2026/6/11
気多若宮神社はなぜ年に一度、数百人の裸男がぶつかり合う祭りに変わるのか

飛騨古川の気多若宮神社について詳しく教えてほしい。
キュリオす
飛騨古川の気多若宮神社は、能登からの分霊を起源とし、金森氏の庇護を受けてきた。毎年4月に行われる古川祭では、数百人の裸男がぶつかり合う「起し太鼓」と、精緻な屋台行列が披露され、地域の静と動の二面性を象徴している。
飛騨古川の町を歩くと、白壁土蔵の並ぶ瀬戸川のせせらぎや、軒を連ねる町家が静かな趣を醸し出す。しかし、毎年春、この町には全く異なる熱気が満ちる。その中心にあるのが、町を見下ろす高台に鎮座する気多若宮神社である。なぜこの静謐な町が、年に一度、数百の裸男たちがぶつかり合うような激しい祭りへと変貌するのか。その問いの根源は、この古社の歴史と、飛騨の地に根付いた人々の営みの中に求められるだろう。
気多若宮神社の創建は定かではないが、古くは能登国一宮である気多大社(石川県羽咋市)から大己貴命(おおなむちのかみ)、すなわち大国主命の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。このことは、遠く離れた能登と飛騨の間に古くからの信仰のつながりがあったことを示唆する。平安時代には中央にもその存在が知られ、貞観15年(873年)に従五位下、元慶5年(881年)には従五位上に列せられ、国史に記載される飛騨十神の一つにも数えられたという。
安土桃山時代の天正13年(1585年)、この地に増島城を築いた金森可重は、城の北東に位置する気多若宮神社を鬼門鎮守として篤く崇敬した。社殿の造営や社領の寄進が行われ、万治3年(1660年)には飛騨高山藩四代藩主の金森頼直が社殿を再建している。 この金森氏の庇護のもと、杉本神社が合祀され、「杉本大明神」あるいは「杉本さま」と親しまれるようになった時期もある。 明治維新後の神仏分離令を経て、明治3年(1870年)に現在の「気多若宮神社」へと社号を改称し、郷社、後に県社へと列せられていった経緯がある。
気多若宮神社の例祭である「古川祭」は、毎年4月19日と20日の二日間にわたって催される。この祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定され、さらに2016年にはユネスコ無形文化遺産にも登録されたことで知られる。 祭りの構成は、大きく分けて三つ。神輿行列、絢爛豪華な屋台行列、そして祭りの開始を告げる勇壮な「起し太鼓」である。
特に異彩を放つのが「起し太鼓」だ。19日の深夜から未明にかけて行われ、数百人のさらし姿の男たちが、大太鼓を乗せた櫓を担ぎ、町中を練り歩く。この大太鼓を打ち鳴らすのは、櫓の上にまたがった二人の男たちである。 その周囲では、各組の「付け太鼓」と呼ばれる小太鼓が、この大太鼓の櫓に近づき、自らの太鼓を「付ける」ことを目指して激しく攻防する。 付け太鼓を櫓の背後から「付ける」ことが名誉とされ、その先陣争いは壮絶なもみ合いとなる。 文献に初めて登場するのは天保2年(1831年)とされるこの行事は、もともと本祭の開始を町中に告げ、人々を起こす「目覚まし太鼓」が独立した形へと発展したものだという。
一方、20日の本楽祭で町を巡行する屋台行列は、その「動」とは対照的な「静」の様相を呈する。飛騨の匠の技が凝らされた九台の屋台は、京都のからくり人形や江戸からもたらされた意匠が融合し、精緻な彫刻や装飾で彩られている。 夜には提灯が灯され、昼間とは異なる幻想的な姿を見せる。 これらの屋台は、安永5年(1776年)の文献にその名が見える。 神輿行列は、神様を一年中社殿に留めておくのは忍びないとして、御旅所へお連れし、町内を巡幸して氏子の平穏を祈願する意味合いを持つ。
古川祭の「起し太鼓」は、その勇壮さから「日本三大裸祭り」の一つに数えられる。 日本各地には裸の男たちが参加する祭りが多く存在するが、その多くは神事における潔斎や、共同体の結束を強める役割を担っている。例えば、岡山県の西大寺会陽(えよう)や、福岡県の筥崎宮放生会(ほうじょうや)の裸祭りなども、それぞれに独自の背景を持つ。しかし古川祭の起し太鼓は、ただ裸になるだけでなく、櫓を担ぎ、付け太鼓が激しくぶつかり合うという、明確な競争原理と「ヤンチャ」と称される飛騨人の気質が色濃く反映されている点が特徴的だ。
また、屋台行事という点では、ユネスコ無形文化遺産に登録されている「山・鉾・屋台行事」の構成要素の一つでもある。 京都の祇園祭の山鉾巡行や、高山祭の屋台行事など、全国には豪華な曳き山を伴う祭りが多く見られる。これらの祭りの多くは、江戸時代以降に町人文化の成熟とともに発展し、地域の財力や技術力を示す場として、また共同体の誇りを象徴するものとして継承されてきた。古川の屋台もまた、飛騨の匠の技術と、外部からもたらされた文化が融合することで、独自の洗練された美意識を確立していったのである。 他の地域の大規模な曳き山祭りが都市の経済力や権力を背景に発展したのに対し、古川の屋台は、山間部に位置しながらも独自の交易と匠の技を背景に、堅固な町人文化の中で育まれた点が注目される。
飛騨古川の町を見下ろす高台に位置する気多若宮神社は、現在も地域の人々の信仰を集める場所である。JR飛騨古川駅から徒歩圏内にあり、参道には御神木の大クヌギがそびえ立つ。 近年では、特定のアニメ映画の舞台モデルの一つとしても知られるようになり、国内外から「聖地巡礼」に訪れる観光客の姿も珍しくない。
古川祭は、人口減少が進む地方において、その存続が課題となる祭りも少なくない中で、今もなお活発に継承されている。その背景には、祭りの本質を変えずに、時代に合わせて柔軟に変化を受け入れる氏子たちの姿勢がある。例えば、かつて人が担いでいた起し太鼓の櫓には、現在では車輪が取り付けられ、人数が減っても巡行が可能になるよう工夫が凝らされている。 飛騨市では「飛騨古川まつり会館」のような施設も設けられ、一年を通して祭りの魅力を伝える活動も行われている。 こうした取り組みは、単なる観光資源としてではなく、地域固有の文化を守り、次世代へと繋ぐための現実的な努力を示している。
気多若宮神社と、その例祭である古川祭は、飛騨古川という土地の二面性を象徴しているように見える。普段の静かで落ち着いた町並みの背後に、年に一度、爆発的なエネルギーを解き放つ祭りの熱狂が隠されている。能登からの分霊という遠い起源を持ちながら、金森氏の庇護、そして飛騨の匠の技と「ヤンチャ」な気質が交錯することで、この地固有の祭礼が形成されていった。
「起し太鼓」の激しい攻防は、単なる乱痴気騒ぎではなく、神事としての意味合いや、共同体の中での名誉をかけた真剣な争いである。 また、屋台に見られる精緻な装飾やからくりは、地域の技術と文化の粋を集めた奉納の形だ。現代において、櫓に車輪を付けるといった変化は、伝統の「形」の一部が移り変わっても、その根底にある「熱量」や「精神」が脈々と受け継がれている証拠だろう。気多若宮神社は、そうした飛騨古川の町が持つ、静と動、古と新が共存する姿を、高台から静かに見守り続けているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。