2026/6/1
霞ヶ浦と水戸街道が育んだ土浦の歴史

土浦のあたりの歴史を詳しく教えて欲しい。古代から順に。
キュリオす
土浦の地は縄文時代から人々が暮らし、霞ヶ浦の恵みと水戸街道の交差により発展した。中世の城下町から江戸時代の水陸交通の要衝、近代の鉄道開通、そして軍都としての顔を持つまで、水辺と陸路が町の歴史を形作ってきた。
霞ヶ浦の広大な水面を眺めていると、その風景が太古の昔から変わらずそこにあったかのような錯覚に陥る。しかし、この湖の形も、その畔に築かれた土浦の町の姿も、気の遠くなるような時間をかけて変化してきた。なぜこの地が、水辺の交通拠点として、また城下町として発展し、近代以降もその役割を保ち得たのか。その問いを抱きながら、土浦の歴史を紐解いていく。
土浦の地には、約3万年前の旧石器時代から人々が暮らしていたとされる。縄文時代には、現在の霞ヶ浦が海とつながった大きな入り江となり、豊かな海の幸、山の幸に恵まれた土地で集落が形成された。上高津貝塚に見られるように、この時期の霞ヶ浦沿岸には大規模な貝塚が点在し、当時の人々の生活を今に伝えている。
古墳時代、4世紀から7世紀にかけては、霞ヶ浦周辺でも古墳が築造され、大和王権と結びつく有力な豪族が出現した。霞ヶ浦は、720年代に編纂された『常陸国風土記』において「流れ海」と記され、塩を生産し、多くの海水魚が生息する内海であったことが示されている。その後、鬼怒川や小貝川による土砂の堆積が進み、海水の流入が妨げられることで、霞ヶ浦は汽水湖としての性格を強めていった。15世紀から16世紀頃には、汽水域に生息するヤマトシジミの貝殻が大量に堆積しており、当時の環境を物語る。
中世に入ると、律令制の弛緩とともに武士が台頭し、常陸国南部では小田氏が勢力を広げた。土浦の地名が歴史資料に初めて登場するのもこの頃で、京都の東寺の荘園「信太荘」の一部として記録されている。土浦城は室町時代の永享年間(1429〜1441年)に、小田氏の家臣である若泉三郎によって築かれたのが始まりとされ、霞ヶ浦の湖上交通の要衝として、また水運の利権を掌握する目的があったと考えられている。戦国時代には、小田氏治が佐竹氏との抗争の中で小田城を失うたびに土浦城に敗走し、ここを拠点として小田城奪還を試みるなど、土浦城は常南諸城の中核として戦略的に重視された。
江戸時代に入ると、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、藤井松平信一が3万5千石で土浦に入り土浦藩が立藩した。松平信一は土浦城と城下町の本格的な整備に着手し、水戸街道を城下に取り込んだ。その後、西尾氏、朽木氏と藩主は変遷するが、寛文2年(1662年)に土屋数直が1万石で土浦城主となり、以降、土屋氏が明治維新まで約200年間、10代にわたって土浦藩を治めた。土屋政直の代には、老中として徳川綱吉以降4代の将軍に仕え、所領は9万5千石にまで拡大した。
江戸時代の土浦は、水戸街道の宿場町「土浦宿」として、また霞ヶ浦水運の拠点として発展した。水戸街道は江戸と水戸を結ぶ重要な幹線道路であり、土浦宿は千住宿から11番目の宿場であった。宿場内には本陣が複数置かれ、旅籠や問屋が軒を連ねた。特に水運は、霞ヶ浦、北浦を経て利根川に入り、江戸湾に至る重要な物流ルートであった。年貢米や醤油、油、木材などが江戸へ運ばれ、江戸からは塩や小間物などが送られてきた。土浦は、霞ヶ浦沿岸の物資集散地として栄え、良質な大豆と麦を原料とする醤油醸造業も発達し、藩の保護のもと江戸へと出荷された。城下町は水堀が縦横に走り、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから「亀城」の異名を持つ。度重なる火災に見舞われながらも、町は再建され、江戸時代を通じて水戸に次ぐ常陸国第二の都市として繁栄を続けた。
