2026/6/19
宇陀の赤い土はなぜ薬草と辰砂を生んだのか

奈良の宇陀の歴史について詳しく教えて欲しい。なぜ薬草がよく取れるのか?辰砂が出たのか?
キュリオす
奈良県宇陀市は、中央構造線上に位置する特異な地質から、薬草の繁茂と辰砂の産出という二つの「赤」を生み出した。推古天皇の薬猟から続く歴史と、地質学的な必然が交差するこの地の成り立ちを探る。
宇陀の盆地を染める「真赤土」の記憶
大和盆地の東端、桜井からさらに山を一つ越えた先に、宇陀の町はある。標高三〇〇メートルから四〇〇メートルの高原地帯に位置するこの地へ足を踏み入れると、空気の密度が一段変わるのを感じるだろう。冬の朝には深い霧が盆地を覆い、湿り気を帯びた風が山肌をなでる。この土地を歩いていてふと足元に目を向けると、土がわずかに赤みを帯びていることに気づく。それは単なる粘土の色ではなく、かつてこの地が「真赤土(まはに)」と呼ばれた理由を無言で語りかけてくるような、重みのある赤だ。
なぜ、この山深い土地が、古代から現代に至るまで「薬の町」であり続けたのか。その答えを探そうとすると、私たちは二つの異なる「赤」に突き当たることになる。一つは、地表に生い茂る薬草の旺盛な繁茂。もう一つは、地層の奥深くに眠る水銀の原料、辰砂(しんしゃ)の輝きである。一見すると無関係に思える植物と鉱物が、宇陀という特異な地質構造の上で一つに溶け合い、日本の医療と信仰の原風景を作り上げてきた。
宇陀の歴史を紐解くことは、単に古い町並みを愛でることではない。それは、日本列島を横断する巨大な断層がもたらした大地の亀裂と、そこに生きた人々の、生への執着の記録を辿る旅でもある。私たちは、この静かな山あいの町が、かつては大和王権にとっての「巨大な薬箱」であり、同時に国家の威信をかけた「エネルギー資源の供給地」であった事実に直面することになるだろう。
推古天皇の「薬猟」から続く山脈
宇陀の歴史が日本の公的な記録に鮮烈に登場するのは、飛鳥時代のことである。『日本書紀』の推古十九年(六一一)五月五日の条に、わが国最初の「薬猟(くすりがり)」が「菟田野(うだのの)」で行われたという記述がある。推古天皇の一行が、薬効を求めて山野を駆け巡ったというこの記録は、宇陀が少なくとも一四〇〇年前には、王権直属の「薬草採取地」として確立されていたことを示している。
薬猟とは、単なるレジャーではない。男性は鹿の角(鹿茸)を求め、女性は薬草を摘む。これは古代中国や高句麗の宮廷儀礼をモデルにした、極めて政治的かつ宗教的な行事であった。当時の冠位十二階に基づく色鮮やかな装束を身にまとった皇族たちが、夜明けとともに宇陀の野に集う光景は、さながら神仙の世界を地上に再現しようとする試みのようでもあった。なぜ、他にも山はいくらでもある中で、宇陀が選ばれたのか。そこには、この地が単なる「野原」ではなく、特別な効能を持つ動植物が宿る「神仙境」であるという、当時の人々の固い信念があった。
この「薬の町」としての性格は、中世、近世へと形を変えながら引き継がれていく。織豊政権期には、秋山氏が築いた宇陀松山城を中心に城下町が整備され、江戸時代には徳川幕府の直轄地(天領)となった。特に八代将軍吉宗の時代、享保改革の一環として行われた「薬種国産化政策」において、宇陀は決定的な役割を果たす。当時の日本は薬料の多くを中国からの輸入に頼っており、莫大な金銀が海外へ流出していた。この状況を打開するため、吉宗は日本各地の山野を調査させ、薬草の栽培を奨励した。
この時、幕府の採薬使である植村佐平次に随行し、宇陀の薬草知識を遺憾なく発揮したのが、森野家十一代目当主の森野通貞(藤助)であった。彼は幕府から拝領した貴重な種苗をもとに、自宅の裏山に「森野旧薬園」を開墾する。現存する日本最古の私設薬草園であるこの場所には、今も当時の面影が色濃く残っている。宇陀が単なる採取地から、科学的な観察と栽培の拠点へと進化した瞬間であった。この歴史的背景が、後にツムラやロート製薬、武田薬品工業といった、日本を代表する製薬企業の創業者たちをこの地から輩出する土壌となったのである。
中央構造線がもたらした「丹」の恵み
宇陀に薬草が繁茂し、それが「特別」視された最大の理由は、その足元にある地質学的な特異性に求められる。この地を東西に貫いているのは、日本列島を二分する巨大断層「中央構造線」である。この断層帯に沿っては、地殻の変動によって熱水が上昇しやすく、水銀の鉱床が形成されやすいという特徴がある。宇陀は、その水銀の原料となる「辰砂(しんしゃ)」、古名で「丹(に)」と呼ばれる鉱石の一大産地であった。
