2026/5/23
今治城築城からタオル産業まで、海の街の歴史を辿る

今治の街の歴史を詳しく知りたい。
キュリオす
今治は、藤堂高虎による今治城築城を機に、海上交通の要衝として発展した。良質な水資源を活かしたタオル産業と、古くからの海との関わりから生まれた造船・海運業が、この街の産業集積を形成している。
今治の歴史を語る上で欠かせないのは、その地理的条件、特に瀬戸内海との密接な関係である。古くから近畿と九州を結ぶ海上交通の要衝に位置し、平安時代には伊予国の国府が置かれるなど、この地は常に海の動きとともにあった。中世には能島村上氏や来島村上氏といった村上海賊がこの海域に勢力を誇り、単なる略奪者ではなく、航海の安全を保障し交易の秩序を支える「海の武士」として存在したという。彼らの優れた航海技術と海域の知識は、後の今治の海事産業の礎となったとも言われている。
決定的な転換点となったのは、江戸時代初期の慶長7年(1602年)に「築城の名手」と称される藤堂高虎が今治城を築いたことだ。関ヶ原の戦いの功績により伊予半国20万石を領した高虎は、それまで居城としていた宇和島城から、瀬戸内海に面した「今張の浦」に新たな城を構えた。今治城は、三重の堀に海水を引き込んだ「日本三大水城」の一つに数えられ、城内に船が直接出入りできる「舟入」を備えていた。これは、単なる防衛拠点としてだけでなく、海上交通の要衝である今治の地の利を最大限に活かした、先進的な海城であった。
高虎は築城と同時に城下町の整備も進め、現在の今治の原型を築いた。城郭と町方は外堀で区分され、碁盤の目状に区画された町には、現在の地名にもその名残が見られる。この時期、今治港の起源となる「港船頭町」が城の北隅に造営され、港町としての機能が確立されていく。高虎の築城は、今治を軍事・経済・交通の結節点として位置づけ、その後の発展の土台を築いたと言えるだろう。
江戸時代、今治地域は綿栽培が盛んになり、「伊予木綿」としてその名を大阪や京都にまで知られる綿織物の一大産地となっていた。しかし明治時代に入ると、安価な輸入木綿や他の産地の製品に押され、伊予木綿は次第に衰退していく。この危機を乗り越えるべく、新たな産業の模索が始まった。
今治タオルの歴史は、明治27年(1894年)に綿ネル業を営んでいた阿部平助が、大阪で出会ったタオルに触発され、綿ネル織機を改造してタオルの製造を始めたことに端を発する。今治の地には、高縄山系を源流とする蒼社川の伏流水や石鎚山からの地下水など、重金属が少なく硬度の低い良質な水が豊富にあった。この軟水が、タオルの晒しや染めに適しており、繊細で柔らかな風合いや鮮やかな色合いを生み出す基盤となった。大正時代には高級なジャガード紋タオルが生産されるようになり、今治は日本有数のタオル産地へと成長していく。
一方、海運業も明治期に新たな展開を見せた。幕末から明治初期にかけて、飯忠太郎(後に忠七と改名)が押切船(手漕ぎと帆走を併用する早船)を用いて今治・大阪間の定期航路を開設した。彼は今治の木綿布の販路を拡大し、大阪から文化の先端を行く品々を今治にもたらしたという。今治港は、明治初期には小規模な港に過ぎなかったが、商工業の発展に伴い貨物量が増加し、大正10年には重要港湾に、翌年には四国初の開港場に指定された。
造船業もまた、海運の発展と深く結びついていた。波止浜湾は波穏やかな天然の良港であり、潮待ちのために寄港する船舶の修繕から、造船業が発達したと言われている。明治35年には本格的なドックを備えた会社が創業し、今治の海事産業の基盤が築かれていった。このように今治は、良質な水資源と古くからの綿業の土壌がタオル産業を育み、瀬戸内海の海上交通の要衝としての立地が海運・造船業の発展を促す、多角的な産業構造を形成していったのである。
今治の街にタオルと造船という二つの主要産業が集積した背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。一つは、先述した地理的条件と天然資源の恵みである。瀬戸内海の穏やかな気候と、蒼社川の伏流水に代表される良質な軟水は、繊細な織物であるタオル製造に不可欠な要素であった。この水は染めや晒しに適しており、今治タオルの品質を支える根幹となっている。
もう一つは、古くからの「海」との関わりが、造船・海運業の発展に直接つながったことだ。来島海峡という日本三大急潮の一つに数えられる難所を抱える一方で、波穏やかな波止浜湾のような天然の良港も有していた。潮待ちの港として船が立ち寄る中で、自然と船舶の修理や建造の需要が生まれ、船大工の技術が蓄積されていった。今治造船のルーツは1901年に檜垣為治が波止浜湾に檜垣造船所を創業したことに始まるが、南北朝時代にはすでに造船業が発達していたとも言われる。
さらに、今治の海運業者の特異な発展も造船業を後押しした。昭和30年代以降、貨物の急増に伴い、京阪神の海運業者(オペレーター)が全国に船腹を求めるようになると、今治地域を中心とする愛媛の船主(オーナー)がこれに応じた。今治では、中央のオペレーターに船舶を貸し渡すことを業務とする「オーナー」の比率が高く、これが地元の造船所への安定した発注につながった。特に、戦後の経済復興期には、資金力のない船主でも船を建造できるよう、月賦払いの仕組みが導入され、シリーズ建造の拡大とともに今治の造船産業は大きく成長したという。