土浦の発展は、霞ヶ浦という大きな水辺の存在と、水戸街道という陸路の交差という二つの要素に大きく支えられてきた。こうした「水陸交通の要衝」という条件で栄えた都市は、日本各地に見られる。例えば、琵琶湖の水運と東海道が交差する大津や、淀川水運と京街道が結びつく大阪などもその例だろう。
しかし、土浦の霞ヶ浦水運には、いくつかの特徴がある。まず、霞ヶ浦が海跡湖であり、時代とともに汽水湖から淡水湖へと変化していった点だ。この変化は、利用できる水産資源や、水運の形態にも影響を与えたはずである。また、利根川東遷事業以降、霞ヶ浦が奥州と江戸を結ぶ内陸舟運の重要な役割を担うようになったことも大きい。波の荒い鹿島灘を避けるため、那珂湊から内海を通り江戸へ向かうルートが利用され、土浦をはじめとする霞ヶ浦沿岸の河岸が栄えた。これは、外洋に面した港が発達した地域とは異なる、内陸湖ならではの水運の特性を示している。さらに、土浦城が平城でありながら、堀に霞ヶ浦の水を引き込んだ「水城」としての性格を強く持っていたことも特筆される。これは単なる防御機能だけでなく、水運との一体的な運用を意識した構造であった可能性も示唆する。他の城下町が陸路の防衛に重点を置く中で、水辺の利を最大限に活かそうとした工夫がそこにはあった。
明治維新後、廃藩置県を経て土浦藩は土浦県となり、その後茨城県の一部となった。近代化の波は土浦にも押し寄せ、明治28年(1895年)11月には日本鉄道土浦線(現在の常磐線)が土浦駅から田端駅間で開業し、陸上交通の要衝としての地位を確立した。これにより、それまで一泊二日を要した都心までの移動時間が約2時間に短縮され、長距離水運は急速に衰退していった。
大正期には、隣接する阿見町に霞ヶ浦海軍航空隊が発足し、昭和15年(1940年)には予科練習生を教育する土浦海軍航空隊が設置された。これにより土浦は「海軍の町」としての性格を帯び、軍関係者やその家族で賑わったという。太平洋戦争末期には昭和20年(1945年)6月に土浦海軍航空隊が空襲を受け、約300名が犠牲になったが、土浦市街地は本格的な空襲を免れ、戦前の街並みが比較的良好に残された。
戦後は、旧海軍航空隊の跡地が陸上自衛隊駐屯地や学校、病院などに転用され、土浦は茨城県南部の中心都市としての役割を担い続けた。しかし、昭和60年(1985年)のつくば万博以降、つくば市の台頭により、県南の中心としての地位は変化しつつある。現在、土浦市は霞ヶ浦の活用、中心市街地の活性化、人に優しいまちづくりなどを推進し、歴史的資源を活かした観光振興にも力を入れている。
土浦の歴史をたどると、一貫して「水辺」と「陸路」という二つの軸が町の形成と発展に深く関わってきたことがわかる。縄文時代には霞ヶ浦という入り江が生活の基盤となり、中世にはその水辺の利を活かして土浦城が築かれた。江戸時代には、霞ヶ浦水運と水戸街道が交差する水陸交通の要衝として、また城下町として繁栄を極めた。
近代に入り、鉄道の開通が水運の役割を大きく変えたが、土浦が交通の結節点であるという本質は変わらなかった。そして軍都としての顔も持ち、戦禍を乗り越えてきた。今日の土浦では、かつての城下町の面影を残すまちかど蔵や、霞ヶ浦に面した風景が、この町の多様な歴史を静かに語りかけてくる。水辺の恵みと、陸路の交差という地理的条件が、それぞれの時代において異なる形で町の姿を形作ってきたのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。