辰砂は硫化水銀からなる鮮やかな赤色の鉱物である。古代において、この「赤」は血液を象徴し、不老不死の妙薬(仙薬)の主成分であると信じられていた。もちろん現代の知識では水銀は猛毒であるが、当時の神仙思想においては、この重く輝く赤い石こそが、永遠の命への鍵であった。宇陀の山々から辰砂が採れるという事実は、この地の植物や動物、さらには湧き出る水にまで、水銀が持つ「魔力」や「生気」が浸透しているという解釈を生んだ。推古天皇が宇陀で薬猟を行ったのは、単に植物の種類が豊富だったからではなく、地中に眠る「丹」の力が、地上の生命を活性化させていると考えたからに他ならない。
実際に、宇陀には「丹生(にう)」という地名が多く残っている。これは水銀を採掘・精製する技術集団「丹生氏」がこの地に定住していた名残である。彼らは中央構造線に沿って移動し、露頭する赤い土を見極め、水銀を抽出した。抽出された水銀は、顔料として古墳の内壁を彩り、防腐剤として木材に塗られ、さらには金のアマルガムとして東大寺大仏の鍍金(金メッキ)にも使われた。国家の最先端技術と宗教儀礼の頂点に、宇陀の赤があったのだ。
地質学的な視点で見れば、宇陀の土壌は室生火山群に由来する火山岩が風化したものであり、ミネラル分が豊富で水はけが良い。加えて、標高が高いことによる昼夜の激しい寒暖差が、植物の二次代謝産物、すなわち薬効成分であるアルカロイドなどの蓄積を促す。地中の辰砂という鉱物資源と、地上の気候条件。この二つが中央構造線という巨大な装置の上で重なり合ったことで、宇陀は「薬の町」としての物理的な裏付けを得ることとなった。人々の信仰と、科学的な必然。その両輪が、この地の赤い土を特別なものへと押し上げた。
富山の薬売りと宇陀の「官」なる薬
「薬の町」として宇陀と比較されることが多いのは、富山であろう。しかし、その成立の過程と性格を精査すると、両者の間には決定的な違いが浮かび上がる。富山の売薬が、江戸時代の中期以降、藩の財政を潤すための「産業」として、組織的な行商システム(先用後利)によって全国に広まったのに対し、宇陀の薬は、その根源において「官」であり「儀礼」であった。
宇陀の薬草文化は、前述の通り天皇の「薬猟」という宮廷行事から始まっている。つまり、市場で売買される商品である前に、王権の長寿と権威を支えるための「禁裏御用」の品であった。この性格は江戸時代になっても色濃く残り、森野旧薬園が幕府の採薬調査の拠点となり、官営の小石川御薬園を補完する役割を担ったことに象徴される。宇陀の薬業は、民間の商魂によって拡大したというよりは、国家的な要請と学術的な探究心によって深められてきた側面が強い。
一方で、同じ水銀産地として比較対象となるのは、三重県の多気町丹生である。ここも中央構造線上に位置し、古代から水銀の供給地として栄えた。しかし、多気の丹生が伊勢神宮との結びつきを強め、宗教的な献納や商業的な流通に特化していったのに対し、宇陀は常に「大和」という政治的中心地のすぐ背後に控える、いわば「直轄の薬庫」としての立ち位置を守り続けた。宇陀の辰砂は飛鳥や平城京へ、最短距離で運ばれた。
また、近江(滋賀県)の伊吹山なども古くからの薬草産地として知られるが、伊吹山が織田信長による大規模な薬草園の開墾といった、一過性の権力者の意志に左右されたのに対し、宇陀には「大和当帰(やまととうき)」に代表されるような、土地に根ざした固有種の栽培が千年以上途絶えずに続いてきた。富山が「システム」で勝負した町であるならば、宇陀は「土地の質」と「歴史の厚み」で勝負してきた町であると言えるだろう。この「官」の香りと「地」の力が混ざり合った独特の重みが、宇陀を他の薬草産地から孤立させている。
旧薬園の斜面に残る一七〇〇種の静寂
現在、宇陀松山の重要伝統的建造物群保存地区を歩くと、かつての薬問屋の建物が並び、軒先には「薬」の文字が刻まれた古い看板が掲げられている。しかし、この町の真髄に触れるには、町の喧騒を離れ、森野旧薬園の急峻な斜面を登らなければならない。そこには、江戸時代から変わらぬ配置で、約二五〇種、かつては一七〇〇種にも及んだという薬草木が、音もなく息づいている。