このように、タオル産業は良質な水と綿業の伝統、造船・海運業は瀬戸内の地理的条件と海運業者の独自のビジネスモデルという、それぞれ異なるが地域固有の強みを活かしながら、互いに補完し合う形で発展を遂げてきたのである。
今治が海とものづくりの街として発展してきた道のりは、他の地域と比較することでその特異性がより明確になる。例えば、日本三大水城に数えられる高松城や中津城も海水を引き込んだ堀を持つ海城だが、今治城のように城内に直接船が入れる「舟入」を備えていた点は特徴的である。これは、今治が単なる防衛拠点ではなく、築城当初から海上交通の要衝としての機能が重視されていたことを示唆している。
また、タオル産業においても今治は独自の道を歩んできた。大阪や泉州地域もタオルの主要産地であるが、今治タオルの品質を支える「名水晒し」の伝統は、高縄山系からの豊富な軟水という、今治固有の自然条件に深く根ざしている。この良質な水が、タオルの吸水性や柔らかさといった特徴を決定づけ、他の産地との差別化要因となっている。明治時代には大阪で偶然出会ったタオルに触発されて今治での製造が始まったとされるが、その後の発展は、この地の水資源と、阿部平助や中村忠左衛門といった先駆者の革新的な取り組みによって支えられてきた。特に、中村忠左衛門が白いタオルが主流だった時代に先染めの縞柄タオル「文化織」を考案したことは、デザイン性の追求という点で画期的であった。
造船業においても、今治は「造船長屋」と称されるほど中小の造船所が集積し、特定の巨大企業だけではない多層的な産業構造を築いている。これは、戦後の造船不況期に多くの企業が再編される中で、今治造船を中心としたグループ化が進んだ一方で、地域全体で技術とノウハウを共有し、多様な船種に対応できる体制を維持してきた結果とも言える。日本全体の新造船建造量の約3割を今治造船グループが担い、国内シェア1位を20年以上維持している事実は、この集積と連携の強さを示している。他の造船所が大規模化や特定船種への特化を進める中で、今治は「フルライン戦略」やM&A戦略を駆使しつつ、地域のオーナー企業としての独自の成長モデルを確立したと言えるだろう。
現代の今治は、「日本最大の海事都市」としてその存在感を放っている。今治市には14社の造船所と160社の関連企業が集積し、日本の造船・海運産業の約30%を担っている。特に外航船の保有隻数は約1,100隻に及び、これは国内全体の約46%を占めるという統計もある。今治造船は国内新造船建造量で20年以上トップを維持し、世界でも有数の造船メーカーへと成長した。そのグループは瀬戸内海沿岸に10カ所の建造拠点を持ち、多様な船種を効率良く建造する体制を整えている。
一方、今治タオルは2006年頃に安価な海外製品の流入により生産量が激減する危機に直面した。しかし、クリエイティブディレクターの佐藤可士和氏が手掛けた「今治タオルプロジェクト」により、ブランド戦略を強化し、その品質基準の厳しさや吸水性、手触りの良さを前面に出すことで見事に再生を遂げた。現在では国内生産タオルの5割以上を占め、世界に誇るブランドとして国内外で人気を集めている。タオルソムリエ資格試験制度の導入など、品質と知識の普及にも力を入れているのが特徴だ。
しまなみ海道の開通は、今治に新たな観光と物流の動脈をもたらした。しかし、同時に海上交通の利用減少という課題も生じている。かつては多数のフェリー・高速船航路が阪神や山陽、芸予諸島を結んでいたが、橋の開通により国内定期航路は縮小傾向にあるのが実情だ。こうした変化に対応するため、今治市は「海事都市構想」を掲げ、海をキーワードにした独自の歴史や文化、産業を幅広く捉え、地域の持続的な発展を目指している。コンテナ航路の振興や、臨海土地造成による関連企業の誘致など、港湾機能の再構築も進められている。
今治の街の歴史を紐解くと、そこには常に「海」という要素が中心にあったことがわかる。古代の海上交通の要衝から、藤堂高虎が築いた海水を引き込んだ城、そして現代の造船・海運業、さらにはタオルの品質を支える水資源に至るまで、今治の発展は海と切り離すことができない。
かつて村上海賊がこの海域の秩序を保ち、飯忠太郎が押切船で新たな航路を開拓したように、今治には常に時代の変化を捉え、海を舞台に新たな価値を創造しようとする気質が息づいている。造船業におけるオーナー企業の強固なネットワークや、タオル産業が品質とブランド力で再生を遂げた背景には、単なる経済合理性だけでなく、この地で培われた「海」に生きる人々の粘り強さや、手仕事へのこだわりがあるように思える。
今治の歴史は、瀬戸内海の恵みを最大限に活かし、時に荒波を乗り越えながら、人々の知恵と努力によって築き上げられてきた。その結果、海を介した交易とものづくりが融合した、他に類を見ない「海事都市」としての姿を今に伝えている。巨大な船が建造されるドックの音と、柔らかなタオルが織りなす静かなリズム。この対照的な二つの風景の中に、今治が歩んできた道のりと、これからも続くであろう未来の気配を感じ取る。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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