社を司ったのは、信濃国造の血統を引くとされる金刺氏(かなさしし)であった。上社を率いる諏訪氏が八ヶ岳山麓から赤石山脈へと連なる山がちな地形を背景に、狩猟やミシャグジ信仰を色濃く残したのに対し、下社の金刺氏は諏訪湖畔の低地や交通の要衝を押さえ、農耕と馬産の性格を帯びていた。
鎌倉時代に入ると、諏訪信仰は全国的な広がりを見せる。源頼朝をはじめとする鎌倉武士は、諏訪明神を軍神・武勇の神として篤く信奉した。鎌倉幕府の御家人として勢力を伸ばした諏訪氏は、全国に領地を得るとともに諏訪神社の分社を各地に勧請した。現在、全国に約一万社あるとされる諏訪神社のネットワークは、この中世武士の移動と結びついて形成されたものである。
しかし、武士の崇敬を集めて権威を高める一方で、諏訪の内部では上社と下社の対立が激しさを増していった。諏訪氏を戴く上社と、金刺氏を戴く下社は、祭祀の正統性や神領を巡ってしばしば武力衝突を繰り返した。室町時代から戦国時代にかけて、両者の抗争は信濃国内の勢力争いと連動し、一時は下社の金刺氏が敗れて諏訪盆地を追われる事態にまで発展する。
この分裂状態を収拾し、両社を並立させたまま支配下に組み込んだのが武田信玄であった。信玄は信濃を平定すると、諏訪明神を自らの守護神と位置づけ、上社・下社双方の神事復興と社殿修復を命じた。軍事的な結束を固めるため、信玄はどちらか一方を潰すのではなく、二つの信仰系統をそれぞれ公認して保護する道を選んだ。
江戸時代に入ると、諏訪藩主となった高島藩主諏訪氏のもとで上社が手厚く保護される一方、下社もまた甲州街道と中山道が合流する宿場町(下諏訪宿)の鎮守として門前町を発展させた。この歴史的な経緯が、湖の南北に異なる性格を持つ社が並び立つ構図を定着させていく。
二つの氏族と二つの社殿が重なった構造
諏訪大社が四社ある直接の理由は、上社と下社という「二つの異なる神社」が、それぞれ内部に「二つの祭祀拠点」を持っていたためである。つまり「二社×二社」が合わさって四社になったのであり、最初から四つ割りで作られたわけではない。
上社における本宮と前宮の関係は、祭祀の中心地と信仰の発祥地という役割分担によって説明できる。
上社前宮(茅野市)は、諏訪信仰の原点とされる場所である。かつては「神原(ごうばら)」と呼ばれ、古代から大祝の居館が置かれ、神長官守矢氏がミシャグジの祭祀を執り行った諏訪の祭政一致の中心地であった。現在も前宮の境内には豊かな湧水が流れ、神原の土壇と呼ばれる祭壇の跡が残る。春の御頭祭をはじめとする原初的な狩猟祭祀の痕跡を色濃く残す神事の多くは、この前宮の地で行われてきた。
これに対して上社本宮(諏訪市中洲)は、中世以降に信仰の中心として発展した拠点である。本宮には本殿がなく、拝殿の奥にある「守屋山」を神体山として拝する形式をとる。大祝が神そのものとして崇められる中で、大祝が儀式を行うための壮麗な社殿群が整えられ、武士や朝廷からの寄進が集まる政治的・儀礼的な中枢となっていった。つまり上社は、古代の生々しい祭祀場であった前宮と、中世以降の格式高い儀礼空間となった本宮という、新旧二つの拠点を併せ持つことで成立している。
一方、下社における春宮と秋宮(下諏訪町)の関係は、まったく異なる論理で動いている。下社の二社は、季節による「神の移動」を前提とした空間構造である。
下社では、毎年2月1日に秋宮から春宮へ神霊が遷座し、8月1日には春宮から秋宮へと神霊が戻る。前者を「春の遷座祭」、後者を「お舟祭(秋の遷座祭)」と呼ぶ。春宮は農業の始まりとともに神を迎え、秋宮は収穫の時期に神を迎える。神木として春宮はスギ、秋宮はイチイを祀り、どちらも本殿を持たずに「宝殿」と呼ばれる社屋の奥にある神木を拝する。