斜面を一段登るごとに、空気の温度が下がる。植えられているのは、派手な花を咲かせる園芸種ではない。カタクリ、シャクヤク、サンシュユ。その多くは、根や皮、実が薬となる地味な植物たちである。森野藤助が八代将軍吉宗から拝領したというサンシュユの老木は、今も春先には小さな黄色い花をつけ、秋には赤い実を実らせる。その姿は、一人の男の執念が、数世紀という時間を超えて物質的に定着していることの証左でもある。
宇陀の産業としての水銀採掘は、昭和四十六年(一九七一)に「大和水銀鉱山」が閉山したことで、公的には幕を下ろした。かつては東洋一の産出量を誇ったこともあるというその場所は、今は静かな森に還りつつある。しかし、地中の水銀が消えてなくなったわけではない。今も宇陀の地下を流れる水は、微細なミネラルを運び、地上の薬草たちを潤し続けている。
現代の宇陀は、この「薬草の記憶」を再び地域の核に据えようとしている。大和当帰の葉を使った料理や、薬草風呂を提供する宿が増え、かつての薬猟の精神を現代的に解釈しようとする試みが続いている。しかし、それは単なる観光振興の言葉で片付けられるものではない。宇陀の人々が守ろうとしているのは、自分たちの足元にある赤い土が、かつて日本の歴史を動かすほどのエネルギーを持っていたという、ある種の矜持ではないだろうか。
辰砂の赤と薬草の緑が交差する宇陀
宇陀の歴史を辿って見えてくるのは、人間が自然を単なる「資源」として消費する前の、もっと密接で畏怖に満ちた関係性である。私たちは現代、薬を化学合成された錠剤として受け取るが、かつての宇陀において、薬とは「大地の亀裂から染み出した力」そのものであった。中央構造線という大地の傷跡が辰砂を生み、その辰砂の「赤」が植物に霊力を与え、それを人間が丹念に摘み取る。そこには鉱物、植物、そして人間が、一つの循環の中に組み込まれた、壮大な生態系が存在していた。
「なぜ宇陀なのか」という問いへの答えは、結局のところ、この多層的な重なりに集約される。地質学的な偶然がもたらした水銀、神仙思想が求めた不老不死、そしてそれを宮廷儀礼や幕府の政策へと結びつけた歴史的な必然。どれか一つが欠けても、宇陀はただの山あいの盆地で終わっていただろう。辰砂という大地の結晶と、薬草という生命の結晶。この二つの「赤」が交差する地点に、宇陀という稀有な土地は成立しているのだ。
森野旧薬園の頂上から宇陀の町を見下ろすと、瓦屋根が連なる盆地の向こうに、さらに深い山々が連なっているのが見える。その山並みの地下には、今も巨大な断層が横たわり、赤い石を抱いている。かつて推古天皇が、あるいは森野藤助が見つめたであろうこの風景は、時代が変わっても、生への渇望という一点において、私たちと繋がっている。
宇陀は、目に見える町並みよりも、目に見えない地中の記憶の方が雄弁な場所である。赤い土を一段踏みしめるたびに、私たちは一四〇〇年前の薬猟の足音を聞き、大仏の肌を黄金に染めた水銀の蒸気を感じる。この土地が放つ静かな熱量は、言葉による要約を拒み、ただ具体的な事実の積み重ねとして、今も霧の中に佇んでいる。宇陀を去る時、私たちの記憶には、大仏を黄金に染めた水銀の重みと、森野旧薬園の斜面に根を張る薬草の香りが、確かな手応えを伴って刻まれているはずだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 日本の薬草文化の地・奈良から生まれた和薬草の知恵 — KYOTO VISITOR'S GUIDE - Since 1987kvg-kyoto.com
- 日本最古の薬猟郷|棚田の宿 ささゆり庵sasayuri-ann.jp
- 宇陀松山:コラム「日本唯一の私営薬園「森野旧薬園」宇陀松山は薬のまち」 / 奈良県pref.nara.lg.jp
- 宇陀のかぎろひの丘・万葉公園 / 奈良県pref.nara.lg.jp
- 宇陀に残る日本最古の私設薬草園「森野旧薬園」 – いいもの宇陀ならiimono-uda-nara.com
- 推古天皇の薬猟 - 宇陀市公式ホームページ(文化財課)city.uda.lg.jp
- 古から未来へ、薬草の「時」を紡ぐ - 森野旧薬園 | 芸術教養学科WEB卒業研究展 | 京都芸術大学通信教育課程g.kyoto-art.ac.jp
- 沿革 | 森野吉野葛本舗morino-kuzu.com