2026/7/2
神戸ポートアイランドは六甲の山を削ってどうやってできたのか?

神戸のポートアイランドについて詳しく教えてほしい。どういう経緯でできたのか?
キュリオす
神戸港沖合に浮かぶポートアイランドは、六甲山を削った土砂を海に運び造成された。港湾機能拡張のため、狭隘な神戸の地形的制約を乗り越えるべく「山、海へ行く」という壮大な計画で生まれた。
海へ向かった山々の記憶
神戸港の沖合に浮かぶポートアイランドに立つと、どこか不思議な感覚に包まれる。眼前に広がるのは、六甲の山並みと、その手前に広がる市街地。そして足元は、かつて深い海底であった場所だ。自然の地形と、人間の意志が作り出した巨大な人工地盤が、何の違和感もなく共存している。この平坦な広がりが、どのようにして、そしてなぜこの場所に生まれたのか。その問いは、神戸という都市の成り立ちそのものに深く関わっている。
ポートアイランドは、単なる埋め立て地ではない。それは、戦後の日本が直面した経済成長と、それに伴う港湾機能の拡張という、時代の要請に応える形で生まれた巨大なプロジェクトだった。しかし、神戸の地理的条件は、この種の拡張を容易には許さない。背後には六甲山が迫り、市街地は山と海に挟まれた狭い平地に展開する。この制約を乗り越え、いかにして新たな土地を生み出すか。その答えは、山を削り、その土砂を海に運ぶという、壮大な発想の中にあった。ポートアイランドは、神戸が持つ独特の地形と、港湾都市としての宿命が交錯する地点に生まれた、文字通りの「人工の地平」だと言えるだろう。
港湾都市の宿命と開拓の意志
ポートアイランドの構想が具体化し始めるのは、第二次世界大戦後の高度経済成長期にさかのぼる。神戸港は、明治の開港以来、日本の国際貿易を牽引する重要な拠点であり続けたが、戦後の復興と経済発展に伴い、その機能は限界に達しつつあった。特に、1960年代に入ると、国際海上輸送の主役が従来の在来船からコンテナ船へと移行し始め、大型のコンテナ船に対応できる水深の深いバースと、広大なコンテナヤードが必要になったのである。既存の港湾施設では、この急速な変化に対応しきれないことは明らかだった。
神戸市は、この新たな時代の要請に応えるべく、大規模な港湾整備計画に着手する。しかし、神戸の地形は、この計画に大きな制約を課した。六甲山系が海岸線まで迫るため、平坦な土地が極めて少ない。このため、大規模な港湾施設を建設するための用地確保が困難であった。そこで浮上したのが、沖合に人工島を建設するという大胆な構想である。このアイデアは、神戸港の将来を見据えた長期的な視点から生まれたもので、単なる港湾拡張に留まらない、都市全体の発展を見据えたものだった。
計画の中心にあったのは、当時の神戸市長、原口忠次郎である。彼は「山、海へ行く」というスローガンを掲げ、六甲山を削ってその土砂を海に運び、人工島を造成するという壮大なプロジェクトを推進した。この構想は、単に土地を造成するだけでなく、新たな都市空間を創造するというビジョンを伴っていた。港湾機能だけでなく、居住地、商業施設、そして国際交流の拠点としての役割も持たせることで、神戸の都市機能を飛躍的に向上させることを目指したのである。
1966年、ポートアイランドの建設が着工される。これは、当時の日本における最大規模の埋め立て事業であり、その規模と技術的な挑戦は前例のないものだった。このプロジェクトは、神戸の地理的制約を逆手に取り、山と海という二つの自然要素を大胆に結びつけることで、新たな国土を創造するという、当時の日本の経済成長と技術力を象徴する事業となった。港湾都市としての神戸の宿命と、未来への開拓の意志が、この巨大な人工島の建設に凝縮されていたと言えるだろう。
「山、海へ行く」という選択
ポートアイランドの建設を語る上で欠かせないのが、そのユニークな土砂の調達方法と運搬システムである。神戸の市街地が山と海に挟まれた狭い土地であるという地理的制約は、同時に、埋め立てに必要な大量の土砂を、比較的近距離の山間部から調達できるという利点も生んだ。この「山、海へ行く」という発想は、単なるスローガンではなく、具体的な工法として実現された。
