2026年5月18日
唐津城と唐津焼、唐津炭田が語る大陸交流と近代化の歴史
唐津は古代から大陸への玄関口「唐の津」として栄え、秀吉の肥前名護屋城築城、唐津焼の隆盛、近代の唐津炭田開発を経て、玄界灘に刻まれた多層的な歴史を持つ。城下町の形成、港の変遷、産業の興衰が現代の唐津を形作っている。
満島山に立つ城と、その先の歴史
唐津の浜辺に立つと、松浦川の河口に突き出す満島山に築かれた唐津城が目に飛び込んでくる。左右に広がる虹の松原を翼に見立て、「舞鶴城」とも呼ばれるその姿は、海と一体となった要塞のようでもある。しかし、その優美な外観の裏には、大陸との交流、戦乱、そして産業の興隆と衰退が幾重にも重なった歴史が横たわっている。なぜこの地が、これほどまでに多様な歴史の舞台となり得たのか。その問いは、玄界灘の潮風に乗って、過去からの声を聞くような感覚を呼び起こす。
古代からの「唐の津」と、秀吉の野望
唐津の歴史は、その地名が示す通り、「唐(から)」、すなわち大陸への「津(港)」としての役割に深く根ざしている。縄文時代には既に大陸からの稲作文化が伝来したとされる菜畑遺跡があり、日本の水稲耕作発祥の地の一つとも言われる。中世には、松浦川流域を拠点とする松浦党と呼ばれる武士団が、武装海商として朝鮮や中国との交易を活発に行い、その活動範囲は広範に及んだ。この頃から「からつもの」という言葉が、西日本における焼き物の総称として使われるほど、大陸との交流が深かったのだ。
決定的な転換点の一つは、戦国末期に訪れる。豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を企てた際、その前線基地として選ばれたのが、現在の唐津市鎮西町にある肥前名護屋であった。1591年(天正19年)に築城された肥前名護屋城は、本丸、二の丸、三の丸を含む城域が東西約1.5km、南北約1.2kmにも及ぶ、当時の日本最大級の巨大な「戦争城郭」であった。全国から150を超える大名が陣屋を構え、一時的に20万人もの人々が暮らしたという記録もある。この地は、まさに秀吉の天下統一の先に見据えた海外戦略の拠点であり、日本の政治・経済・文化の中心地の一つとなったのだ。
しかし、秀吉の死とともに朝鮮出兵は終結し、名護屋城はその役目を終えて廃城となる。その解体された資材の一部が、新たな城の築城に転用された。それが、現在の唐津城である。慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やし、豊臣秀吉の家臣であった寺沢志摩守広高によって築かれた唐津城は、名護屋城の遺材を活用したと伝えられている。この築城によって、唐津は新たな城下町としての歴史を刻み始めることとなる。
