2026年5月16日
相撲の宗家・吉田司家はなぜ熊本へ移り、横綱制度を創設したのか
800年以上の歴史を持つ相撲の宗家・吉田司家は、宮中相撲の衰退を受け、江戸時代初期に肥後国熊本藩主・細川綱利に召し抱えられ移住した。熊本で家名を確立し、横綱制度を創設するなど相撲界の権威を築いた経緯を解説する。
熊本の地に相撲の宗家が根付いた理由
熊本市内の藤崎八旛宮参道を歩くと、現代的なマンションの脇に「吉田司家跡」と刻まれた石碑が立つ。800年以上の歴史を持つ相撲の司家、いわゆる家元が、なぜ遠く離れたこの九州の地にその本拠を構え、長く相撲界を統括してきたのか。この意外な接点は、相撲という国技がどのように形作られ、その権威が保たれてきたのかという、歴史の深層を問いかける。
越前から肥後へ、権威の漂流
吉田司家の歴史は、平安末期から鎌倉初期にかけて、後鳥羽天皇が宮中の相撲の儀式「節会相撲」を復興させた際に始まる。相撲の故実例式に詳しかった越前国の吉田家次が相撲行司官に任じられ、「追風」の号と団扇を賜ったのが、吉田司家の淵源とされる。以来、吉田家は代々相撲の宗家として「追風」を名乗り、朝廷の行事を取り仕切ってきた。
しかし、時代が下り、宮中での節会相撲が中断されると、吉田家は家道の失墜を危惧するようになる。相撲は、古事記や日本書紀にも登場する力比べの神話に起源を持つが、その形式は時代とともに変遷してきた。特に戦国時代には織田信長が各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えるなど、武将たちの娯楽や軍事訓練の一環として発展した。このような武家相撲の台頭は、宮中行事としての相撲を司る吉田家にとって、新たな活路を見出す必要があったことを示唆する。
転機が訪れたのは江戸時代初期、15代追風吉田長助の時代である。朝廷節会相撲が久しく行われなくなったことに危機感を抱いた長助は、関白二条光平の内願を得て、武家奉公を願い出る。そして寛文元年(1661年)、肥後国熊本藩の三代藩主・細川綱利に召し抱えられることになったのだ。これにより、吉田司家は京都から遠く離れた肥後国、現在の熊本へと移り住むこととなる。
細川家の庇護と相撲の全国統制
吉田司家が熊本へ移った背景には、細川綱利という藩主の存在が大きく影響している。綱利は大の相撲愛好家であり、藩内に「御手木組(おてこぐみ)」という相撲屋敷を設けて多くの力士を育成していた。このような藩主の相撲に対する熱意と理解が、吉田司家を招き入れる大きな動機となったと考えられる。細川家は戦国時代に細川藤孝(幽斎)が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人に仕え、関ヶ原の戦いを経て肥後熊本54万石を領する大名となった家柄である。その細川家が、相撲の伝統と故実を継承する吉田司家を庇護することは、藩の文化的な権威を高める上でも意味があっただろう。
熊本に移った吉田司家は、細川家の家臣という立場を得ながら、相撲の宗家としての地位を確立していく。特に19代追風吉田善左衛門は、天明6年(1786年)に「吉田追風家」という行司最高地位を確立し、全国の行司の家を統制した。さらに寛政元年(1789年)には、現在の相撲界の最高位である「横綱」を考案し、谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱免許を授与した。この横綱制度の創設は、吉田司家が単なる行司の家元に留まらず、相撲界全体の秩序を定める権威としての役割を担っていたことを示している。将軍上覧相撲の様式や武家相撲、勧進相撲などの作法も、19代追風によって確立制定されたものだ。
吉田司家は、熊本の地から全国の力士や行司を支配し、横綱の免許を与えるなど、相撲界の頂点に君臨した。熊本城内で横綱免許の審議会が行われ、細川藩主が事実上の審議委員長を務めたという記録も残されている。これは、吉田司家が細川藩の庇護のもと、その権威を確立し、相撲という文化を全国的に統制する拠点として熊本が機能していたことを物語っている。
伝承の地と権威の分散
吉田司家が熊本に移り、相撲の宗家として全国的な権威を確立した経緯は、他の伝統文化や武術が特定の地に根付いた事例と比較すると、その特異性が浮かび上がる。例えば、日本の相撲の起源には諸説あるが、日本書紀に記された野見宿禰と當麻蹶速の力比べの伝説から、奈良県桜井市が出雲地区の穴師坐兵主神社付近を「相撲発祥の地」としているように、特定の地域が「発祥の地」として認識されるケースは少なくない。しかし、吉田司家の場合、相撲の故実を伝える家として越前から京都を経て熊本へと移り、その地で「横綱」という制度を創出し、相撲界の権威の中心となった点は、発祥地とは異なる「伝承と統制の地」としての役割を熊本が担ったことを示している。
また、武術の流派が特定の藩に召し抱えられ、その地で発展を遂げた事例は数多くある。熊本藩自体も尚武の気風が強く、細川重賢の時代には藩営教育機関「時習館」を創設し、多様な武術流派が奨励された。吉田司家が細川藩に仕えたことも、こうした武術を重んじる藩の風土と合致していたと言える。しかし、吉田司家が単なる武術の一流派としてではなく、相撲という競技全体の規範を定め、最高位を免許する権限を確立した点は、他の事例とは一線を画する。彼らは、天皇から委ねられた宮中相撲の故実を背景に、武家社会の相撲文化と結びつき、最終的に全国的な相撲界の権威を熊本の地で築き上げたのだ。
その権威は絶大なものであったが、近代以降、特に日本相撲協会の設立とともに、その関係は徐々に変化していく。横綱免許の権限は、昭和26年(1951年)以降、日本相撲協会に譲られ、吉田司家は形式的な存在となっていった。かつては新横綱が吉田司家を訪れ、土俵入りを行うのが習わしであったが、これも昭和61年(1986年)に事実上廃止された。相撲という国技が、特定の家元から国民的なスポーツへとその性格を変える中で、権威の中心もまた分散し、現代の日本相撲協会へと移行していったのである。
いま、石碑が語るもの
現在の熊本市北千反畑町、藤崎八旛宮参道脇に立つ「吉田司家跡」の石碑は、かつてその地に相撲の宗家が存在し、全国の相撲界を統括していた歴史を静かに伝えている。かつて吉田司家の屋敷があった場所には、現在マンションが建ち、往時の面影はない。宝物館に所蔵されていた相撲関係の貴重な資料や美術品の行方も、日本相撲協会が「現在どうなっているか、まったく分からない」と述べるなど、その多くが散逸したとされる。
吉田司家は、多額の借金問題など司家の経営上の不祥事により、1986年に日本相撲協会との関係を全面的に中断することになった。これにより、横綱授与の儀式は日本相撲協会に委ねられ、司家が学生横綱に絹手綱を授与する儀礼も事実上廃止された。相撲界における吉田司家の権威は、かつての絶大なものから、歴史的背景を物語る象徴としての存在へと変化したのだ。
しかし、熊本の地には、吉田司家が築いた相撲文化の痕跡が今も残る。例えば、かつて熊本市内の光琳寺通りから下通りにかけての一帯は「相撲町」と呼ばれていた時期がある。これは、細川綱利が吉田司家を招き入れた後、この界隈に力士など相撲関係者が多く住むようになったことに由来する。また、熊本出身の力士も多く、元十両の肥後ノ城政和など、現代にも相撲の伝統が息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
出典
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