建設に際しては、六甲山系の高倉山や鉢伏山といった山々が選定され、そこで土砂が採取された。採取された土砂は、ベルトコンベヤーシステムによって、直接埋め立て現場へと運搬されたのである。このベルトコンベヤーは、総延長14.5kmにも及ぶ巨大なもので、山から市街地を越え、海上の埋め立て地までを結んでいた。これは、当時の土木技術の粋を集めた画期的なシステムであり、大量の土砂を効率的かつ環境負荷を抑えながら運搬することを可能にした。通常、大規模な埋め立て工事では、ダンプトラックによる土砂運搬が一般的だが、市街地を横断するダンプトラックの往来は、交通渋滞や騒音、排気ガスといった問題を引き起こす。ベルトコンベヤーシステムは、これらの問題を回避し、工事の円滑な進行に貢献した。
この大規模な土砂採取は、単に埋め立て材を得るためだけではなかった。山を削ることで、山麓には新たな宅地や産業用地が創出され、都市の発展に寄与するという、一石二鳥の効果も狙われていた。削られた山肌は、造成後に緑化され、公園や住宅地として整備されたのである。つまり、ポートアイランドの建設は、単なる港湾機能の拡張に留まらず、神戸市の都市構造全体を再編するプロジェクトとして位置づけられていた。
また、埋め立てに際しては、ケーソン工法と呼ばれる技術が採用された。これは、巨大なコンクリート製の箱(ケーソン)を陸上で製作し、それを現場まで曳航して沈め、その中に土砂を投入していく方法である。この工法により、短期間で安定した地盤を造成することが可能となり、波浪の影響を受けやすい外洋での大規模埋め立てに適していた。これらの先進的な技術と、山から海への壮大な土砂運搬システムが組み合わさることで、ポートアイランドという巨大な人工島は、およそ15年の歳月をかけて、その姿を現していったのである。
大規模埋め立て、その普遍と固有
人工島の建設や大規模な埋め立て事業は、世界の各地で港湾機能の拡張や都市開発のために行われてきた。日本国内を見ても、関西国際空港や中部国際空港といった海上空港、あるいは東京湾岸の埋め立て地群など、その事例は枚挙にいとまがない。しかし、神戸のポートアイランドには、他の事例と異なるいくつかの特徴が見られる。
例えば、関西国際空港は、大阪湾の沖合に建設された世界初の完全人工島海上空港であり、その広大な面積と、軟弱地盤への対応技術は特筆すべきものがある。地盤沈下対策として、サンドドレーン工法やプレロード工法といった先進技術が大規模に導入され、航空機の離着陸に耐えうる強固な地盤が構築された。その建設は、空港という単一機能に特化し、環境アセスメントや漁業補償など、多岐にわたる調整を経て進められた。
これに対し、東京湾の埋め立て地は、江戸時代からの歴史を持つ。近代以降も、京浜工業地帯の形成を支え、工業用地や港湾施設、さらには都市機能の一部として発展してきた。こちらは、多摩川や荒川の河川堆積物や、都市の建設残土などを利用した、より漸進的な埋め立ての歴史を持つ。複数の用途が混在し、時間とともにその姿を変えてきた経緯がある。
ポートアイランドの場合、その最大の特徴は、埋め立て材の調達方法にある。前述の「山、海へ行く」というコンセプトは、他の大規模埋め立て事業ではあまり見られない、神戸固有の解決策であった。六甲山の土砂を大規模に採取し、ベルトコンベヤーで運搬するという方法は、神戸の地形的制約を逆手に取ったものであり、同時に、内陸部の開発と港湾開発を一体的に進めるという、都市計画上の合理性も持ち合わせていた。関西国際空港が遠隔の海上から土砂を調達し、東京湾が河川からの土砂や都市の残土を利用したのに対し、ポートアイランドは、都市のすぐ裏手にある山を「資源」として活用したのである。
また、ポートアイランドが単なる港湾施設に留まらず、当初から住宅地や商業施設、国際交流施設などを複合的に配置する「港湾都市」として計画された点も、他の埋め立て事業とは一線を画す。これは、単に貨物の積み下ろしを行う場としてだけでなく、人々が生活し、働き、交流する場としての機能を人工島に持たせようという、先駆的な試みだった。この多機能性は、その後の日本の人工島開発にも影響を与えたと言えるだろう。
