2026/6/8
九谷焼の五彩、途絶と再興が織りなす色彩の秘密

九谷焼について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
石川県加賀地方発祥の九谷焼。江戸時代前期に一度途絶えた後、約100年の空白を経て再興した歴史を持つ。その特徴である「九谷五彩」と呼ばれる鮮やかな上絵付けは、どのように生まれ、発展してきたのか。古九谷と再興九谷の歴史、そして有田焼との比較を通して、その色彩の秘密に迫る。
石川県の加賀地方を訪れると、目に飛び込んでくる焼き物の鮮やかさに驚かされることがある。緑、黄、紫、紺青、そして赤。これらの色が器の表面で豪放に、あるいは緻密に組み合わされ、独特の存在感を放つ。それが九谷焼だ。日本の他の焼き物には見られない、この強い色彩と絵付けの魅力はどこから来るのか。なぜ、この北陸の地で、これほどまでに絵画的な陶磁器文化が花開いたのか。その背景には、一度途絶え、再び蘇った歴史と、この土地ならではの条件が複雑に絡み合っている。
九谷焼の歴史は、大きく二つの時期に分けられる。最初の始まりは江戸時代前期、明暦元年(1655年)頃とされる。加賀藩の支藩であった大聖寺藩の初代藩主、前田利治は、領内の九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉九谷町)で磁器の原料となる陶石が発見されたことに着目した。彼は金山開発の錬金の役を務めていた後藤才次郎に命じ、肥前有田で製陶技術を学ばせた後、九谷村に窯を築かせたのが、九谷焼の始まりとされる。この時期に焼かれた磁器は、後世「古九谷」と呼ばれ、その大胆かつ力強い絵付けは日本の色絵磁器の傑作と評価されている。古九谷の様式には、器全体を五彩で塗り埋める「青手」や、中国の祥瑞手を取り入れたものなどがある。しかし、この古九谷の窯は、約50年から60年の活動の後、1700年代初頭に突然閉鎖された。閉窯の理由は、藩の財政難や藩主の代替わりによる政策転換、あるいは幕府からの圧力など諸説あるが、未だ定かではない。この約100年の空白期間を経て、九谷焼は「再興九谷」として再びその命を吹き返すことになる。
再興九谷の動きは、江戸時代後期の19世紀初頭に本格化した。文化4年(1807年)、加賀藩は京都から文人画家の青木木米を金沢に招き、春日山窯を開かせた。これが再興九谷の契機の一つとなる。その後、大聖寺藩の豪商、吉田屋伝右衛門が文政6年(1823年)に九谷村の古九谷窯跡の横に登窯を築き、翌年から九谷焼を焼き始めた。これが「吉田屋窯」であり、古九谷の再興を目指しながらも、赤を使わない「青手」様式で独自の美を確立した。吉田屋窯は交通の便の悪さや冬の積雪のため、後に山代温泉に移転するが、そこでも九谷焼の名で生産を続けた。他にも飯田屋窯、永楽窯、そして明治時代には九谷庄三による「彩色金襴手」など、多様な画風が次々と生まれ、九谷焼の表現は豊かになっていった。特に九谷庄三の作品は、明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会に出品され、「ジャパンクタニ」として海外にその名が知られるきっかけとなった。このように、九谷焼は一度の途絶を経験しながらも、その都度、新たな担い手と技術によって再興され、多様な発展を遂げてきたのである.
九谷焼の最大の特徴は、その鮮やかな「上絵付け」にある。これは、一度素焼きして釉薬をかけた器を本焼きした後、その上に顔料で絵付けを施し、800℃前後の比較的低温で再度焼き付ける技法である。この上絵付けに用いられるのが、「九谷五彩」と呼ばれる五つの色、すなわち緑、黄、紫、紺青、赤だ。これらの和絵具は厚く盛り上げて塗られ、重厚な輝きとガラス質のような艶を生み出す。
この独特の色彩と表現を可能にする要因はいくつかある。まず、九谷焼の素地となる陶石の性質が挙げられる。石川県小松市で採れる「花坂陶石」は、他の産地の陶石に比べて水分を多く吸収し、粒子が絡みやすい特性を持つ。この陶石を砕き、不純物を取り除いて練り上げた坏土は、ガラス質のような滑らかな触り心地を持つ磁器の素地となる。この素地の上に、酸化コバルトを主成分とする青い顔料「呉須(ごす)」で輪郭線を描く「骨描き」が施される。この呉須の線が、五彩の鮮やかな色彩を引き立てる枠組みとなり、作品に奥行きと統一感を与えるのである。