下社の春宮と秋宮は、建築様式も意図的に揃えられている。現在の両社の社殿は江戸時代中期、明和から安永年間にかけて建てられたものだが、春宮は諏訪の宮大工集団である柴宮(伊藤)家が、秋宮は同じく諏訪の大隅(神戸)家が腕を競い合って造営した。ほぼ同規模、同構造の社殿が約一キロメートルの距離を置いて向かい合っているのは、半年ごとに神が往還する二つの座として対等に設計されているからである。
このように、上社は「原初の聖地(前宮)と儀礼の中心(本宮)」という空間的な機能分化を持ち、下社は「春の座(春宮)と秋の座(秋宮)」という時間的な季節循環を持っている。上社と下社のそれぞれが独自の理由で境内を二分していた。
この四つの宮が形式上ひとつの「諏訪大社」に束ねられたのは、近代に入ってからのことである。明治4年(1871年)、明治政府の近代社格制度によって、上社と下社は統合されて官幣大社「諏訪神社」となった。それまで独自の神職体系を維持していた大祝や神長官の世襲制は廃止され、国から派遣された宮司が四社を一括して管理する体制へと改められた。
そして戦後の昭和23年(1948年)、神社本庁のもとで社号が「諏訪大社」と改称され、上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮という現在の四社体制の呼称が定着した。四つある境内は、近代国家による神社整理の枠組みの下で、中世・近世の多元的な信仰構造がそのままパッケージ化されて残った結果なのである。
伊勢と宇佐にみる複数拠点の論理
複数の社殿や境内がひとつの神社体系を形成する例は、諏訪大社に限ったものではない。日本の主要な古社を眺めると、中央集権的な単一の社殿に収まらない複合的な構造を持つ神社が各地に見られる。
最も知られているのは伊勢神宮(神宮)の内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)である。伊勢の場合、天照大御神を祀る内宮に対し、その食事を司る御饌都神として豊受大御神を迎えた外宮が数キロメートル離れて鎮座している。伊勢の二重構造は「主神と給仕神」「皇祖神と産業神」という機能的な役割分担によって説明され、祭祀の順序も外宮から内宮へと明確に規定されている。
また、大分県の宇佐神宮は、本殿の中に一之御殿(八幡大神)、二之御殿(比売大神)、三之御殿(神功皇后)の三座が横に並び立つ形式をとる。宇佐では土着の女神であった比売大神の祭祀に、外来の八幡信仰が合流し、さらに神功皇后が加えられることで現在の三座体制が完成した。ひとつの境内、ひとつの本殿構造の中に複数の信仰系統が同居している点が特徴である。
和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)は、地理的に数十キロメートル離れた三つの拠点が「三山」として緩やかに統合された例である。川の神、海の神、滝の神という異なる自然崇拝の聖地が、修験道や熊野詣の流行を通じてひとつの巡礼ネットワークへと再編された。
これらの事例と比較したとき、諏訪大社の四社構造には際立った独自性がある。
第一に、伊勢のように明確な主従・順序関係が固定されていない点である。上社と下社は祭神(建御名方神と八坂刀売神)の夫婦神としての配祀関係で語られることが多いが、歴史的には独立した二大勢力の拮抗関係であったため、どちらが上位であるかという序列は時代や立場によって揺れ動いてきた。
第二に、宇佐のように単一の社殿へ統合されず、熊野のように広域に分散しすぎず、諏訪盆地というひとつの盆地の中に四つの社が独自の祭祀空間を保ち続けた点である。山麓と低地、狩猟と農耕、冬の祭祀と夏の祭祀という対立項が、諏訪湖を中心とする直径十キロメートルほどの空間に凝縮されている。
