2026/6/8
加賀温泉郷、四つの湯が集まる理由とは

加賀温泉について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
石川県に位置する加賀温泉郷は、山代、山中、片山津、粟津の四つの温泉地から成る。それぞれの開湯伝説、泉質、景観が異なるこれらが、なぜ一つの温泉郷として呼ばれるようになったのか。その歴史的背景と自然条件を辿る。
石川県の南西部に位置する加賀温泉郷は、単一の温泉地として語られることは少ない。山代、山中、片山津、そして粟津。それぞれが異なる表情を持つ四つの湯が、半径わずか数キロの圏内に集まっている。温泉地の多くが単独の源泉や特定の景観を核に発展してきたことを思えば、この多様性は異例とも言えるだろう。山あいの渓谷に沿う湯、田園を見下ろす丘陵に開かれた湯、湖畔に白山を望む湯、そして北陸最古の歴史を刻む湯。なぜ、これほどまでに個性豊かな四つの温泉が、この加賀の地に寄り集まり、「加賀温泉郷」という一つの名で呼ばれるようになったのか。その背景には、それぞれの湯が辿ってきた独立の歴史と、それらを包み込む地域の自然条件が複雑に絡み合っている。
加賀温泉郷を構成する四つの湯は、それぞれが千年を超える、あるいは数百年の歴史を持っている。その開湯伝説の多くは、霊峰白山への信仰と深く結びついている。
最も古いとされるのは、小松市に位置する粟津温泉である。奈良時代の養老2年(718年)、泰澄大師が白山大権現の霊夢を受け、「粟津なる村に霊泉湧出す。汝、ここにゆきて之を掘り、末代衆生の病患を救うべし」というお告げに従って掘り当てたのが始まりと伝えられている。 この伝説は、粟津が白山信仰の恩恵を色濃く受けた地であることを示唆している。開湯以来、一千三百年もの間、同じ場所で湯を守り続けてきた旅館「法師」は、その歴史の深さを今に伝える存在である。
次いで歴史を刻むのは、加賀市に広がる山代温泉と山中温泉だ。山代温泉は神亀2年(725年)、高僧行基が白山へ向かう途中に、傷ついたカラスが湯で羽を癒しているのを見つけたのが起源とされる。このカラスは、神武天皇を導いたとされる伝説の霊鳥「ヤタガラス」であったという。 山代には、このカラス伝説の他にも、少彦名命の開湯や花山法皇による再発見、さらには前田利長による再興、前田利治による整備といった多様な伝承が残り、その歴史が多層的であることを物語っている。 共同浴場を中心とした「湯の曲輪(ゆのがわ)」と呼ばれる街の構造は、江戸時代から変わらない姿で温泉文化を育んできた。
山中温泉もまた、奈良時代に高僧行基によって発見されたと伝わる。行基が北の空にたなびく紫雲を見つけ、山中に入ると温泉が湧いているのを発見し、「紫雲の湯」と名付けたという。 平安末期には能登の地頭・長谷部信連が再興し、湯宿を開いたとされる。 文明5年(1473年)には、浄土真宗の蓮如上人がこの地を訪れ湯治した記録も残っており、その頃にはすでに共同浴場が存在していたことがうかがえる。 江戸時代には、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中に山中を訪れ、「山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ」と詠み、有馬・草津と並ぶ「扶桑の三名湯」と称賛したという。 この賛辞は、山中温泉の名を全国に広める決定的な要因となった。
これら三つの古湯に対し、最も新しいのが片山津温泉である。その発見は江戸時代承応2年(1653年)、大聖寺藩二代藩主・前田利明が柴山潟の湖底から湧き出る温泉を見出したことに遡る。 しかし、湖底からの湧出という特殊な条件のため、温泉地としての本格的な開発は明治時代に入ってからであった。 技術的な困難を乗り越え、柴山潟の干拓と並行して温泉利用が始まった片山津は、他の三湯とは異なる近代的な発展の道を歩んだのである。
このように、加賀温泉郷の各温泉は、霊峰白山を源流とする信仰と、それぞれの地の有力者や文化人の関与によって、異なる時代に独自の物語を紡いできた。それらの歴史が重なり合い、現在の多角的な温泉郷の姿を形成している。