さらに、上絵付けの工程において、顔料の制約が少ないことも多彩な色彩を可能にしている。約800℃という比較的低い温度で焼き付けるため、顔料が変質しにくく、豊かな発色を保つことができる。この技法は、中国陶磁器に起源を持つとされ、九谷焼はその技法を継承しつつも独自に発展させてきたものだ。また、九谷焼の絵付けは手描きで行われるため、細部まで精巧な表現が可能となり、職人の個性や窯元の画風が多様に展開されてきた。この「絵付けを離れては九谷焼を考えられない」と言われるほど、その上絵付けが九谷焼の特色の中核をなしている。
日本の色絵磁器として九谷焼を語る際、しばしば比較対象となるのが、佐賀県の有田焼だ。両者とも「上絵付け」という技法を用いる点で共通するが、その表現には明確な違いがある。有田焼は、日本の磁器発祥の地とされ、その特徴は「染付」と呼ばれる藍色の絵柄と、地色の際立つ白い磁土にある。不純物の少ない白い磁土を高温で焼成することで、清潔感のある丈夫な器が作られる。有田焼が磁器の白さを基調とし、その上に繊細な色絵を重ねるのに対し、九谷焼は「九谷五彩」と呼ばれる重厚な色彩を器全体に大胆に施す傾向が強い。
古九谷の素地は、有田焼の素地と比較して、幾分荒く鉄分を含んで薄黒く沈んだように見えると指摘されることがある。九谷焼の素地が有田焼ほど磁器の白さが際立たなかったため、それを補うように大胆な構図と濃い彩釉で力強く絵付けが発展したという見方もある。また、古九谷の絵付け技法には、素地の粒子が荒いため、全面に濃厚に釉薬を絵付けする「塗埋手」が見られる。これは焼成中に釉薬の流れを防ぐための「骨描き」技法と合わせて、有田の初期色絵磁器には見られない九谷焼独自の伝統技術とされる。
このように、有田焼が素地の美しさを生かしつつ、染付や色絵で洗練された表現を追求したのに対し、九谷焼は、その素地の特性を踏まえ、より絵画的で豪放な上絵付けによって、独自の華やかさを確立していったと言える。同じ「色絵磁器」という枠組みの中でも、それぞれの産地が置かれた地理的・技術的条件、そして美的感覚の違いが、器の表情に異なる個性を与えているのである。
現代の九谷焼は、石川県の加賀市、小松市、能美市、金沢市などを主な産地とし、日用品から美術品まで幅広い作品が制作されている。伝統的な技法を守りつつも、現代のライフスタイルやトレンドに合わせた新しいデザインや商品が開発され、「暮らしの美術品」として提案されているのが現状だ。例えば、「ハレクタニ」シリーズのように、従来の絵柄が際立つ九谷焼とは異なり、形状とデザインのバランスを重視したカジュアルな九谷焼も生まれている。
しかし、現代の九谷焼産業は、いくつかの課題に直面している。職人の高齢化と後継者問題は大きな懸案事項であり、九谷焼技術研修所のような施設が技術の継承に努めているものの、業界全体の底上げが求められている。また、九谷焼の制作に不可欠な原材料、特に粘土や絵具の枯渇や調達の問題も深刻だ。鉛の使用規制などにより、従来の深みのある色彩を出すことが難しくなるなど、原材料の変化が作品の質に影響を及ぼす可能性も指摘されている。
一方で、インターネットやSNSの普及は、窯元や作家が自ら流通ルートを確立し、作品を販売する新たな可能性を広げた。これにより、「産業九谷」としての量産だけでなく、美術工芸的な一品制作活動を行う作家も増え、多様な九谷焼の表現が生まれている。九谷焼は、その歴史の中で幾度も変化を遂げてきたように、現代の課題に向き合いながら、多様な価値観を取り入れ、新たな道を模索しているのである。
九谷焼の歴史をたどると、一度廃窯し、約100年の空白期間を経て再興したという事実に改めて目を向けさせられる。この「二度生きる」という経験が、九谷焼の色彩感覚に多層的な深みを与えたのではないか。最初の「古九谷」が示した豪放な五彩の世界は、謎の終焉を迎えたことで、後世の人々にとって憧れと研究の対象となった。そして、その後の「再興九谷」の担い手たちは、古九谷を模範としつつも、吉田屋窯の青手、宮本屋窯の赤絵細描、九谷庄三の彩色金襴手など、それぞれの時代と場所で独自の画風を確立していった。
この多様な画風の展開は、単なる技術の継承に留まらず、一度途絶えたからこそ、過去に囚われすぎずに新しい表現を追求できた側面も持つ。他の産地のように、途切れることなく続いてきた伝統の場合、様式や技術の革新は漸進的であることが多い。しかし九谷焼は、一度リセットされたことで、その後の再興期に多方面からの影響を積極的に取り入れ、一気に多様な色彩と表現が花開いたのかもしれない。今日、九谷焼の器に宿る色彩の豊かさは、単なる顔料の組み合わせではなく、二つの生きた歴史と、その間に横たわる深い空白の時間が、幾重にも重なり合って形成されたものだと言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。