変貌を続ける人工の地平
完成から半世紀近くが経過した現在のポートアイランドは、当初の計画からさらにその姿を変え、多様な機能を持つ複合的な都市空間へと進化を遂げている。かつてはコンテナ埠頭が主役であったが、現在では、先端医療研究、大学教育、そして居住機能が有機的に結合した地域となっている。
その象徴が「神戸医療産業都市」の形成だろう。ポートアイランドには、理化学研究所計算科学研究センター(スーパーコンピュータ「富岳」が設置されている)、神戸大学医学部附属病院、先端医療センターなど、国内外の著名な研究機関や医療機関が集積している。再生医療や創薬研究といった分野で世界をリードする拠点を目指し、多くの研究者や企業が日々活動している。これは、阪神・淡路大震災からの復興過程で、神戸市が新たな都市の核として医療・健康分野に特化する戦略を打ち出した結果でもある。
また、ポートアイランド内には、神戸学院大学や兵庫医療大学、神戸女子大学といった複数の大学がキャンパスを構え、学生たちが集う活気あるエリアとなっている。これらの教育機関は、医療産業都市との連携も図りながら、次世代の人材育成に貢献している。ポートアイランドと三宮を結ぶ新交通システム「ポートライナー」は、これらの施設を結ぶ重要な交通インフラとして機能し、多くの通勤・通学者、来訪者を運んでいる。
一方で、本来の目的であった港湾機能も依然として重要だ。神戸港は、国内有数のコンテナ取扱量を誇る国際拠点港湾であり、ポートアイランドのコンテナターミナルは、その中核を担っている。しかし、釜山港や上海港といったアジアの巨大港湾との競争は激しく、さらなる機能強化や効率化が求められているのが現状である。
阪神・淡路大震災(1995年)では、ポートアイランドも甚大な被害を受けた。岸壁の損壊や地盤の液状化など、人工島ならではの脆弱性も露呈したが、その後の復旧は目覚ましく、短期間で機能を回復させた。この経験は、人工島の耐震性に関する技術開発を加速させる契機にもなったと言えるだろう。ポートアイランドは、常に変化し、新たな役割を模索しながら、神戸の都市機能の一翼を担い続けている。
巨大な人工地盤が問いかけるもの
神戸のポートアイランドが持つ歴史と現在をたどると、そこには単なる埋め立て事業を超えた、いくつかの示唆が見えてくる。六甲の山を削り、その土砂で海を埋めるという壮大な計画は、当時の技術力と経済成長が結びついた結果であったが、同時に、自然環境に対する人間の介入のあり方を問い直す視点も含まれている。山を削ることで得られた平坦な土地が、新たな都市機能を生み出し、一方で、削られた山肌が再び緑化され、人々の生活空間として利用されるという循環は、自然と人工の境界線を曖昧にする。
この巨大な人工地盤は、神戸という都市が持つ、変化への適応能力と、未来を見通す視点の具体例でもある。港湾都市としての宿命を背負いながらも、時代の変化に応じてその姿を大きく変えてきた神戸は、ポートアイランドという「余白」を自ら生み出すことで、新たな可能性を切り開いてきた。かつてはコンテナ埠頭の拡張という喫緊の課題に応える場であったが、今や医療・研究の最先端をいく知の拠点となり、多様な人々が暮らす生活圏となっている。
ポートアイランドの物語は、都市の発展が常に既存の枠組みに囚われることなく、時には大胆な発想と技術によって、新たな「地平」を創造しうることを示している。それは、自然の制約を乗り越える人間の意志の表れであると同時に、一度作り出した人工の環境が、さらに次の時代の要請に応え、変容し続けるという、都市の持つ発展性のようなものをも感じさせる。この人工の地盤は、完成後もなお、その役割を固定せず、常に未来へと開かれた場所として、神戸の歴史に新たなページを加え続けているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。