加賀温泉郷の四つの湯がそれぞれ異なる魅力を放つのは、その成り立ちを規定する自然条件と、そこから湧き出る泉質が多様であるためだ。
まず、共通の背景として挙げられるのは、霊峰白山とのつながりである。白山は、粟津温泉や山中温泉の源泉に影響を与えているとされ、その清らかな水脈が、それぞれの地に独特の湯をもたらしている。 しかし、その後の地形や地質の条件が、各温泉の個性を決定づけた。
粟津温泉の泉質は、純度100%の芒硝泉(ナトリウム-硫酸塩泉)である。 無色透明で肌触りが滑らかであり、血管拡張作用に優れ、神経痛や高血圧症、動脈硬化症などに効果があるとされる。 粟津の宿は全て自家掘りの源泉を持ち、宿ごとに微妙に異なる新鮮な湯を楽しめるのが特徴だ。 これは、各宿がそれぞれ独立した湯脈を確保できるほど、豊富な源泉が湧き出ていることを示している。
山代温泉は、ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉(含石膏−芒硝泉)である。 こちらもきりきずや皮膚病、五十肩などに効能があるとされ、肌に優しい湯として知られる。 山代の「湯の曲輪」と呼ばれる街の中心部には、総湯と古総湯があり、周辺の宿にも引湯されていたため、早くから内湯を持つ宿が多かったとされる。 複数の源泉が点在していたことが、その発展に寄与したと考えられる。
山中温泉の泉質は、カルシウム・ナトリウム-硫酸塩泉(含芒硝-石膏泉)で、ほのかな湯の香りが特徴である。 渓谷沿いに旅館が立ち並ぶ景観は、山中独自の地形が生んだものであり、大聖寺川の清流と豊かな緑に囲まれた環境が、保養温泉地としての性格を強めてきた。 かつては宿に内湯がなく共同浴場を利用するのが一般的であったが、1930年代に町が掘削し配湯を始めてからは各宿でも温泉を楽しめるようになった。
そして、加賀温泉郷の中で異彩を放つのが片山津温泉だ。柴山潟の湖畔に位置し、泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉。 和倉温泉と同様に塩分濃度が高く、無色透明で保温効果に優れ、湯冷めしにくいと言われる。 湖底からの湧出という特殊な条件は、開発を困難にした一方で、柴山潟の雄大な景観と結びつき、他の三湯にはない開放感のある温泉地を形成した。 柴山潟が日に七度色を変えるという景観は、片山津ならではの魅力となっている。
このように、加賀温泉郷の各温泉は、白山からの水脈という共通項を持ちながらも、それぞれの地形や地質、湧出条件の違いによって、泉質、効能、そして温泉地の景観や文化に多様な個性を生み出してきた。これらの条件が偶然にも狭い地域に集積したことが、「加賀温泉郷」という他に類を見ない多様な温泉地群を形成した理由と言えるだろう。
日本の温泉地を巡ると、多くの場合、その土地固有の泉質や景観、あるいは特定の歴史的背景によって特徴づけられていることに気づく。例えば、草津温泉の強酸性の湯と湯畑、別府温泉の多様な地獄と湯量、有馬温泉の金泉・銀泉と古湯の趣など、それぞれが「これぞ」という核を持っている。しかし、加賀温泉郷はそうした単一の核ではなく、四つの異なる温泉地がそれぞれの個性を保ちながら共存している点が特徴的だ。
全国的に見れば、複数の温泉地が集まって「温泉郷」を形成する例は少なくない。箱根や伊豆などがその代表だろう。しかし、加賀温泉郷の場合、それぞれの温泉地が持つ歴史の深さ、泉質の多様性、そして景観の差異が、他の地域に比べて際立っている。例えば、山代温泉の「湯の曲輪」は、共同浴場を中心に旅館や商店が密集する、古くからの温泉街の原風景を今に伝える。 一方、片山津温泉は柴山潟の湖畔に開かれ、開放的な水辺の景観と白山を望む雄大さが魅力である。 山中温泉は鶴仙渓の渓谷美と一体化した、自然との調和を重んじる雰囲気を持ち、粟津温泉は里山の静けさの中に北陸最古の歴史を宿す。
この多様性は、単に地理的な近接性だけでなく、各温泉が独立した歴史の中で独自の発展を遂げてきた結果でもある。山代や山中が古くからの湯治場として共同浴場を中心に栄えたのに対し、片山津は近代の技術によって開発された。 泉質も、硫酸塩泉、塩化物泉、芒硝泉と多岐にわたり、美肌効果や神経痛、冷え性など、それぞれ異なる効能を持つ。 このように、加賀温泉郷は「温泉」という共通項を持ちながらも、その内実はまるで異なるパレットの絵の具のように多彩なのだ。