神社が社殿を増やす背景には、異なる氏族の妥協、祭祀機能の分担、あるいは巡礼路の形成といった複数の要因が働く。諏訪の場合は、古代の先住勢力と渡来勢力の融和に始まり、中世の武士団の対立、そして近世・近代の制度的統合という複数の歴史的レイヤーが、社殿を削ぎ落とすことなくすべて積み残されたことで、四社という特異な配置が維持されることになった。
御柱が引きずられる町と現代の祭祀
現代の諏訪盆地において、この四社構造が最も目に見える形で立ち現れるのが、七年に一度(数え年で七年、実際は六年に一度)行われる式年造営御柱大祭、いわゆる「御柱祭」である。
御柱祭では、四社の社殿の四隅に立てる合計十六本の巨木(モミの大木)が山から切り出される。上社(本宮・前宮)の八本は八ヶ岳山麓の御小屋山から、下社(春宮・秋宮)の八本は霧ヶ峰山麓の東俣国有林から伐り出される。切り出される山も、曳行されるルートも、担当する地域住民の氏子組織も、上社と下社で完全に分かれている。
上社の曳行では、木落し坂を豪快に滑り降りた後、冷たい宮川を曳き渡す「川越し」が行われる。対する下社の曳行では、より急峻な傾斜を持つ木落しが呼び物となり、町中の街道を練り歩く。同じ御柱祭と呼ばれながら、使用される木遣り歌の節回しから綱の引き方、掛け声に至るまで、上社と下社では明確な違いが保たれている。
現在、諏訪大社周辺を歩くと、それぞれの宮が置かれた環境の違いがそのまま町の表情になっていることに気づく。
上社本宮の周辺には、かつて諏訪氏の武士団が館を構えた歴史を感じさせる重厚な屋敷町の名残があり、守屋山を背負った社叢の奥深さが漂う。そこから東へ約二キロメートル離れた上社前宮へ足を伸ばすと、観光地化された空気は薄れ、名水「水眼(すいが)」のせせらぎとともに開けた傾斜地に簡素な社殿が佇む。古代の神原の地形がそのまま残されている。
湖を渡って下社秋宮を訪ねると、中山道下諏訪宿の温泉街と直結した賑わいがあり、巨大な注連縄を掲げた神楽殿が参拝者を迎える。そこから西へ旧中山道を一キロメートルほど歩いた下社春宮は、砥川の清流と万治の石仏に隣接し、杉並木に囲まれた静寂の中にある。
少子高齢化が進む現代において、四社それぞれの神事を維持し、十六本もの巨木を人力で曳行する御柱祭を継承していくことには、少なくない労力と安全面での課題が伴う。氏子組織の再編や神事の簡素化が議論されることもあるが、諏訪の人々にとって御柱を立てる行為は、特定のひとつの社に対する信仰というよりも、盆地全体を巡る季節と土地のリズムを更新する作業として機能している。
統合の枠組みが保存した古代の多層性
諏訪大社に四つの宮が存在するという事実は、ひとつの巨大な宗教組織が計画的に拠点を増やした結果ではない。むしろその逆である。
そこにあったのは、縄文の狩猟採集社会から続く精霊信仰、弥生以降の稲作農耕とともに持ち込まれた神話体系、諏訪盆地の南北で勢力を競い合った二大氏族の歴史、そして季節の巡りに合わせて神を動かした古代人の時間感覚であった。それらは本来、互いに矛盾し、時に衝突し合う別々の信仰形態である。
通常の歴史の過程であれば、強い勢力が弱い勢力を塗りつぶし、社殿はひとつに統合され、神話は単一のストーリーに整えられていく。しかし諏訪においては、武田信玄の統制や明治政府の近代化政策といった外からの強い統合圧力が加わった際にも、既存の祭祀拠点を破棄するのではなく、すべてを包括する大きな枠組みの中に並列して残すという選択が取られた。
四社を巡るということは、単に同じ神社の境内を四度参拝することではない。山を拝する上社本宮、原初の土壇を抱える上社前宮、神木に向き合う下社春宮と秋宮という、日本の宗教史が辿ってきた異なる地層を、諏訪湖を囲む地形の上で順番に踏み分けていく作業そのものである。
四つの宮が今も別々の場所で火を灯し続けている風景は、ひとつの土地が抱え込んできた多様な信仰の歴史を、切り捨てることなくそのまま保存し続けた結果として、諏訪の地に残されている。
旅と食が好き。どこにでもいます。