かつて高度成長期からバブル期にかけて、加賀温泉郷は京阪神圏からの社員旅行や団体慰安旅行のメッカとして賑わった時期があった。 その頃は、温泉の泉質よりも宴会や大規模な収容力が重視される傾向にあったかもしれない。しかし、旅行形態が団体から個人へと変化する中で、各温泉地はそれぞれの「本来の良さ」を見つめ直し、個性化を進めてきた。 この過程で、加賀温泉郷の持つ多様性そのものが、現代において新たな魅力として再評価されることになったのである。それは、画一的な大規模リゾートにはない、それぞれの地に根ざした文化や景観、そして湯の個性を求める現代の旅行者のニーズと合致するものであっただろう。
現在の加賀温泉郷は、その歴史と多様性を現代の旅行体験へと繋げようと、様々な取り組みを行っている。各温泉地が持つ個性を活かしつつ、全体として「加賀温泉郷」というブランドを確立しようとする動きが見られる。
山代温泉では、明治時代の総湯を復元した「古総湯」と、新しく建てられた「総湯」が隣り合い、古き良き温泉文化と現代的な快適さが共存している。 「湯の曲輪」と呼ばれる街並みは、北大路魯山人が滞在し陶芸に目覚めた「魯山人寓居跡いろは草庵」など、文化的な見どころも多い。
山中温泉は、大聖寺川沿いの「鶴仙渓」の景観が最大の魅力だ。 「こおろぎ橋」や「あやとりはし」といった特徴的な橋が架かり、春から秋にかけては渓谷沿いに「川床」が設けられ、自然の中で飲食を楽しむことができる。 山中漆器の産地としても知られ、伝統工芸に触れる機会も多い。
片山津温泉は、柴山潟の湖畔に広がる開放的な景観が特徴だ。 湖畔に立つ総湯は、世界的建築家・谷口吉生が設計したモダンな建築で、「潟の湯」からは柴山潟の湖面と浴槽の水面が一体に見えるような造りになっている。 日に七度色を変えるという柴山潟の眺めや、霊峰白山を望む景観は、他の温泉地にはない魅力である。 また、雪の科学者・中谷宇吉郎の故郷でもあり、「中谷宇吉郎 雪の科学館」は片山津ならではの文化施設だ。
粟津温泉は、北陸最古の歴史を誇る静かな里山の温泉地として、落ち着いた滞在を求める層に支持されている。 全ての宿が自家掘り源泉を持つため、宿ごとに異なる湯を楽しめるのも魅力の一つである。
これらの四つの温泉地を結ぶ周遊バス「キャンバス」が運行されており、旅行者はそれぞれの温泉地を気軽に巡り、多様な文化や景観を体験できるようになっている。 各温泉地の共同浴場を巡る「総湯めぐり」や、街歩きをしながら伝統工芸に触れる「まちあるき」など、滞在型から体験型へと観光のスタイルも多様化している。 かつての団体旅行中心から、個々の旅行者の嗜好に応じた多角的な魅力の提供へと、加賀温泉郷は変化を続けている。
加賀温泉郷の四つの湯は、それぞれが異なる開湯伝説、泉質、そして景観を持つ。粟津の里山に湧く古湯、山代の湯の曲輪に息づく文化、山中の渓谷美と工芸、片山津の湖畔に広がる近代的な眺望。これらは単なる地理的な集合体ではない。それぞれの地が持つ固有の物語が、時間とともに堆積し、多様な温泉文化を育んできた。
この多様性こそが、「加賀温泉郷」という名の真価である。一つの地域に、これほどまでに異なる表情を持つ温泉が共存している例は稀有だ。それは、訪れる者が自身の興味や目的に合わせて、滞在のスタイルを自由に選択できることを意味する。歴史を深く掘り下げたい者は粟津や山代へ、自然の景観に癒されたい者は山中や片山津へ、といったように、加賀温泉郷は画一的な体験ではなく、多角的な選択肢を提示している。
温泉地が観光客のニーズに合わせて変化を迫られる現代において、加賀温泉郷は、個々の温泉地が持つ「らしさ」を保ちながら、全体として豊かな選択肢を提供するという戦略を選んだ。それは、単に効率的な観光ルートを提供するだけでなく、異なる文化や歴史が隣接することで生まれる、地域全体の奥行きを示す試みでもある。加賀温泉郷は、四つの湯がそれぞれの光を放ちながら、互いに響き合うことで、より大きな魅力を形成しているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。